黒澤明「素晴らしき日曜日」を観て。ありありと夢を描く一つの模範的姿として

黒澤明の映画をまとめて観ているのですが、
そのなかで、「素晴らしき日曜日」という映画の話から少し。

貧乏な二人の恋人がお金に困って過ごすという話なのですが、
喫茶店で有り金を使い果たしてしまったあと、
途方に暮れて二人が公園に行き着くというシーンがあります。

暗く落ち込んでいる二人ですが、喫茶店をひらくという夢を彼氏が語り始めて、場が転調していきます。

その際の夢の語り方がとても印象的なものでした。
手振り身振りを使って公園のなかを移動しながら、喫茶店の看板の形や、広さ、間取りをまるで目に見えるかのように説明し始めていきます。
いつしか彼女も共鳴し、二人で一緒に客と店員になりきってシミレーションをしはじめていく。

先ほどまでの沈んだ表情はうってかわり、
輝きの表情となっている二人の姿をみていて、ああこの夢は実現されるのだろう、と思わずにはいられないものでした。
夢を実現するということは、こういう流れで、こういう仕組みで実現されていくのだろうという代表のようなものでした。

つまり、心の底からありありと実現したいものが湧きあがってき、
まるで目の前にあるかのように想像できる。
無理に想像するのではなく、想像することがとてもワクワクしたもので楽しい。

実際の周囲の光景がいかに寂しいものであったとしても、そんなことはかまわず、正確には夢の世界にどっぷりと浸っているがゆえに目に入らない。
むしろ目に見えているのは、自らが描いた夢の世界。

ありありと目の前に広がる世界によって、知らずに声も踊り、体の動きは機敏となり、表情は自然と笑みに溢れている。

やがて、その熱に感染してそばの人が夢の世界に入り込み、同じように現実と見紛い、心踊らせていく。

ありありと夢を描くということを考えるときに、王道として浮かんでくるシーンの一つとなっています。
よく臨場感をもって夢を描くとか、夢は描けば叶うとか、強く心に思うことは実現するとか、そういう言葉がありますが、それがどういうことなのかの一つのわかりやすい例ではないかと思います。イメージとして持っておくべきシーンです。

古い映画でそれなりに間のとりかたや展開なども古さを感じさせるものはありますが、黒澤明映画は日本人であれば観ておいて損はないと思いますので、
もしまだ観られていない方がいればぜひ。



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