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【小説】メルクリウスの喚声 第七話(完)

   Ⅶ 悪魔

 三ヵ月後の七月――。
 オレンジ色の夕焼けを見ながら、竜也は川沿いを歩いていた。
 川は海へと流れていく。河口付近では西陽を遮るようにして、メルクリウス教団施設が佇んでいる。竜也は道路を挟んで向かいにある路地に身を潜めて、教団施設の様子を窺った。男に女、若者から老人まで、さまざまな人がアーチをくぐり、敷石の並べられた小道を通って、施設へと吸いこまれていく。今夜も信者を集めて会合が行なわれるのだろう。
 どのタイミングで出ていこうかと思案していたとき、見覚えのある女が教団施設に入っていこうとした。
「あれ、お兄さん?」
 カナは竜也に気づき、近づいてきた。
「……? あのお兄さんよね?」
「そうだよ」
「ずいぶん見違えたわ」
 竜也は浅黒く日焼けし、軀つきも逞しくなっていた。
「もう来ないんじゃなかったの」
「……軀に傷をつければ、呪術にはかからないんだよな」
 竜也は麻シャツの袖をまくって、左腕を歯で咬んだ。肉が裂けて、薄く血が滲んだ。
 カナは竜也を不思議そうに見つめる。
「あんただから話すけど、おれはもうメルクリウスを信じていない。それどころか、おれは教団の内幕を世間に曝してやるために、原稿を書いてるんだ」
「それで――真実を確かめに来たのね」
「もし教団がなくなっちまえば、あんたは困るだろうけどな」
 カナは微笑んで、竜也の腕を取った。
「あんたじゃなくて、ちゃんとカナって呼んでよ」
 二人は腕を組んで、教団施設に入った。
 竜也の心臓は激しく脈打っていた。メルクリウス教の使者に暴行を受け、その仕返しのような形で、首藤の顔に傷をつけた。担当編集者の友金は腕を折られ、タッグを組む予定だった大槻も何かしらの被害を被ったことだろう。竜也なら殺される可能性もある。
 が、入り口を固めている男たちは一瞥を寄越すだけだった。受付にいるローブ嬢も、いつもと変わらぬ笑顔で「こんばんは」と挨拶をしてくる。
「会員証はお持ちですか?」
 二人はメルクリウス教団が発行している会員証を見せた。
 ローブ嬢は名簿にチェックを入れて、
「会場までご案内いたします」
 二人を先導してエレベーターに向かった。まずは首藤の「訓諭」を聞くため、二階のホールへと連れて行かれるのだ。
 エレベーターの扉が開くと、竜也とカナは後ろから何者かに突き飛ばされ、函の中に入れられた。竜也とカナの他にエレベーターに入ってきたのはローブ嬢ではなく、何人もの屈強な男たちだった。
「よくノコノコと出てこられたな」
 その声を聞いて、すぐに相手が竜也に暴行を加えた男であることがわかった。
「ち……違うんだ。おれは……」
 腰を抜かしている竜也の脇腹を、男が軍用靴の爪先で蹴った。竜也は、ぎゃっと悲鳴を上げた。
「大丈夫!?」
 カナは竜也に寄り添った。竜也は痛みで声が出ない。
「先生のもとへ連れて行ってやる」
 訓諭を行なうホールは二階にあるが、エレベーターはなかなか止まらない。ドアが開くと、そこは最上階の瞑想室だった。
 蒸し風呂のように暑い部屋の中央では、十二本の樹に囲まれて、全裸の人物があぐらをかいている。
「先生――例の不届き者を連れてきました」男の一人が声をかけた。「図々しくも、自分からやってきましたよ」
 首藤は瞼を開けた。鋭い眼光に射抜かれて、竜也は金縛りに遭ったように硬直した。気がつけば、遠く離れていたところであぐらをかいていたはずの首藤が、エレベーターの入り口まで移動してきていた。
 首藤は手を差し出し、竜也の頬を撫でる。
「貴方が犯した罪は重い――」
 竜也は次第に呼吸が苦しくなってくる。呪い殺される――そう感じた竜也は、すぐさま首藤の前で土下座をした。
「許してください、首藤教授……! メルクリウスを信じ切れなかった僕が馬鹿でした。僕には何もありません。許してください……」
 瞑想室に竜也の声がこだまする。
「つまり、メルクリウス教に〝回心〟するということですね」
 その声に、竜也は急いで顔を上げて、
「メルクリウスを信じなかったせいで、僕はすべてを失いました。挙句の果てにはメルクリウスを利用した行為まで犯そうとして……しかし、目が醒めたのです。今日やってきたのは首藤教授に懺悔するためです」
 首藤は、竜也の目を覗きこんだ。
「私にではなく、メルクリウスに懺悔するのです」
「はい……」
「もう彼に手荒なマネをしてはいけません」
 周りを囲っている男たちに命令する。皆、小さくうなずいて、後ろに一歩下がった。
「では、行きましょうか、結城さん。それにカナさんも――」
 首藤は赤いローブを羽織った。
「訓諭をしていただけるのですね」
「訓諭はありません。今夜は特別な夜なのです」
「特別な夜……?」
「信頼のおける者しか参加することのできない聖なる宴があるのですよ。天界や冥界と交流できる、特権的な場です」
 首藤はカナを見て、
「貴女は、はじめてではないでしょうがね」
 男たちもついてきて、エレベーターに全員が乗りこんだ。
 無論、竜也はメルクリウスに回心するつもりはなかった。
 この三ヵ月間、兵庫を離れて、日本全国の雀荘を渡り歩く〝旅打ち〟をしていた。かつて、とある出版社が持ちかけてきた旅打ちのストーリーを、竜也はおのずと地でいくことになったのだ。麻雀を打ちながら、各地の図書館と古本屋に入り浸った。新興宗教の教団にも片っ端から足を運んだ。どこかにメルクリウス教団の実態を知るヒントがないかと探しまわった。アパートの家賃も払わずに、食べるものも食べずに――。
 だが、メルクリウス教の真実には手が届かなかった。首藤が引き取った赤子をどうしているのか? 教団の内幕を暴くには、ふたたび現地にみずからの身を投げるより他はないと悟った。たとえ死が待っていても――。すべてを失った竜也には、他に道がなかった。
 回心の芝居は一か八かの賭けだったが、首藤も人の子だということだ。あれだけ懇願されては、許さざるを得なくなったのだろう。
 エレベーターが着いたのは地下の黄金色に輝く内装の礼拝堂だった。首藤は男たちに守られながら、礼拝堂を進んでいく。
「……どこに連れて行かれるんだ?」
 竜也は小声でカナに訊いた。彼女は思いつめたような表情で、先を歩く首藤の背中を見つめていた。
「聖なる宴っていってたけど……カナは参加したことがあるんだよな」
「一度だけね」
 カナは先を歩く首藤についていった。竜也も後ろから男に小突かれて、歩かされた。
 礼拝堂の奥の正面には、巨大な両性具有の石像が佇んでいる。
「もう一度問います。貴方たちはこのメルクリウスの像に誓って、メルクリウスに心身を捧げますね――」
 竜也とカナは目を見合わせてから、
「……誓います」
「行きましょうか――」
 両性具有の石像の股をくぐったところに、小さな鉄扉が嵌めこまれていた――。

 階段を下りていく。板石が敷き詰められた地下室はだだっ広く、薄暗い。部屋の中央には木製のテーブルが置かれている。壁沿いにはローブを頭からかぶった腹心の信者たちが並んでいた。

Quod est inferius est sicut quod est superius,
et quod est superius est sicut quod est inferius,
《上なるものは下なるもののごとし、
下なるものは上なるもののごとし――》

 信者たちが呪文を斉唱する。

Ascendit a terra in coelum, iterumque descendit in terram,
et recipit vim superiorum et inferiorum.
Sic habebis gloriam totius mundi.
Ideo fugiet a te omnis obscuritas.
Haec est totius fortitudinis fortitudo fortis,
quia vincet omnem rem subtilem,
omnemque solidam penetrabit.
Sic mundus creatus est.
Hinc erunt adaptationes mirabiles, quarum modus est his.
《力は大地から天に昇り、ふたたび大地に降る。
上にある力、下にある力を結合して。
汝は天地万物の栄光を獲得せん。
されば、汝に曖昧模糊たるものなし。
これぞ、すべての力からなる力。
すべての微細にして精妙なるものを我が物とし、
すべてのものを貫き通すがゆえに。
かくして万物が創造された。
かくして驚異の錬金の術が行なわれん――》

 竜也は意識が朦朧としそうになったが、芯の部分までは侵されなかった。
「貴方たちの回心が偽りであることはわかっています――」首藤は竜也とカナを振り返らずに、いい放った。「そんなに秘密を知りたいのなら、種明かしをしてあげましょう」
 一人の信者が、何やら桃色の肉塊の載った大皿を運んできた。それはテーブルに置かれた。
 よく見ると、肉塊は生きていた。赤ン坊である。小さく、か細い未熟児だった。服は着せられておらず、白く冷たい皿の上で、居心地悪そうに手足を動かしている。
 首藤も裸になった。
「新生児の人肉こそが、メルクリウスの精髄――。某国では古くから新生児の肉は万能薬だともいわれているのです」
「まさか――」
「私ははじめてこれを食べたとき、体中にエネルギーが走り、若返ったのを実感したのです」首藤は竜也に向かって微笑んだ。「結城さん、貴方も食べていたでしょう。尤も、気がつかなかったかもしれないが――」
 それを聞いて、悟った。嘔吐感が込みあげてきて、口を手で押さえた。容子が出していた肉料理に、新生児の肉が使われていたのか――。
「宴をはじめましょう」
 部屋の壁に沿うように整列していた信者たちが、一斉にローブを脱ぎ、乱交をはじめた。
「さあ、騒げ、交われ! メルクリウスのパワーを最大限にまで高めるのです……!」
 首藤は両手を大きく広げて、皆を煽った。信者の中には、竜也でも知っているような政治家や著名人の顔もあった。サングラスを外した大槻がいたことに驚いたが、そうなのかと、胃の腑に落ちるものがあった。もしかすると、彼は竜也の次の一手を予測しているのかもしれない。
「調理の準備をしなさい」
 首藤は男たちに命令し、赤ン坊が置かれたテーブルへと歩み寄っていった。
 すると、カナも動き出した。鞄から黒い塊を取り出した。スライドを引き、両手で構える。
「……!? カナ?」
 カナの持つ拳銃は首藤を狙っていた。首藤はくるりと後ろを振り返った。距離は十メートルほどだ。
「このチャンスをずっと待っていたわ――」
 男たちはちょうど首藤から離れており、遮断物は一切ない。
「カナ、なんで……」
「あたしは……こいつに……あたしの赤ちゃんを目の前で喰われたの」
「カナさん、ご心配なく。貴女の子は、すでに私の血肉となっています。つまり、永遠に生きるのです」
 彼女の拳銃を持つ手は怒りと緊張で震えている。竜也はカナに駆け寄ろうとした。
「やめろ、落ち着け――」
「死ね!」
 銃声が轟いた。
 硝煙が立ち昇る。その向こう側では、依然として首藤が無傷で仁王立ちしていた。やはりガク引きを起こしたらしく、弾はまったく見当はずれの方向に飛んでいってしまったようだ。
 首藤がうっすらと笑って、顎をしゃくった――直後、竜也の後ろから屈強な軀つきの男が現れ、目の前のカナに突進した。
 ぐしゅっ――と生々しい音がして、カナはよろめいた。その手から拳銃が落ちて、虚しく床を滑っていった。
「カナ……!」
 男の手には、刃渡り十五センチはある血塗れたハンティングナイフが握られていた。
「メルクリウスを信じない者は、死あるのみです」
 カナはうつ伏せに倒れ、もう動くことはなかった。背中から鮮血が流れ出し、周囲に広がった。
「結城さん、貴方にはもう一度チャンスをあげましょう――」首藤は竜也に視線の先を移した。「回心していただけるのであれば、聡明で文章力に長けた貴方には、我が教団の聖典の編纂を任せようと思っています」
「おまえみたいな奴には……ついていかない」
 竜也の腹の底から、怒りが湧き上がった。
「おまえは、子どもがつくれないんだろ。だから、憎んでいるだけだ」
「子孫を残す必要はありませんよ――」
 首藤はふっと遠い目になった。
「生まれたときから、私は両親から疎んじられ――人間以下の扱いを受けてきました。しかし、両親が共に病気で死に、私は世界を見る自由を手に入れたのです。錬金術を学ぶうちに、不具はあいつらのほうだと知ったのですよ」
「おまえはただの変態の……金の亡者だ」
「いいでしょう。貴方には、あの子どもが死ぬところを、しっかりと見届けてから死んでもらう。自分の子どもが喰われるところをね――」
「自分の……子ども?」
 首藤は護衛の男の一人に顎をしゃくった。男はテーブルの前に立ち、赤ン坊を見下ろした。腰からハンティングナイフを抜き、振りかぶる。
「や……やめろ……!」
 ナイフが振り下ろされる瞬間、竜也は目を瞑った。
 女の悲鳴が上がった。竜也が目を開けると、ナイフを持った男の前で、ローブ姿の女性が赤ン坊を抱きしめて、うずくまっていた。赤ン坊の身代わりとなった彼女の腕は切られていた。着ている白いローブが、真っ赤に染まっていく。
「……この子だけは、許して……」
 赤ン坊の泣き声が響く中で、微かな声を聞いた。
「容子……?」
 ローブで顔を隠していたが、容子に違いなかった。
 ナイフの男は予期せぬ事態に戸惑い、次の首藤の指示を待っている。
 竜也は首藤の前を横切り、容子に駆け寄った。
「容子! しっかりしろ!」
「野村さん、貴女には失望しましたよ」
 首藤は感情のこもっていない声でいった。
「……私の赤ちゃんよ。私と竜也さんの……。お願いだから殺さないで……助けてください」
「哀れな……。新生児は体内に取り入れるだけのもの。愛でて育むようなものではない。メルクリウスの力で永遠の命を得られれば、新しい命など必要ない――」
「おまえだって、いずれ死ぬんだ」
 竜也は胸ポケットに入っている紙切れを取り出し、首藤に向かって投げつけた。それは首藤めがけて、地面と水平に飛んでいった。
 首藤は紙切れを指先で受け止める。
 両性具有の悪魔――バフォメットの絵が描かれたタロットカードだ。
「貴方をまとうオーラがいつもと違うことには気づいていました。聖なるメルクリウスによるものではなく、何か邪悪な気配が漂っていると――」
「おまえには、その悪魔がお似合いだ」
 首藤が歩み寄ってきて、しゃがみこんだ。竜也は尻をついたまま後退りする。
「これで仕返ししたつもりですか?」
 首藤はバフォメットのカードを指でへし折って、投げ捨てた。
「私が最も忌み嫌う悪魔を、私に宛がうとはいい度胸です」
 いつの間にか周りを、ナイフを持った男たちが囲んでいる。
 竜也はもはや観念した。次に首藤が顎をしゃくれば、ただちに殺されるのだ。まるでリーチを打たれ、安全牌は何一つ残っていないという状況だった。
 首藤は口を開いた。
「さっきから、うるさい餓鬼だな……」
 首藤の視線の先が、ちらりと移動する。竜也のそばで倒れている容子の腕に抱かれた赤ン坊を、彼は見た。
 首藤の顔色が変わった。
 赤ン坊は、もう泣いていなかった。眉をひそめて、苦しそうな表情を浮かべているばかりだ。
「どういうことだ――?」
 あの冷静沈着な首藤が狼狽した。
「この泣き声は――どこから聞こえてくる――?」
 両手で耳を塞ぐ。
「うるさい、うるさい――一体どうなっている」
 首藤の異変に、護衛の男たちも狼狽えている。
 そのときだった。
《こいつのペンダントを引き千切ってしまえ――》
 竜也はどこからか声を聞いた。あたりを見廻す。首藤が床に投げ捨てたタロットカード――バフォメット像の山羊髭をたくわえた口が、ぱくぱくと動いた気がした。
《六芒星を叩き壊せ!》
 首藤はいまだに耳を塞いでいて、平常心を失っている。
 竜也は覚醒した。首藤の首からぶらさがった六芒星のペンダントを掴み、引き千切った。
「何をする!?」
 夢中でそのペンダントを床の板石に叩きつけて、壊した。六芒星の角が一つ折れて、床を滑っていった。
 その瞬間、電流が走ったかのように首藤の軀が跳ね上がり、両手で両耳を塞いだ体勢のまま、床に転がった。
「軀が――動かない。どうなっているんだ!?」
 周囲で乱交に耽っていた信者たちの動きも止まった。
 竜也は立ち上がり、負傷している容子と赤ン坊をおぶって、地下室の出口に向かって全力で走った。
「おまえたち、あいつを逃がしてはいけない……殺せ!」
 首藤が吼える。竜也は出口を出ようとした。
「ドアが……開かない……」
「護衛の人が持ってる鍵を使わないと、内側からでも開かないわ……」
 後ろを振り返った。鋭いナイフを構えた男たちが走ってきている。
「竜也さん、これを……」
 容子が後ろから、あるものを竜也の手に握らせた。それはカナが床に落とした拳銃だった。プラスチック製のセミオートである。ずっと漫画原作を書いてきたせいで、拳銃の知識は蓄えていた。
(やるしかない――)
 容子を背中から下ろした。拳銃のスライドを少し引く。薬室には弾薬がセットされている。
 まっすぐ腕を伸ばし、拳銃を両手で構えた。向かってくる男の一人に照準を合わせる。男は銃を向けられても止まらなかった。
 竜也は冷静だった。形勢は逆転した――いま、リーチをかけているのは竜也のほうなのだ。
 引き金を絞り、撃った。血しぶきが飛ばなかったので外したかと思った。直後、男は足を止めて胸を押さえ、その場でへなへなと崩れ落ちた。
 休まず、次の男に向かって発射した。次々に命中させ、男たち全員を撃ち抜いた。
 竜也は拳銃を構える手を下ろさなかった。首藤の息の根を止めなければならない。
 首藤の周りには、先ほどまで乱交に耽っていたはずの大勢の信者たちが群がっていた。
「どけ、死にたいのか!」
 竜也は拳銃を構えながら、じりじりと彼らに近づいていく。
「……ひぃ……や、やめ……やめろぉ……!」
 首藤の悲鳴を聞いた。
 信者たちが首藤を輪姦している。しかも、ただの性交ではない。首藤の尻を、男の信者たちが代わる代わる犯していた。
 狂人たちの宴に、怒りを忘れた竜也は拳銃を床に投げ捨てた。
「竜也さん……」
「もういい。行こう」
 息絶えた護衛の男のそばに近寄り、死体を検分する。腰のベルトに鍵の連なったリングがついていた。いま、おのれの手で殺したばかりの相手を目の前にしても、なんの感情も湧いてこない。自分が自分でないような感覚だった。竜也は落ちついて、鍵束を取り外した。
 容子を連れて地下室の門扉の前まで来た。血にまみれた鍵を順番に試していく。最後の鍵を差しこんで回すと、鍵穴の中でカチリと快音が鳴った。
 竜也は扉を開こうとしたが、もう一度、快楽の生贄となっている首藤を振り返った。
 首藤はもはや声も発さずに、股間から血を流して、白目を剥いたまま眠りに落ちていた。信者たちの狂ったような雄叫びがあたりに響き渡っている。
 その宴に加わらず、ローブを羽織ったまま、一人でたたずんでいる信者がいた。
 大槻だった。
 竜也を見つめていた。目が合うと、大槻はふっと唇をほころばせた。竜也は会釈も返さずに、彼に背を向けた。
 扉を開く。負傷した容子の肩を抱えながら、階段を一歩一歩、踏みしめて上がっていく。頭上から、かすかに明かりが射しこんできた――。

 背をかがめて狭い出口を抜けた。視界には黄金に輝く礼拝堂の内装がひろがった。
 振り返ると、両性具有の目が見下ろしている。しかし今となっては、それは生気の感じられない、たんなる巨大な石の塊でしかなかった。メルクリウスは消えて失くなったのか――。竜也が息をつきかけたとき、大槻が両性具有の像の股ぐらから這い出てきた。
「あんたはどうして……」
 と竜也は、彼に声をかける。
「思っていたとおり、君こそが最強なのだ」大槻は竜也に向かって、頭を深く下げた。「貴方様の望むすべてが、たったいま、この瞬間から手に入ります」
 竜也は彼が何を口走っているのか一瞬、理解できなかったが、身のまわりを精気とも邪気ともつかない、緊迫した気配が漂いはじめたことに気づいた。戦いは終わったはずだ。だが、この腹の底を焼くような昂揚感はなんだろうか。
 容子は血を失ったせいか、顔面が死人のように青白くなっていた。
「この子を……お願いします」
 容子は赤ン坊を、竜也の腕の中に押しつけるようにして渡した。
「何いってんだ、一緒に逃げよう」
 竜也はいった。しかし、実感のともわない、上っ面の言葉であることは、竜也自身が強く感じた。
 容子は力なく首を横に振る。
「どうしたんだよ……」
 口では彼女とともに生き直そうとしている。赤子を右腕に抱き、左手で容子の肩を掴もうとしたが、意志とは裏腹に手が伸びない。竜也の両足は地から生えたように動かない。容子の傷口から流れ出た血が床を流れ、赤黒く染めていた。
 凄まじい地鳴りのような雄叫びが近づいていた。裸の信者が、つぎつぎと石像の股のあいだから飛び出してきた。老若男女さまざまな人の群れは踊り狂い、笑っていた。首藤を思う存分、犯したあげくに殺し、快哉を叫んでいるのか。
 彼らは竜也の姿を目に留めると、すっと憑きものが落ちたように無表情になった。竜也を中心にして、幾重にも輪をかけるように並んで床にひざまずき、竜也に向かって両手を差しのべた。
 竜也は眩暈をおぼえた。何が起きているのか。
「さようなら、竜也さん」
 沈黙を破ったのは容子だった。彼女は人々の輪をかき分けて、その場を離れた。礼拝堂の出口に向かって、一人きりで歩いていく。足を踏み出すごとに、彼女の軀からは湧き水のように血が溢れ出し、足をつたって床に流れる。彼女の背中は遠ざかっていくが、血流は赤い川となって竜也たちのもとへと届いた。
(待って、おれも行く)
 そう叫ぼうとした唇は、別の言葉を発していた。
「我こそは魔界の王なり。この地を思いのままに牛耳るのは、神でも、弱き悪神でもない。我が力こそが繁栄と堕落とをもたらすのだ」
 石像の前には祭壇が用意されていた。竜也は足もとを濡らしている容子の血に左手を浸した。容子の子どもの頬に生き血を塗りたくると、犠牲の台座に置き、生贄として捧げた。赤子は泣き声も上げずに、ただただ目を強く瞑っていた。現実を見たくないかのようだった。
 大槻が竜也の肩に漆黒のマントを着せかけた。六芒星も五芒星も描かれていない、無地のマントだ。ここにどんな地図を描くかは、新たな支配者の自由だった。
 竜也は目を閉じた――。
 瞼の裏には、容子が教団施設の屋上から、竜也の名を呼びながら落下していく姿が映った。その映像はすぐに竜也の脳裏から立ち消え、同時に忘れ去られた。
「我々が世界をつくり変えるのだ」
 竜也は目を見開いた。手に付着した血の残滓を舐めて、宣言した。
「恐れるものはない」
 深紅の海の中で、皆が竜也の前にひれ伏した。
(了)

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