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【小説】暗流~アンダーカレント~ 第五話

 翌日の午後四時。リョウは西成区に足を運んだ。錆びたアーケードの下に伸びる商店街には、袖の擦り切れた薄汚い服を着た男たちがゾンビのようにゆらゆらと歩いていた。
 リョウはコードヴァンの革靴を踏み鳴らして、商店街を抜けた。その先は飛田新地だった。何本かの通りが交差する一画で、道の両脇には古めかしい小料理屋を装った曖昧宿が並んでいる。昼間だというのに営業している店も多い。前を男が通るたびに、呼びこみの老婆は唾を飛ばし、上がり框に座る艶かしい女性はシナをつくる。
 リョウは脇目もふらず、大門通りと呼ばれる道に出た。かつての遊郭の名残である大門跡に近づく。そのすぐそばにある、なんの変哲もない三階建てのアパートに足を踏み入れた。
 三階の角部屋のベルを押した。
「……はい。藤堂ですが」
「美樹本です」
 今朝のうちに村井が組織対策課の力も借りて、戸崎と関わりのある人物を調べてくれた。その一人が藤堂という元暴力団員だった。彼は二十年ほど前に、戸崎ともっとも密接な関係にあったらしい。
 アポは取っていた。リョウは藤堂と胸襟を開いて語り合うために、村井を伴わずに一人でやってきた。村井は危ないから一緒に行くといってきたが、リョウは個人的なことだからといって聞き入れなかった。
 ドアを開いたのは、松葉杖をついた五十路の男だった。坊主頭で、セーターにスラックスを穿いていた。が、スラックスの股下を通っているのは右足だけで、左足はない。
「いらっしゃい」
 藤堂はいびつな笑みを浮かべた。しかし、目が虚ろで、どことなく視線が合わない。薄い唇の隙間から見える歯は、大半が抜け落ちていた。手には両方とも親指以外に指がない。
 彼は一本踏鞴のように廊下を歩いていく。リョウは彼の後ろをついていった。
 2DKの間取りだった。物がほとんどない。彼はダイニングテーブルの前の椅子に腰を落ちつけた。リョウも対座する。
 襖を開放した隣室では、全自動の麻雀卓を囲む四人の男がいた。彼らはリョウを一瞬見やったが、すぐに自分の手牌に視線を戻した。牌の音、点棒の音、ポンやチーといった低く短い発声だけが聞こえてくる。
「マンション麻雀ですか」
「気にせんでええ。この界隈に住んでる、なんの害もない人らや」
 リョウはうなずいた。卓上で交わされる札の枚数から察しても、街場の雀荘とたいしてレートは変わらない。健全な麻雀だ。
「戸崎昌孝について聞きたくて、来ました」
「たしか、戸崎の女が、美樹本……なんたらいう女やったな」
「僕は金沢で生まれて、美樹本みどりという母親に捨てられました。父親は知りません。ですが、父親とおれを捨てて逃げた女が、戸崎の内縁の妻だったと最近知りました」
「戸崎はな、ばくちだけで各地を転々とする、流れ者やった」
 藤堂の濁りきった目が、過去を見つめている。
「わしは当時、関西で傍系のチンケな暴力団の若頭で、いくつか賭場を任されとった。そんなときに戸崎がわしを頼って大阪にやってきた。どういう経緯か知らんが、生まれたばっかりの赤子を殺そうとしたところを、やつの女が止めて――」
 リョウの瞳に炎が燃えた。その赤子とは、まぎれもなくリョウのことだろう。
「どうして、戸崎は赤ン坊を殺そうとしたんでしょうか」
「生理的な衝動やろな。たんに邪魔やったんやろ」
 リョウは黙りこんだ。
「次に会うたときは身軽になっとったから、子どもはどこぞに捨ててきたんやろうと察しがついた」
 リョウは湧いてくる暗い感情を殺した。
「当時のうちの組は、組長が死んで間ァもなかった。後継者が決まらんで落ちつかん時期に、わしは戸崎と盃を交わした……あいつのばくちの腕を見込んでのことや。それで賭場の経営のイロハを叩きこんだ。やつに博才があったんやろ、みるみるうちに実績を上げよった。わしも欲をかいて、のしあがろうと目論んだんやが……間違いやった」
「というと?」
「じつはな、組長が死んだというのは、わしがチンピラを金で雇って、殺させたんや」
「どうしてそんなことを……」
「組長も昔は男気のある人間やったが、腑抜けになってた。一人娘しかおらず、娘婿もやくざを嫌っとった。孫ができてデレデレしてるうちに、近いうちに組を解散するとか抜かしよったんや。それやったら、わしがこの組を引き継ぐ……そんな思いでやったことやった」
 彼は当時のやるせなさを思い出したのか、軀を震わせた。
「せやけど、わしが殺しの報酬をケチったばっかりに、そのチンピラが戸崎と繋がった。戸崎はわしのことを組長殺しやと組員らに吹きこんだ。わしは組員らからケジメをつけさせられた。実際は集団リンチや。命までは取られんかったが、いっそ殺してくれって思ったわ」
 欠陥だらけの軀が、そのときの惨劇を物語っていた。
「親分の仇として、わしを懲らしめた挙句、組を潰しよった。わしが抜けたあとの組は、まとめる人間が誰もおらんかったんや。あいつが組長になるためにやったことなら、まだわかる。あいつは一体なんのために……」
「その後の戸崎は、どうなったのですか」
「どんな手を使うたんか、賭場の利権を買い取って、いまや飛ぶ鳥落とす勢いや」
「……おれの母親だった美樹本みどりですが、先月死にました」
 藤堂の太い眉がぴくりと動いた。
「自殺として処理されましたが、他殺の疑いがあります。あと、みどりとのあいだには、なぎさという娘がいますが、この子は戸崎に性的虐待を受けて、束縛されている可能性が高いんです」
 藤堂はため息をつき、首を横に振った。
「あいつには人間の情というもんがない。欲しいもんは必ず手に入れて、邪魔者は消す主義の男や……。わしは生きとるがな」
 そのとき、リョウのスマホが鳴った。村井だった。
「さっき、戸崎の運転するベンツが茶屋町のマンションを出た。あとを追おうとしたんやが、入れ代わりに宗一が車でやってきたんや。マンションから遅れて出てきたなぎさを乗せて、戸崎とは別方向に走った」
「それで?」
「宗一となぎさのほうを尾行したんやが……二人は如何わしいホテルに入った。いまはホテルの前で張りこんどる」
 リョウは、すぐに向かう、と告げて電話を切った。藤堂にいった。
「戸崎には、あなたと同じ苦しみを与えてやります」
「あんたが戸崎の分身やとしたら、できるかもしれん」
「……分身じゃないですよ。おれは天涯孤独ですから」
 リョウは席を立った。
 藤堂は焦点の定まらない目を少し上げた。歪んだ顔の前で、力なく手を振る。
「二度と顔を見せんでくれ。終わったことは、もとには戻らん」

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