能登の地震
FBに投稿した『生存報告と備忘録』をこちらに編集して転載します。
帰省していた能登から自宅に戻った後、その日のうちに一気に書いた文章。なんとなく想いがこもっているのであちらは編集しないでそのまま残しています。細かい所を追記してこちらにも記載しておこうと思います。
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年末から能登に帰省していました。
1/1PM能登−羽田の便で戻ってきて、残り2日は自宅でのんびりと過ごせる日程のはずでした。そう、あの日のあの時間。自分はあの地にいました。
1月1日
朝はいつも通り家族で集まり、朝寝坊のため味付けをし忘れた出汁のみのお雑煮でお正月が始まりました。姪っ子甥っ子にお年玉を渡して今年の抱負を聞き、その後みんなで地元神社に初詣。いつもと変わらない平和なお正月の風景。お昼ご飯をみんなで食べて一時解散。姉一家は車で関東に帰宅。自分たちは午後の飛行機だったのでお昼3時に実家を出発しました。
仕事で待機中の兄に代わり両親と共に車に乗り込みました。能登の正月には珍しく、とても良く晴れた日でした。せっかくなので道の途中でキレイな景色でも見ながらと、のと里山海道の別所岳サービスエリアに立ち寄りました。ここには「能登ゆめてらす」という高さ13Mのスカイデッキがあり、晴れた日は七尾弯や能登島から遠く立山連峰までが見渡せます。
冬季は休業しているのですが、年末年始は特別にエレベーターが動いていたのです!残念ながら雲がかかってきており、期待した景色は見れませんでしたが、そろそろ空港へ向かわなければと思い、エレベーターに乗り込もうとしたその時、あの音が鳴りました。
「ブーブー、地震です。地震です」
次の瞬間、下から突き上げる様な地響きがあり、感じたことのない揺れに襲われました。
ヤバい。死ぬ。。
一瞬で何が起こったのかを察知。大地震が来ていました。
立っていられません。2歳のこどもを抱えたままうずくまり、祈りながらおさまるのを待ちました。地上13M。揺れの中でこのまま倒れてしまえば助からないだろうと考えていました。なんとか持ちこたえてくれ。そう願うばかりです。
果てしなく長い1分ほどの後、なんとか動ける様になりました。エレベーターの扉は閉まっています。中には両親が残されている。
落ちた。。。。いや、助けなきゃ!!
こどもを妻に託してドアを両手で開きます。転がってうずくまっている両親をひっぱり出し、落ちて壊れた眼鏡を拾い上げました。エレベーターの中は壁についていたパネルが床に外れて落ちていました。もちろん停電で電気は通っていません。
下に降りられない。
周りを見渡すと、テラスを覆っていたガラスは全て破壊され、先ほどまでキレイな景色を眺めていたその場所はただの危険極まりないエリアでしかありませんでした。
非常用の脱出ロープがありましたが、これは使えるかどうか命をあずけるにはとても頼りない代物でした。こうなれば冬季は閉鎖されている階段を使うしか手がありませんでした。一か八か、逃げ道を探してくる。そう思い、1人で階段を駆け下りました。橋を2本渡り、さらに下に降りる階段の先。シャッターが降りその道を塞いでいました。
なんてこった。
そばにあった非常ベルを押しても反応がありません。
シャッターは必死に引き上げてもびくともしない。そんな絶望的な状況でした。
誰か、、、、。!!声が、、聞こえる!
そう、近くにいた人が心配して探しに来てくれていました。鍵を開けて引き上げたけど上がらない。シャッターは地震の衝撃でゆがみ、動かなくなっていました。少しの隙間から金蔵の棒を差し込み、力ずくで開けようと何度も何度もやりました。わずかに通れる30cmほどの隙間ができたところで這いつくばって脱出に成功。地面を踏んだときにやっとで助かったことが実感できました。
もちろん山奥なので電波は入らない。地震の規模や状況なんて知り得なかったのですが、下に降りてみると、そこはもう見るも無惨な有様でした。
サービスエリアの売店はガラスが全て割れ、陳列されていた商品は床に散乱し、駐車場はところどころひび割れていました。これは大変な地震だなと。どうやって空港に向かおうか。まだそんなことを考えていたときです。里山海道がつぶれてしまって走れない。そんな情報が入ってきました。
続々とサービスエリアに人が集まってきていました。それも歩いて。車が走れなくなり、乗り捨てて避難してきた人たちです。道がボコボコでとても車が走れる状況ではないと言うことでした。避難してきた人たちは、夜には総勢200人ほどになっていました。
1月1日、夜
日が沈むと気温がどんどん下がってきました。予想最低気温はマイナス2℃。サービスエリアのお店の人の計らいで、たき火がたかれました。お店の中の廃材や棚を壊してその燃料とし、夜通し火をたき続けました。
避難者の中からまとめ役が現れ、人数を数えたり、水や食料の配布が行われました。幸い、お土産ものの中にはスナック菓子やかまぼこなど、お腹を空かせたこどもでも食べられるものがありました。
車の中に乗り込み、暖房をつけてテレビを見ていました。そこには地震の悲惨さが映っていました。最大震度7。マグニチュード7.6。奥能登では津波も発生しているという。信じられない状況でした。飛行機も欠航。空港も被災していました。
とりあえず何もできない。救助を待とう。そう決めて、元日車中泊となりました。狭い車内。エコノミークラス症候群にならないように、今年70を迎える両親にも脚を動かすようにすすめました。時間が経つのが遅く、1分が何十倍にも長く感じました。余震は常に感じていました。
避難生活がいつまで続くのかこの時点では想像できず、車のエアコン設定も最低限にして荷物の中から暖かい上着を取り出してみんなで羽織って過ごしました。
時折車の外に出ては、新しい情報が無いかどうかを集まっている人に確認しました。たき火は暖かく、多くの人が集まっている中で煌々と燃え続けていました。
1月2日
ようやく眠りにつけたのが朝の3時。目を覚ますといつもの時間。朝陽が上りかけていました。
起きてからサービスエリア周辺の状況を確認しに行くつもりでした。とりあえず近くのICまで行けるかどうか見てこよう。そんな気でいました。度々回ってくる情報を聞くまでは。
やはり車は走れない。歩いて避難するしかない。それが誰しもの共通意見でした。それほど道がひどく壊れてしまっていたのです。
陽が完全に上り、暖かくなってきた午前9時。出発です。別所岳から金沢方面へ数km。中島の道の駅に向かうことにしました。里山海道をまずは歩いて引き返します。サービスエリアの入口まで進むと、そこにすでに50cmほど浮き上がる隆起と幅30cmの亀裂が。これを見ただけで車の無力さがわかりました。
里山海道の道の上には進めなくなってしまった車がたくさん止まっていました。中に人がいる車もあれば、無人になっている車もたくさんありました。道の亀裂や陥没はそこかしこにあり、片側車線が完全に崩れ落ちてしまってるところもあり、もし走っているときにそうなっていたらと思うと血の気が引く思いでした。そのまま30分ほど歩いて山道に入りました。山の上に道路が走っているので、山道を下ります。
山道の途中も亀裂が走っています。大きな岩が転がっていました。太い木の枝も散乱していました。あらゆる注意をしながら合計3時間弱。ようやく人の集まっている、幹線道路沿いに出てこれました。
道の駅まで歩いてみると、サービスエリアで一晩過ごしたひとたちも降りてきていました。すでに京都からの機動隊が到着しており、被災地の救護活動に出発していきました。
親戚に連絡して迎えに来てもらい、実家に逆戻り。帰りの道もところどころでひび割れや隆起があり、暗い中ではきっと走れなくなると思いました。実家のある地域は断水していましたが電気は通っていました。オール電化なので電気がなければどうなることかと思いました。山の麓の田舎なので水の調達はかなり容易。川からバケツで水を汲んでお風呂にため、飲み水は山に入って湧き水を汲んできました。お正月の食料もあるので数日は過ごせます。
ここまで来て、いろいろ高ぶっていた神経が休まり、ほっとする時間ができました。次はどうやって帰ろうか考える時間です。乗るはずだった空港は使えない。小松か富山か。新幹線はいつ復活するか。直行便はやはり満席のため、北海道か福岡経由で空の便を選択しました。
1月3日
朝は5時30分に出発。道がどうなっているのか。交通状況がどうなのかわからず早めに。里山海道は使えないので金沢まで下道をひたすら走りました。幸い道路はそれほど崩れておらず、金沢東ICから小松までは北陸道経由で小松空港に約2時間で到着。9時の飛行機まで余裕がありました。小松は無事に出発できますが、この時点では羽田が未知数でした。1月2日の夕方に発生した航空機同士の衝突事故の影響で滑走路が使えない可能性があったからです。とりあえず福岡に飛べば便数も多いのでなんとかなるだろうと福岡へ。
予定より15分遅れで到着。まさかの国内乗り継ぎ。
丁度お昼時でしたので博多ラーメン。明太子がついており博多をプチ満喫。こどもたちも楽しそう。
羽田への便は1時間半遅れですがどうやら飛びそう。ラウンジを行ったりきたり、こどもたちはタブレットを持って待ちました。スマホ画面を流れる地元の情報。目を通していると目の前がかすんできます。何もできない無力さ。今すぐ戻って片付けの手伝いやこどもたちと遊んだりしたい。そう思って涙が出てきました。
16時に羽田着。いやーここまで長かった。
ご飯を食べて車で帰宅。思わず過ごした2日分の駐車料金と余分な飛行機代など。命があるだけ満足。
とても濃密な三が日を過ごしました。
というわけで無事です。みなさまお元気で、また合う日まで〜