春にお前を食うまでに

  それは動物ではなく、ましてや植物でもなかった。
 十代の少女のような姿形をしていたが、額から天を突くように捻れ伸びる二本の角が、それが人であることを否定していた。
 少女のようなものは、透明な鉱石に似た二本角で空を仰いだ。角の芯が、夜の森を柔らかく照らす月光を蓄え、微細な輝きを放ち始める。
 この息を飲むような非現実的な光景も、暗視装置を通していたら味気ない単一色の映像でしかなかっただろう。暗視装置とは違い輪郭こそ不鮮明な部分もあるが、実物に近い色味を再現できる夜光レンズゴーグルを使用して正解だったと思う。
 俺は引き金に指をかけた。あれを撃ち殺すには、これ以上ないほどのチャンスだった。
 スコープの中心に獲物を合わせる。まだ気付かれていない。今なら狩れる。逸る衝動を抑えるように、俺はゆっくりと息を吐いた。
 引き金に触れている指へ、慎重に力を込める。一発の長い銃声が、深い宵闇の中へと消えていった。
 獲ったと、確信する。
 獲物が逃げた様子はない。銃声に驚き、逃げ去っていく鳥の羽ばたき以外に、付近から生き物が立ち去る音は聞こえなかった。
 銃を構えながら、獲物がいた場所へと近付く。腰の辺りまで伸びた草むらを掻き分けて少女を探すと、それは深い茂みに覆い隠されるようにして倒れていた。
 本当に、人間によく似ている。草むらの隙間から僅かに覗き見える細い体躯は、まさに十代半ばの少女そのものであるし、目蓋を落とした顔はどこか幼い印象を与える。人ならざる角があっても、これらを人間だと錯覚する者がいるのも無理はない。
 どうやって、食おう。
 前提として、そもそも俺に人肉食の趣味は無い。だから人に酷似した実物を前にして食欲を失ってしまうのではないかという危惧も当然あったが、杞憂だった。人に似ているだけの、それだけの生き物だという認識が覆されることはない。
 肉は少なそうだが、雀などの小動物よりはマシだろう。人型であれば肉体構造もほとんど人に近いと聞いているから、食べられないこともないはずだ。食べたという例もほとんど聞かないのだが。
 一皮剥くとその身が石や鉄で出来ていたというような話でなければ、食える。それが人に消化できるものであれば胃の中に入るし、そうであるならば食いたい。依頼や金に託けてはいるが、俺の行動動機など結局のところ至極単純なものだった。
 草むらを掻き分けようと腕を伸ばした瞬間、その茂みからしなやかな光線のようなものが鞭のように飛び出してくるのが見えた。それが何なのか考察する前に、銃を握っていた方の腕に強い衝撃が走る。
「ぐっ」
 銃を叩き落とされた。堅く、太い縄のようなもので腕を叩かれたような痛み。嫌な音もした。骨が折れたかもしれないが、どうだろうか。
 弾かれた銃を深い草むらから探し出すより、まだ無事な腕で腰のナイフを抜くことを優先する。まだ仕留め切れていなかったのか。片腕で勝てるか分からないが、やるしかない。
 少女が倒れていた草むらを再度確認するが、そこにはもう何もいなかった。
「逃がしたか」
「逃げてはいない」
 痛みと痺れで動かない腕の側の方から、若い女性の声がした。その方向を見る前に、脇腹に重い衝撃が走った。筋骨隆々の大男から渾身の蹴りを食らったときに似ているなと、走馬燈にしては短い回想が過る。
 吹き飛ばされ、地面に転がる。草の密集地から外れ仰向けになった瞬間、今度は腹部に何かがのし掛かってきた。ナイフを持った俺の腕を、太い縄のようなものが絡み付き締め上げる。腕の血管に血が巡らず、力の入らない指がナイフを手放した。
 腹の上に股がるそれ、撃ち殺したはずの少女の背を膝で蹴り上げようとするが、どうやら露ほども効いていないらしい。背に届く前に、何かに阻まれているような感触がする。少女は当然のように俺の抵抗を意に介さず、平然としたまま口を開いた。
「煩わしい」
 抵抗を窘めるように、少女の背を守るものが俺の脚を地に押さえつける。その動きと連動するように、俺の腕を締め上げているものが動いた。
 これは、尾か。少女の細い腰の辺りから伸びた尾の先が、俺の腕に巻き付いている。脚を押さえ付けているのは、尾の根本の方だろう。外見は角と同じ鉱石質だが、硬いゴムのように力強く、かつしなやかに獲物の動きを封じている。
 ああ、そうか。獲物は俺だ。
 既に狩るものと狩られるものが逆転している。命を握る捕食者の目を前にして、俺の頭は冷えていた。
「私にどういう了見だ」
 少女は落ち着いた声色で話す。その線の細い喉から発しているとは思えないような、大人びた女の声だった。
「……お前の、その角が欲しい」
 依頼として請け負っていた本来の目的は、そうだ。これの生死は問わず、角を回収すること。角以外の部位は不要という話だから、ならば殺して食っても構わないだろうと受けた仕事だった。
「これの強奪は、そちらでは法に反すると聞いていたが」
「それでも欲しがる人間がいるんだ」
「想像に難くないな。このゴーグルに入っているのも、我らの一部だろう」
 少女の指が俺の顔に触れ、夜光レンズの入ったゴーグルを外す。僅かな月光を最大限に集約し、昼に近い視野を再現できるゴーグルを失い、俺は灯りの無い夜の闇へと放り出された。
 月と、それと同じ光を湛える少女の角と尾だけが、辛うじてこの生き物の存在を浮かび上がらせている。スコープ越しに見ていた、月を見上げる無機質な顔とは違う表情。確かな意思、それも厄介な部類の知的探求心が、獲物を逃すまいと瞳孔を鋭利に光らせている。
「欲しがる人間と言うが、それはお前のことではないのか」
「俺は、角には興味ない」
「では金か」
「確かに金を貰う予定ではあったが」
 彼女らの角に、何らかの利用価値を見出だそうとするものは少なくない。だが母数が圧倒的に少なく、肝心な角の性質が主に月光の集約や蓄光のみに留まっていることにより、大した発見もされていないのが現状である。
 現在開発されている実用的な使用用途も、暗視装置程度が精々だ。原材料の確保に係る手間を考えれば、とても商品化に耐えうるものではない。あのゴーグルも、依頼者から借りた非売品だった。
 俺は研究者ではないし、ましてや美術商でもない。角の価値など、正直よく理解していない。己の欲望に従うしか能の無いただの生き物として、報酬金を言い訳に銃を握っただけだった。
 俺の言い分を言い訳と見抜くような色の双眸に、今更取り繕うようなことでもないと観念する。好奇心のためなら内臓の裏側まで暴きそうな少女の顔が、俺の喉元に牙を突き立てているようだった。溜息のように吐き出した息は、痛む両腕のせいだけではない。
「……俺は、お前を食ってみたかっただけだ」
「今時八百尼のような真似をしようとする者がいるとはな」
「オカルトには興味ない」
「尚更、理解できんな」
 理解できないと口にする少女は、そのくせどこか楽しげに、または興味深そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「ふむ」
 少女が、折れた方の俺の腕を持ち上げる。神経を刺すような激痛に歯を食い縛ると、少女の顔は益々機嫌良さそうに輝いた。性の悪い顔だと思う。
 俺の手から手袋を抜き取り、それを茂みに投げ捨てる。そして彼女は自身の小さい口元に、俺の人差し指を運んだ。
 肉に歯が突き立てられる。顎の力が弱いのか、第一間接を噛み砕くことに失敗した歯は、そのまま皮膚を噛み千切るようにして骨から肉を削ぎ剥がしていった。
 繊細な感覚を要求される指先には、痛みを感じる神経も集まっている。そんなことは分かりきっていたが、指の肉を容赦なく削り取られる痛みは予想以上だった。ざらついた舌で傷を舐め撫でられ、喉から出かかったひきつるような悲鳴を噛み殺す。口から指を離したあと、少女は肉の切れ端を何度か噛み、怪訝な顔をした。
「分からん」
 少女の喉が動く。飲み込まれたという実感に、腹の底がざわついた。
「お前を食っても何の感情も湧かぬ」
 今しがた食らった指先を見る二つの目は、ぞっとするほどに冷たかった。これは人を殺すことに何の躊躇もないと、一瞬で理解できた。
 人ではないのだから当然だ。野性動物や自然災害のように、人ではないものに人を殺す躊躇いが産まれる道理はない。
「何より、何故お前が笑っているのかが、理解できない」
 それまで少しも力を緩めなかった尾が、あっさりと俺の腕を離す。尾で俺の首を絞めるのか、それとも叩き折ってくるのかと身構えるが、少女はそれをしなかった。
「殺さないのか」
「殺さないとは言っていないが。別に今でなくてもよかろう」
 そもそも私には食事も殺しも本来不必要なものだ。少女がそう言って今しがた齧りついていた手を放り投げると、地面に落ちた腕から響く激痛に目眩を起こしかけた。これは、絶対に折れている。皮膚を失った指が、草に触れる痛みにも脂汗が吹き出た。
「笑ったり、歯を食い縛ったり、忙しいやつだな」
「そんな顔だったか」
 今まさに殺されようとしているときに、笑うようなやつはいないだろう。何を取り違えているのか知らないが、彼女らの思考を人が推し量ろうとする徒労に割く体力は残っていなかった。
「なんだ、無自覚なのか」
 柔らかい指先が、ものを検品するかのように俺の頬を叩く。
「ふふ。お前のことはちゃんと食ってやるから安心するがいい」
 少女の小さな顔が近付き、その肩から流れた髪が、俺の顔に触れる。背は地面故に、逃げ場は無い。角から放たれる仄かな光によって浮かび上がる少女の顔は、人を食う鬼のようでもあり、人に頂かれる神のようでもあった。
「次の春だ。次の春に、お前を食う。それまでは、お前を消化するために生かしておいてやろう」
 赤く濡れた唇が笑った。全身から力が抜け、肌が粟立つ。自分の末路を完全に理解した獣のように、絶対的な捕食者の牙に抗うことができなくなっていく。
「精々、一欠片も残さず食われるように励めよ」
「……分かった」
 ほとんど無意識に出た言葉が、ある種の契約のように肉体を支配していった。おそらく、自分はもう彼女に対して狩人となることが出来ないだろう。いや、敗北したその瞬間から、この身は補食されるのを待つ肉になっていた。もはや抗えるような道理はない。刃物や銃を取り戻しても、彼女を殺せる気がしなかった。
 捕食者が、その細い両足で立ち上がる。視界を横切る尾は、角と同じような鉱石質のように見えたが、驚くほどしなやかに動いていた。腕を叩き折ってくれたのはこの尾だろう。草むらに隠れていたのだろうが、見落としていたのは完全に失態だった。見えていたとして、結果が変わっていたかどうかなど、今さら分からないのだが。
 トカゲのそれに似た尾の先端に、僅かに欠けたような痕があった。もしやと思う間もなく彼女がそれに気付き、欠けた箇所を少し気にするように触れる。欠けは結晶が育っていく様を早送りにしたかのように、瞬く間に修復されていった。
「銃器ごときに私が殺せるものか」
 彼女が目で三日月を形作り、口の片端を歪めて見せる。やはり完敗だ。生き物の序列としてこの少女に負けたのだと、確信に似た感情がこみ上げてきた。
 痺れが残る左腕で前髪を掻き上げて、空を見やる。四月の月は、何者の手も届かないような高みから、全てのものに等しい光を落としていた。

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