夜は呼吸をしない

 月が出ている。やや膨らんだ半月型の紙切れのような淡い光が、深い夜の中にぽつんと浮かんでいる。薄い雲が時折その形を覆うが、それでもここ数日続いた曇り模様の夜空よりはマシだろう。
 部屋からベランダへ続く窓を開けると、雨上がりの匂いに似た湿気が頬を掠めた。月の見えない夜が続くことを、こんなにも憂鬱に感じる日が来ようとは。そんな、数年前の自分なら思いもしないことを考える。
 月光を肌で感じることができない人間には、その光量の違いなど分からない。精々、月が大きく見えるか小さく見えるか、そのくらいだ。
 俺はヨミさんを抱き上げる。太股の半ばより先の脚が無いヨミさんは、細く頼りない腕を俺の首に回して体重を預けた。軽くはないが、その重さが暖かかった。
 ベランダに出て、用意していたクッションにヨミさんを降ろす。ビーズクッションチェアは、ヨミさんが座るには丁度よい大きさと柔らかさだったが、このベランダに置くには些か大きすぎるようだった。
 いやベランダの狭さも問題なのだろう。もう少し広いベランダなら、ヨミさんももう少し居心地よく月光を浴びられるのだろうが、俺の安月給がどうにかならない限りはそれも難しい。外から内部が見えづらいベランダがあり、尚且つ空が見えやすい部屋位置、高い建物や遮蔽物になりそうな木が少ない立地の借家は、探すだけでも一苦労だったのだ。
 こうしてヨミさんが隣にいてくれるのなら、その程度の苦労くらいなんてことはないのだけれど。
 そう思いながら、ヨミさんのこめかみが見えるよう、指で髪を慎重に掬って耳に掻けてやる。ヨミさんの額の両端には、鉱石の断面のような質感をした菱形の痕があった。ヨミさんと同じように、月の光を糧にするものたちの証。
 ヨミさんが柳のような眉を下げて目を伏せていることに気付き、慌てて手を離す。すみません、と謝ると、ヨミさんは首を横に降った。
「寒くないですか? ブランケット持ってきましょうか」
 ヨミさんはまた首を横に降る。それから、大丈夫とでも言いたげに、薄い微笑みらしい表情を浮かべた。
「俺、仕事しなくちゃいけなくて、部屋でパソコン見てますけど、何かあったら窓ガラスをこうやって、叩いて呼んでいいんで」
 手の甲で窓ガラスを叩くと、ヨミさんもそれを真似するようにガラスを軽く叩いた。それからゆっくりと一度頷いたのを確認して、俺は窓を開けたまま部屋に戻った。
 ローテーブルに置かれたノートパソコンの前に座り、会社から届いた仕様変更書に目を通す。きりきりと痛み始める胃袋にゼリー飲料を流し込むと、リビングが会社のデスクになったようで、夜風に撫でられたときとは違う寒気に襲われた。


 軋むような体の痛みに目を開ける。いつの間にか突っ伏していたテーブルから体を起こすと、情けないことに涎が小さな水溜まりを作っていたことに気付く。
 三十路過ぎにもなって口を半開きにして寝落ちるとは。辛うじてパソコンや書類は無事だが、自分の醜態が情けない。
 少し前までは眠ろうにも眠れず、不眠に悩んでいたほどだった。だがここ最近は比較的日付が変わる前に眠れていたからか、無理に起きていることも難しくなっていた。
 体のサイクルが正常になったことを喜ぶべきなのだろうが、無理ができないのも不便といえば不便か。
 パソコンの画面上で作動していたスクリーンセーバを消し、既に完了させていた作業内容が保存されていることを寝ぼけ眼で確認する。霞がかったようなぼんやりとした意識でパソコン上の時計を確認すると、デジタルの数字が午前三時半を示していた。
「よ、ヨミさんっ……う、わあっ」
 ヨミさんを放置したままだったことに気付き、慌てて立ち上がろうとしたところで、何かに服を引っ張られて尻餅をつく。
 尻餅をついた先にいたのはヨミさんで、俺はヨミさんの胸に後頭部をぶつけていた。ヨミさんは驚いたように目を丸くしてまばたきをしている。いつも細めているような切れ長の目もこんな形になるんだ、と思考が飛躍してから、かなり強くぶつかってしまったことを思い出して俺は青ざめた。
「ご、ごめ、あ、すみません、痛くなかったですか、痛かったですよね」
 ヨミさんは、丸くしていた目をいつもの弧の字に戻して微笑む。俺はその顔を見る度に、何もかもを赦されたような気がして、甘い罪悪感に胸を腐らせていた。
 俺の失態も、俺が犯している罪も全て見通し受け入れているかのような微笑は、その額から天に向かって伸びる二本の角によって完成されているようだった。
 ヨミさんのこめかみにあった、鉱石質な菱形の痕から生えた二本角。その内一本は、根本に近いところで折れている。だがその不均等さが、ヨミさんのかたちを損なうことは無かった。むしろ古い彫刻のように、欠けた断面にすら何か意味があるようにさえ感じられた。
 ただ石膏で出来た彫刻とは違い、ヨミさんの角は透き通る鉱石のようだった。月光を浴びて糧とするための器官が、蓄積した月の欠片を滲ませて仄かに輝いている。
 ヨミさんの脚を見ると、元々ある太股を纏めて覆うようにして蛇に似た太く長い尾が伸びていた。ギリシャ神話のラミアを彷彿とするような形だが、恐ろしさよりも神聖さの方が強い。
 尾も角と同じ鉱石のような質感で、触れてみてもそこに血の通うような温度は無い。硬さも十二分にあり、おそらく、ヨミさんがその気になればこのローテーブルくらい簡単に叩き割れるだろう。
 硬いのにしなやかに動くその尾を器用に使い、ヨミさんは月のある夜だけ自由に動くことができる。とはいえ、ヨミさんは好んで動き回るようなタイプではないので、その尾もほとんど蓄光にしか使用していなかった。
 そのヨミさんがわざわざ自分のところにまで来てくれたからには、何かあったのだろうか。まさか具合でも悪いのか。と口を開こうとしたところで、ヨミさんが俺の腰周りにまとわりついていたものを摘まむ。出した覚えのないブランケットを、ヨミさんが俺の背中にかけようとする。
「もしかして、俺のことを心配してくれたんですか」
 ヨミさんはうんともううんとも言わないが、俺は自分に都合の良い方に捉えることにした。いたたまれなさと喜びがない交ぜになって心臓に噛みつく。
 ありがとうございます、もう大丈夫ですと伝える声がだらしなく多幸感に震えていた。我ながら声に出すぎて情けなくなる。みっともないと思われないだろうか。
 そんな心配を他所に、ヨミさんは指先で俺の頬に触れた。やや低い体温が、熱くなった顔に心地よい。
 両手で、頬から首をかけて順番に撫でられる。それだけで、変な体勢で眠って痛めた体の節々から疲れや凝りが吹き飛んでいく。ヨミさんにそんな魔法のような力はないのに、そんな気さえしてくる。
「ヨミさん」
 俺が勝手につけた名前を、自分のことだと認識してくれるのが嬉しい。舌の上で転がすその二文字が、しびれるように甘い。
 独占している、自分だけが赦されている。勝手な思い上がりでいい。そう思えるだけで救われるような心地がした。
 ヨミさんの肩と首の間に顔を埋める。少し不揃いな毛先が頬に当たってくすぐったい。人の匂いとは違う、透明度の高い清流に、甘い雪が一瞬で溶けていくような香りがする。たまらなくなって、ヨミさんの背を抱く。女性的な曲線のないヨミさんの体は、けれどもどんな人間でも受け入れてくれるような形をしていた。
 夜風に洗われたヨミさんの肌に、ぼんやりとした眠気が残る額を擦り合わせる。俺の後頭部を包むように、細い指が髪を撫でてくれる。眠ろうかとでも言うようなその動きに、俺は唸るように頷いた。
 ヨミさんが手を離し、尾を器用に動かしてベッドに向かう。ヨミさんの尾は長い。俺の狭い部屋をいっぱいに使って、壁や家具を押すようにして進む。これでも床を這い易いように部屋の家具を極力減らしたほうではあるのだが、這うというよりも壁に尾を突っ張らせるような移動だった。
 俺もブランケットとベランダに出していたクッションを片付け、窓を閉めてベッドに腰掛けた。カーテンは閉めない。電気を消すと、狭い部屋いっぱいに伸びた長い尾が、窓から差し込む月の光に反応するようにほんのりと光を帯びているようだ。
 尾のほとんどはベッドから出てしまっているが、数日ぶりに顔を見せた月がよく当たるのだろう。ベッドサイドから窓見るヨミさんの顔は少し嬉しそうに見えた。
「おやすみなさい」
 俺がベッドに横になると、ヨミさんも隣に横たわる。窓側がヨミさんの定位置であるため、俺はヨミさんの顔越しに月を眺めることになる。
 窓からは、白紙を切って作ったような柔らかい月光と、街灯の鋭い光が差し込んでいる。その二つを背に背負ったヨミさんの顔は、感情のある生き物とは思えないほどに静かな笑みを湛えていた。
 感情は、あるのだろうか。
 インターネットで検索しただけの知識だが、植物と生物の合間にある彼ら彼女らにも感情はあるらしい。ヒトに近い形状の個体ほど、人間らしい情緒を持つ傾向にあるのだとか。
 人社会との接触において感情が形成されるのでは、という仮説もあった。人を真似た言動に対し、人間が感情を見出しているに過ぎないという話もあった。しかしながら結局のところ、個体差が大きすぎてはっきりとしたことは分かっていないようだった。
 ヨミさんは俺を許してくれる。そこに在って、ただ許してくれるだけ。
 継ぎ接ぎの後光を背にした微笑に、俺が勝手な解釈を与えている。その眼の奥に、本当は何が満ちているのか、知る術はない。ヨミさんは何も語らなかった。
 分からなくていい。
 この、人とも言えないひとの前でだけ、俺は人らしく在れる。それだけでいい。俺の醜悪なエゴイズムのために、このひとを消費している。それでもいい。
 目蓋を落とす。都心から離れた住宅地は、利便性と引き換えにした静寂が心地よかった。すぐ隣に横たわる体からは、肺が吐き出す息の音もしない。
 一人分の呼吸音を聞きながら、俺は眠りについた。俺が息をするためには、一人とひとつでなければならなかった。

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