どこかへ至るもの

 この無人駅から乗車するのは、実に五年ぶりだった。
 当時を懐かしむ思いと、未だに変革の兆しを見せないこの駅への呆れにも似た安堵を抱え、ホームに停車した二両編成のワンマン車両に乗り込む。この駅から乗車する客は、私一人だけだった。
 四人が向かい合う形に座るボックス席と、広い窓を背にした長いベンチのような席のどちらにも、私以外の客の姿はない。終電の一本前という微妙な時間であることと、たった六駅にしか停まらないローカルな車両であることも相まって、この鉄の塊で出来た箱は、その武骨さとは裏腹に今にも立ち消えそうな儚さを滲ませていた。
 私はボックス席の窓側、進行方向を前にする形で腰を下ろした。窓の外は、暗いというよりも最早境界もへったくれもなく黒に塗りつぶしてしまったかのような光景だった。
 昔は、この風景が好きだったように思う。
 街のように夜を彩る煌びやかな光も無く、静かな田畑がただ広く海のように広がっている。遠くに見えている、細い道路を照らす街頭が、ぽつり、ぽつりと頼りなく佇んでいるだけだ。私はいつも一人で、この何もない風景をじいと眺めていた。
 自分が今どこにいるのか、分からなくなってしまいそうな感覚が好きだった。この辺りは数駅に渡って、この黒一色に申し訳程度の街頭を散らしたような光景が続いていく。自分がいる場所を特定できるような目印も存在しない。いつの間にか知らない場所に来てしまっていたとしても、きっとすぐには分からないだろう。
 この古い型の車両には、次の駅名や、今自分がどこにいるのかを表示するような掲示板が無い。次に停車する駅名のアナウンスがあるまで、自分がどこへ向かっているのか分からない不安が、何とも言えず心地よかった。
 ごととん、ごとん。
 足元から聞こえてくる、丁寧で規則的な音に耳を傾けること数分。人の声が聞こえてこない冷ややかな時間が流れる車両内に、掠れたアナウンスが響いた。
「次は――駅。――駅に停まります」
 聞き覚えのない駅名だった。いや聞き覚えが無いというよりも、駅名の箇所だけが、言語として認識できない音声だった。スピーカーが壊れているのだろうか。
 運転室がある前方から、扉が開くような音がした。ずる、と引き摺るような足音が近付くと同時に見えてきたのは、車掌らしき服装の人物だった。
 車掌らしき、とは言うが、私にはそれが人かどうかも分からなかった。
 姿形は人と同じだ。頭がひとつに手足が計四本。普通の、人間だ。身長も百七十センチくらいだろうか。痩せすぎていることもなく、かといって恰幅がいい訳でもない。
 ただ顔が、顔の造形が、靄かノイズがかかったかのようによく認識できなかった。
「切符を確認します」
 声色は滑らかだった。顔が見えないことに対する恐怖心は無かったが、そのあまりにも自然な言葉の方が、私の背筋にうすら寒いものを走らせた。
 切符を取り出して差し出すと、車掌は白い手袋を嵌めた手で切符を受け取った。その所作も慣れたものであり、顔が見えないことを除けば、何もおかしくは無かっただろう。
「お客さん、料金が違いますね」
 車掌は無感情にそう言い、私に切符を手渡した。切符に印字されている額面を確認するが、間違った額を買ったつもりはない。私の認識誤りかと思い、車掌に降車予定の駅名を告げて料金を訪ねる。
「その駅には停車しませんよ。この車両は、次の――駅が終点です」
 車掌は、それ以外の選択肢など無いかのように冷淡な声で答えた。私はその名詞どころか言語かどうかすらも怪しい駅に降りるしかないのか。嫌な汗が滲み、重い疲労感が両肩に圧し掛かる。
 車掌は表情一つ変えず(そもそも顔が見えないのだが)、目に見えて困り果てているはずの私を見下ろしている。自分の仕事は正しい切符を確認することだけだとでも言うかのように、微動だにしない。まるでプログラミングされたシステムか何かのようだった。
「先生、自分が乗車した駅に降ろしてって言えば良いんですよ」
 それは少女の声だった。私が座っている席の向かい側、ボックス席の対角線上に、十代半ばの少女が座っていた。場に似つかわしくないほど呑気な笑みと声色で、至極当然のことを説くかのように語っている。
「……君は知らないのかもしれないが、電車というものは乗客一人の為に線路を逆走したりはしないものなんだよ」
「知ってますよ、そのくらい」
 なるべく嫌味らしくならないよう努めて窘めると、少女はきょとんとした様子で小首を傾げた。こうなると、まるで自分の方が変なことを口走っているかのように思える。だから私はどうもこの少女が苦手だった。
「先生、困ってますか」
 少女はふふんと得意げな顔をしてみせる。それでも隣に立つこの顔の見えない車掌と相対するよりは、この見知った少女の方がまだ安心できた。見知った、と言うにはあまりにも得体の知れない存在ではあるのだが。
「情けないことにな」
「困ってる先生もかわいいです」
 少女――須藤は、山を形作るように自身の両手の指先を合わせ、嬉しそうに笑った。普段は君の存在に頭を痛めているよ、という言葉が出そうになるが、今回ばかりは完全に私の過失であるため大人しく飲み込むことにする。
 須藤は「任せてください」と立ち上がり、先程から黙り込んでしまっている車掌に話しかけた。そして切符を間違えたのではなく乗る電車を間違えたのだと伝え、私が乗車した駅の名前を口にする。車掌は相槌こそ打たなかったが、話を聞いているようではあった。
「それに先生はまだ生きてるから、車掌さんも困りますよね」
 私が生きていて、何か困ることがあるのか。何だか話の雲行きが怪しくなってきている気もするが、下手に口を挟んだら状況が悪化するのではないかという不安の方が勝った。
 顔の無い車掌は少し考えるような素振りを見せたあと、「分かりました。少々お待ちください」とやはり感情の篭らない声で何かしらを了承した。そして足で床を摩るように歩き出し、車掌室へ消えていった。
 私が生きているのが不都合だから、と、車掌が何かしらの凶器を持って再び現れる姿を想像してしまう。まるで怪談のような空想だ。怪談といえば、電車に乗っていたら異界のような駅に降ろされてしまったという、都市伝説じみた話もあるそうだが、この状況もそういったものの一種なのだろうか。
「先生、車掌さんもそんなに悪い人じゃないですよ」
「君の言う良い悪いが、私にとっても同じかどうか怪しいものだからな。あと何度も言っているが、私は君の先生では」
 暖簾に腕押しするような、何度目かも分からない訂正を行おうとしたその時、車内に再びアナウンスが響いた。
「次は、○○駅に臨時停車いたします」
 読み上げられたのは、私が乗車した駅の名前だった。咄嗟に窓の外を見やる。窓から見える景色は乗車したときから変わりなく、深い黒の中にぽつぽつと街頭が見えるだけの、何の変哲もない光景だった。
 電車にゆっくりとブレーキがかかる。慣性の法則に体が揺られるが、それでもやはりどこか丁寧な運転に感じられた。
 自分が乗車した際に開けたドアの方を見れば、そこには見覚えのある駅のホームがあった。殺風景だが懐かしい無人駅の、使い慣れた一番線ホーム。電車が逆走したわけでもないのに、どういうわけかドアの向こうには自分が乗車した瞬間の状況そのものがあった。
 電車が完全に停止したことを確認してから立ち上がる。ホーム側のドア開閉ボタンを押せば、あっさりと扉が開き、私は無事に元の駅に戻ることができた。
「乗車前に電車の行先をご確認くださいますよう、ご協力をお願いいたします」
 今しがた降車したばかりの車体上部に目をやり、表示されている終点駅名を確認する。だがそこにあったのは、日本語どころか文字とも思えぬ奇妙な記号のようなものだった。
 目の前の扉が閉まり、どこか行きの電車が発車していく。ごとん、ごととん、と、確かに線路を進んでいく音を残して。
 あれはどこへ向かっていくのだろうか。少なくとも自分が行くべき場所ではないことは確かだが。
 須藤ならば知っているかもしれないと、ふと口を開きかけて気付く。無人駅に、私以外の人の影は無い。
 思い返してみれば、そもそもあの電車から降りたのは私一人だけであった。更に言えばこの駅に臨時停車する旨のアナウンスがあった頃から、既に須藤の姿は無かった。
 いやあれについてはいくら考えても栓無いことだと、私は思考を強制終了させた。どんなに頭を抱えたところで得られるものが無いと、既に痛いほど思い知らされている。
 あれと出会ってから、考えるだけ無駄という結論に至ることが多くなったように思える。先生は考えすぎなのでそのくらいが丁度いいんですよ、とはその原因の言であるが。
 そんなことよりも今最も重要なことは、次にホームへ入る電車の終点駅を確認することだ。また同じ轍を踏むわけにはいかない。私は最終電車の時刻に近付く腕時計の針を睨みつけてから、これからホームへ入ってくるであろう車両を今か今かと待ち構えた。

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