続・不運について

 さて前回の続きとして、最近のわかりやすい残念エピソードをふたつ書きたい。

 ひとつは、よくある話だが、通行中にスズメのフンをひっかぶったこと。もちろん100パー私のせいではない不運。頭ではなく着ていたダウンに付いた。ダウンの方が精神的ショックは小さいが、洗うなら頭髪の方が楽だ(悩ましい)。微妙な罪悪感と共に洗わず着続けているダウンよ。

 ふたつめは、夜にライブ鑑賞があり着飾った上で、他用も兼ね昼から出かけた日のこと。
 ハイヒールだったため、いつも歩きで25分かける間をスマートに移動すべく、出発地の美容院からタクシーを使った。颯爽と乗り込み自信満々に伝えた行き先の橋の名前は、倍くらい離れた全く別の場所だった。つまり記憶違い。完全自分のミスだ。
 
 到着直前にあらぬ場所だとわかり、あまりのショックに目的地を再度説明する気力も起きずフラフラと降りた私は、残暑のなか高速並に車線が広く日陰も歩行者もない道路の脇を、スマホの地図片手に、ミニワンピとハイヒールで小一時間歩く羽目になった。

 張り切った時こそやらかすんだ!という忸怩としんどさに、心は折れ立ち止まりそうに。
 そんなおのれをドライブしてくれたのは、

 「なーにこんな失態、今に始まった事じゃない。残念オチという星の名の下に生まれた自分じゃん!忘れたの?てへへ」
 という、数多の経験に裏打ちされた信念だ(カッコいい)

 「明るい諦念」というのを聞いた事があるが、この開き直りの呪文は、頑張りを要する8cmヒールを確実に前に進めてくれた。 
 
 元気の出し方が我ながら屈折しているが、なかなかどうしてオリジナリティを感じ、今書いていても陶酔の境地ですらある。
 そういえば昔、駆け出しの文筆家だった知人が言っていた。
 「絶望は常に自分のそばにあって、少しずつ味わって食べるもの」というようなことを。
 
 聞いた当時は意味がわからなかったが、こうして自らが招いた不幸にぶち当たり、臍を噛みそうになる自己を逆説的になだめ懐柔してみると、深く了解できる格言だ。  
 
 この理解が合っているのか、発言者の真意は今となっては確かめようがないけれど。

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