椎名林檎と抑圧と

ある記事を読んだ。

そこでは「いのちの女たちへ」という本のなかのエピソードを紹介していた。

以下、引用する。

「足の悪い仲間の女性の”落ちつきぶり”が気にかかる。一緒に電車に乗っても、彼女は周囲から送られる視線などものともしない。それを見て、あたしは彼女の落ちつきの中に、彼女をとり乱させないこの社会の抑圧を逆倒影に、視る。彼女の生き難さをそこに、視る。とり乱しては生きていけない、というそのことこそ、まさしく何よりも、この社会が彼女に加えている抑圧の本質を物語っているではないか。とり乱させない抑圧は、最も巧妙で質が悪い。」

この記事を読んで、椎名林檎の過去のインタビューの内容を思い出した。

彼女はデビュー当時、音楽ではなくもっと「女性」性を売るように言われ、それに抵抗するように、言われれば言われるほどアーティスト写真のビジュアルがどんどん過激に武装されていった、という内容だ。

そして武装するほど彼女の評価は上がり、その個性やカッコよさが注目を集めていったのは周知の事実だ。もちろん音楽的才能があったからというのが前提だけど。

二人とも、社会の抑圧や偏見に抵抗するために、凛と落ち着いたり過激に個性的になっていったことが逆に本人の評価を高める結果を手に入れることにつながった、というのは皮肉な話だ。

もちろん、抵抗することで強くなっていくことのカッコよさはあるし、実際椎名林檎は最高にカッコいい。でもその原因が社会的抑圧から武装することだったと聞くと、そのカッコよさの奥に悔しさや悲しさを感じてしまい、切なくなる。

いや、そもそもカッコよさは抑圧への抵抗からしか生まれないものなのかもしれない。カッコいい人は悲しい人なのかもしれない、とまで思ってしまう。

昔の椎名林檎よりも、今の椎名林檎の方が自由な感じがして好きだと感じるのは、ある程度(もちろんすべてではないが)社会的抑圧から自由になったからなのかな、だったらいいなと思う。

そして、様々な種類の社会的抑圧を受けている人たちが(もちろん自分も含めてだが)それに抵抗する強さを身に着ける以外に、時にはおろおろしたり、投げやりになったり、取り乱したりする余白を持っていてくれますように。

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