過干渉の毒親から離れて

もう10年近くになる。過干渉の毒親から逃げて一人暮らしを始めた。自分の郵便物を勝手に開ける。交友関係を壊される。友人に勝手に電話相談(友人は仕事中)。本当に迷惑で、仕事場に押しかけられたこともあった。もう我慢できず、震災前に隣町にアパートを借りた。

そのアパートにも押しかけ、深夜早朝関係なく30分以上ノックを繰り返す。さすがに110番をし、警察に仲介してもらった。携帯電話の着信が深夜に及び、着信履歴が数十件に上った。決定的だったのが、自分の個人情報を第三者に流したこと。それと、間接的に大学院進学を妨害したこと。


母親は昔から決して謝らない。日本国憲法の上に自分の感情がある。自分の意に添わなければ法律にも従わない。

もう我慢できない。親類縁者や、自分の情報を流している親戚とも縁を切った。警察や弁護士にも相談をした。

携帯番号を変え、名刺も作り替えた。もう耐えられなかった。そこから警察の協力もあって、親との関係を断ち切った。

それでも年に2度くらいは洗濯物をいじった後や、手紙が来る。謝罪がないので、自分の罪の意識がないのだろう。全て送り返し、洗濯物の件は警察に相談した。ダミーの監視カメラをつけ、防犯に努めた。


孤独にはなったが、心の平穏は取り戻した。人生をやり直すつもりだった。

震災があったが、それでも何とか生きている。


昨日、偶然街中で親戚に遭遇した。軽い会釈だけで通り過ぎようとしたが、呼び止められた。


「叔父が数年前に亡くなった」


驚いた。一族から絶縁をしていた自分でも悲しく虚しい気持ちに覆われた。子どもの頃、よく釣りに連れていかれた。そんな思い出だけが蘇る。


葬儀にもよばれなかったか。


警察沙汰になると思ったのだろう。自分は浦島太郎だった。しかし、自分はこの毒親を許すことはないだろう。

どんなに貧しくとも、惨めであろうとも、孤独であろうとも。

ただ、心にぽっかりと穴があいた。

叔父の死を数年後に知る衝撃は虚しさと晩秋の秋風の如く虚しく自分の心をひゅうっと突き抜けていった。


福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》