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鉄道150年特集バックステージ⑥・鉄道技術の国産化を歩く

月刊『東京人』2022年月号「鉄道をつくった人びと」特集に寄せて

1872(明治5)年に最初に建設された新橋—横浜間、大阪—神戸間は御雇外国人を中心に建設されましたが、1877(明治10)年、鉄道頭の井上勝は大阪停車場に「工技生養成所」を設立。これとは別に明治政府が1871(明治4)年に工学寮、1877年に工部大学校となり、さらに帝国大学工科大学となります。

黎明期の鉄道技術者はこの2つの系列と、御雇外国人について学んで技術者になった3系統で養成されました。京都鉄道博物館学芸員の岡本健一郎さんが、これらの経緯を詳細に解説してくださり、彼ら鉄道技術者は車両の国産化や、官設鉄道や関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道など後に国有化される幹線や、さらに全国に張り巡らされていく地方路線や私鉄などの路線網の建設に忙殺されるのです。現代でいえばベンチャー分野やITの技術者のように引っ張りだこだったのでしょう。鉄道は最初に人の流れを、次に貨物の流れをつくり、経済を発展させて国土の構造を変えていく。その出発点がここだったというわけです。
 新橋—横浜間は、当初単線で開業した際には橋梁がすべて仮の木造で作られており、トンネルや橋梁など土木構造物は関西に集中しています。しかし、新橋駅構内に建てられた鉄道建築が2棟、愛知・犬山市の明治村に保存されています。

ひとつは鉄道開業の1872(明治5)年に、新橋駅構内に建てられた鉄道寮新橋工場は、イギリスのハミルトン・ウィンザー・アイアンワークス社の錬鉄製の柱や窓など鉄材を輸入して組み立てたもの。

もう一棟、1889(明治22)年に作られた鉄道局新橋工場の柱には「東京鉄道局 明治貳十二年」の銘があり、錬鉄製の建物の柱は国産化されていたことがわかります。妻面に観音開きの大きな扉がありますが、この建物は木工場として使われていたようです。明治村では1902(明治35)年に作られた皇后(昭憲皇后)用の5号御料車、そして1910(明治43)年に作られた6号御料車が収められています。

鉄道技術は国産化されましたが、鉄橋の構造部材やレールについては、官営八幡製鉄所が操業を始め、日本の製鋼技術が安定する大正期まではイギリス・アメリカからの輸入に頼らなければなりませんでした。やはり明治村に保存されている六郷川鉄橋は1877(明治10)年に新橋—横浜間複線化の際に掛けられたもので、御雇外国人ボイルの設計、ハミルトン・ウィンザー・アイアンワークス社製。京浜東北線東十条駅前にかかる十条跨線橋は1895(明治28)年に日本鉄道に架けられた東北線荒川鉄橋の転用。これもイギリス・コックレーン社製の輸入橋梁です。

蒸気機関車や電車の技術は大正期に国産標準技術が確立しますが、しかしアメリカで発展した高速電車技術に使われる精密な歯車製造や制御器技術は、実は昭和20年代末まで輸入に頼らざるを得ない部分がありました。そこから10年弱で、製造技術は全国産で東海道新幹線を開業させるのですから、今回の特集では取り上げませんでしたけれど1950年代の「もうひとつの鉄道技術の国産化」も、それはそれですごい話になるわけなのです。今号の評判次第で、改めて企画したいところですネ。(偽)

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