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「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」

復活節第3主日
ルカ 24 章 36~43節
板野のメモによる八谷牧師の説教まとめ

 「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』 と言われた (36節)」。 36節以降は、 先週の13~35節の物語の続きである。 二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かっていた。そこに一人の人が近づいてきて、 一緒にエマオに向かった。 一行はタ方にエマオに到着し宿を取った。 そこで二人は一緒にいたその人が 「甦りのイエス」 だと分かった。 彼らは 「時を移さず出発してエルサレムへ戻った (33節)」。
そして 「11人とその仲間」に 「道で起こったことやパンを裂いてくださった時に、 イエスだと分かった次第を話した (35節)」。 これが 36 節の「こういうことを話していた」 に繋がる。 今日の物語の時刻はその日の夜である。イエスは弟子たちの中に現れる。 「彼らは恐れおののき、 亡霊を見ているのだと思った (37節)」。 弟子たちは「甦りのイエス」 を 「亡霊」 と思ったという。マルコ 6 章 45~51 節の物語では 「幽霊」 という言葉が用いられている。 湖の上を歩くイエスを見て、弟子たちが 「幽霊だと思 (49節)」 ったという。この湖の上を歩くイエスの物語はマタイ福音書とヨハネ福音書にはある。 しかしルカ福音書にはない。ルカはこの湖上の物語を今日の箇所に置き換えたと思われる。

 「甦りのイエス」 を見た弟子たちは、 「亡霊」 を見ていると思い、 「恐れおののいた」。 イエスは言われる 「なぜうろたえているとか。 どうして心に疑いをおこすのか (38節)」。 「甦りのイエス」 に出会う人間は、「恐れ、 おののき、 うろたえる」。 そして「心に疑いを起こす」。 これがイエスに出会う者の始めである。マルコ 16章14節に 「そののち、11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」 とある。 イエスに初めて出会う者の心には不信仰がある。 それはかたくなな心、 信じられない心である。そのような弟子たちにイエスは 「あなたがたに平安があるように ( 36節)」と言う。 マルコ 6章では湖上のイエスは弟子たちに言う。 「安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない (50節)」 と。 二つの箇所では同じ言葉が用いられている。 それは「シャローム」 である。 それは 「平安、 安心 安息」 を意味する。 「恐れず、心安らかにしなさい」 というのだ。

 「私である (6章50節)」、 それは今日の箇所では 「私の手や足を見なさい。 まさしく私だ。 触ってよく見なさい。 亡霊には肉も骨もないが、 あなた方に見える通り、私にはそれがある (24章39節)」 に対応する。 そこに 「甦りのイエス」がいる。 弟子たちにとっては、生前のイエスこそが理解できない 「亡霊」 であった。 今まで気づかなかった。 わからなかった。 しかし今はそのイエスの姿がはっきりと見えた。いつも共にいるイエスの姿が見えたのである。「まだ信じられず、不思議がっている (41節)」弟子たちの前で、イエスは「焼いた魚ひと切れ」を「取って、彼らの前で食べられた (43節)」。 このイエスを見て「イエスとは誰か」がわかったのだ。 イエスは食卓を囲み共に食事をし、た方である。時には五千人を前に、わずかな魚とバンを配り、人々を満腹させた方である。また罪人とされた人、蔑まれた女性と共に食事をする方である。今までわからなかったイエスが見えてくる。 「甦りのイエス」に生前のイエスの今までは見えなかったその「骨や内」が見えてくる。 食卓を囲んで生きたイエス、その姿をよみがえらせるもの、それを私達は「甦りのイエス」と呼びたい。

 「甦りの信仰」の始まりは空虚な墓である。 イエスはもはや喜の中に眠ってはいない。死者の中にイエスはいない。では「甦りのイエス」をどこで探すのか?イエスは誰か?これは Who の問いである。 イエスはいつ生きたか?これはWhen の問い。 イエスとは何か?それは What の問い。 イエスはどのように生きたのか?これは How の問いである。そして最初の問い、 「イエスはどこにおられるのか?イエスをどこで見つけることができるのか?私たちはどこで 『甦りのイエス』と出会うのか?」、これは Where の問いである。36節にその答えがある。「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」である。 「真ん中」 が Where?の答えである。イエスは「真ん中におられる。 「彼らの真ん中に」 おられる。 ではそれは何の「真ん中」か?

①神と人との「真ん中」:イエスは私たちと神とを結びつけようとしておられる。これを Who?の問いに変えて答えるなら、イエスは和解者、仲介者である。 神と人間との間に立って和解をもたらす。

②私の心の「真ん中」:イエスは私の心の「真ん中」に立っておられる。 そして分裂してバラバラになった自我を一つにしてくださる。

③私たちの「真ん中」:イエスは人間と人間とを結びつける。 人間と人間との間にあって、 新しい関係を作らせる。 イエスは人間たちの「真ん中」に立つ。そして人々の間に立って、「安心しなさい。 シャローム」 言われる。

④教会の「真ん中」交わり エクレシア)の「真ん中」にイエスはおられる。散らされていく (ディアスポラ) にあっても私たちの「真ん中」におられる。離れても散らされても、私たちに 「安心しなさい、シャローム」と声をかけられる。 イエスが私たちの中心にある。これらのイエスは、「共にあるイエス」と置き換えられる。 私たちが、気がつかない時も、知らない時も共にいてくださる。 これが 「インマヌエルの神」である。これが「神、我らと共にいます」 神である。私たちの主は「我らと共にいます」。私たちは主イエスをどこに見つけるのが? 主イエスは、我らと共にいてくださる。そこにイエスを見つけるのである。

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