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「約束された聖霊を御父から受けて」

三位一体主日礼拝(聖霊降臨節第2主日) 使徒言行録2章29~36節
板野のメモによる八谷先生の説教のまとめ

 イースターから40日目にキリスト昇天の出来事があり、50日目の五旬祭の日にペンテコステの出来事が起こった。本日の聖霊降臨節第2主日礼拝は三位一体主日の礼拝である。使徒言行録2章14節するとペトロは11人と共に立って、声を張り上げて、「話し始めた」。ペトロは聖霊の導きに促され、「新しい言葉(マルコ16章17節)」ペンテコステの出来事とは何か?それは「立ち上がった」である。すなわち、イエスの十字架の元から逃げ去った弟子たち、「イエスを知らない」と言ったペトロ、その弟子たちが「立ち上がった」。それがペンテコステの出来事である。ベトロは「声を張り上げて、話し始めた」。仲間の内の話ではない。ペトロは大声で説教を始めたのである。十字架の前で、恐れおののいていた弟子たちが、「立ち上がり」、「大きな声」で、「甦りのイエス」を証しする。これがペトロのペンテコステの説教である。

 ペトロは「イスラエルの人たち(22節)」に向けて、旧約聖書を引用して語る。彼らにとって馴染みのある旧約聖書の言葉を用いて、「甦りのイエス」を証しする。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る(2章17節)」これはヨエル書3章1節以下の引用である。ペトロは聖霊降臨の日に「大きな声を張り上げて」、見た「幻」と「夢」を語る。それは聖霊の働きによってもたらされた「甦りのイエス」という「夢」と「幻」である。

 2章25節以下は、詩編16編8節以下の引用である。ペトロは証しする。「ダビデはイエスについてこう語っている(25節)」。おかしくないか。ダビデはBC1000年頃のイスラエル王国の王である。そのダビデがイエスについて語ることが出来るのか!ペテロはここで詩編を、客観的、学問的には「間違えて」読んでいる。しかしここでベテロにとっての聖書の読み方を学ぶことができる。私たちも聖書を「誤って」読むことが出来る。むしろ「誤って」読みたい!それは自分勝手に読むことではない。ではペトロはどのように聖書を読んだのか?それは「旧約はイエスについて証ししている」、つまり「旧約の中からイエスについての証を読み解く」という仕方で旧約を理解したのである。ここに旧約聖書の読み方の手本がある。旧約聖書を歴史的に、学問的に読むのではない。旧約聖書の中にイエスの姿を見いだし。イエスの姿を旧約の中に読み解くのでベトロは言う「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は黄泉に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない。』と語りました(30~31節)」。「ダビデは天に昇りませんでした(34節)」。「彼は死んで葬られ、そのはかは今でも私たちのところにあるとはっきり言えます(29節)」。ダビデは死んで葬られ墓の中に眠っている。しかしイエスは違う。イエスは、父なる神に引き上げられ天に昇り「神の右の座(34節)」に着いておられる。イエスは神と共におられる。これがペトロのペンテコステの説教である。

 ペテロは何を言いたかったのか?「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです(36節)」。「イエスは主である。イエスはメシアである」。これをつづめて「主イエス・キリスト」と言う。これが古代の最も古いイエスについての告白、キリスト告白である。最初の信仰告白である。

 「ナザレの人こそ、神から遣わされた方です(22節)」。イエスは神から遣わさされた人。イエスは神からの人。「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました(33節)」。「神から」来たイエスが「神の右に上げられ」、「聖霊を注がれる」。これはどのような信仰告白となるのか?「イエスは神からのもの」「イエスは神の右に坐し」神と等しい、イエスに「神の聖霊が注がれている」。これらは三位一体を告白している。使徒信条は2世紀の終わりから3世紀始めにキリストの教会で確立していた。ニケーア会議(325年)では三位一体論、カルケドン会議(451年)ではキリスト論が論議されている。古代教会の関心は、「旧約の神と新約の神は同じなのか?神はどのような方なのか?」である。そして一人の神を三つの仕方で告白する。

 第一項は父なる神;創造主、第二項はイエス・キリスト;主は神の御子神から使わされたお方、第三項は聖霊;生命を与える主、「父と子」から聖霊が出る。父と子を関連つける働きが聖霊。(東方教会は「父から出る」という見解、西方教会:ローマカトリックからプロテスタントは「父と子から出る」という見解、この相違から東西に分かれている)かつてキリストに宿った霊、神と共にあるキリストの霊、その同じ霊が私たちにも注がれている。私たちも甦りへと導かれている。死んで終わりではない。死んでも神に導かれている。イエスを導く同じ霊が私たちにも働いている。神からの聖霊、天にあって神の右にあるキリストの聖霊、この同じ霊が教会に働いている。このことを告白するのが本日の三位一体主日礼拝である。

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