知らない幸せ、知らない不幸

僕には見ることのできないありふれた幸せいくつあるだろう。僕らが知ることのできないありふれた別れもいくつあるだろう。

サカナクションのグッドバイを初めて再生したとき、この歌詞とおんなじことがずっと自分の中で漂っていたことに気がついた。山口さんが何を考えてこの歌詞を作ったのかはわからないけど、似たようなものではあると思った。そう感じた。知らない幸せ、知らない不幸。自分以外の人間の数だけ存在するそれらを、時には手が出るほど欲しくなったり、自分の持っている物と比べてたいしたことないって無意識に思っていたりするとき、少ししてからこの言葉を思い出して、改めて自分に言い聞かせる。それしかできないけど、自分の大事にしているものの一つだと思う。つきつめると誰か別の人間になって人生を送ることでしか、実際に体験することはできないからずっと言い聞かせるだけだけど、大切な大切な言葉。

私の両親は仲が良くない。父親は大っ嫌いだし、本来であれば生まれてからずっと共に生活してきた二人しかいない親なのに、無償の愛があるはずなのに、父親からそう思うようになるほどのことをされてきた。でも、暴力はふるわれていない。どうしようもなくっても、仕事を一切しなくて、母の稼ぎだけに頼ることもなかった。だから私はお母さんとお父さんが仲の良い家庭の子がすごく羨ましいけど、暴力や貧困に苦しんだ子は、私のことを羨ましく思うだろう。父からほとんど干渉を受けず、学校に合格しようが久々に帰省しようが二十歳になろうがなにも言われないことを嫌だと言ったら、でも何時間も勉強させられたり厳しすぎる門限を設けられたり何か監視をされたりしたことはないでしょ?って言う人もいるかもしれない。その通りで、私はそういう苦しみを得ることのない環境ではあった。嫌なところを列挙していると、その照明が当たっている部分の他の暗闇にはあまり目がいかない。その暗闇があることを、理解していたいと思う。ただ、それ以前に父親は妻帯者、そして親になるべきではなかったとは思うけど。
家族のことで、私はよくこの言葉を思い出してる。私のなんてことない平凡な人生の中で、苦しむのはこの家族のことが一番多かったから。さっきのお父さんもそう。だけど、私の家には叔父がいて、その人の方が、お父さんより全然、百倍怖くて、嫌な思いをしてきた。今も変わらない。私は人生の3分の2くらいをその人と同じ家で暮らしていたけど、ずっとビクビクして、小さい頃は何もわかってなかったし叔父さんもまだマシだったからよかったけど、小学生くらいからは、家は100%安心できるところではなかった。共用部分はいつもその人がいないか、恐る恐る確認するのが当たり前だった。台所に行く時は、まず食器棚のガラスの反射で誰もいないか見てから行ってたし、逆に自分がいるときに足音とか扉を開ける音が聞こえたら、まだ自分がここにいるよってアピールするためにちょっと物音を立ててみたりわざと乱暴に食器を置いてみたりしてた。怒号や奇声に体が硬直して、それから耳を済ませて何か大変なことが起こらないか様子をみる。台所でおばあちゃん(叔父さんの母親)と叔父さんが強く口論してて、怖くなって少し見にいったら、叔父さんがおばあちゃんの胸ぐらを掴んでいた。おばあちゃんは泣いていた。同様にみにきたお兄ちゃんがバットを持って間に入った。夕方前、一人家にいたら、外の使わなくなった牛舎で、叔父さんが犬に異常なほど怒鳴りつけている声が聞こえ始めた。犬は聞いたこともない怯えた声でキャンキャンないていて、それはずっと止まなくて、犬が死んだらどうしよう犬が死んだらどうしようこっちにきたらどうしようって怖くなって、泣きながら、雨の中、すぐ近くの親戚の家にいるお母さんとおばあちゃんのもとに走って行った。もう、そんなことばっかだった。そんなのが普通だった。だからこそ、家で怯えることのない人が羨ましかったし、男の人の怒鳴り声で反射的に体が縮こまるようなことのない人が羨ましかったし、自由に家を歩き回れる人が羨ましかった。だけどね。だけど、そんな人たちも、私の知らない不幸があって、苦しみも悲しみもあるんだよ。それと、この私の不幸、どちらが重いかなんて、そんなの関係ない。おんなじ不幸をもしおなじように経験したとしても、その人によって生じるものはまた違くって、私が思ってきたほど辛いとは感じないかもしれないし、ぎゃくに耐えられないかもしれない。そんなもんなんだよね。だから、結局のところは、幸せも不幸も自分以外の人と比べるべきではない。先進国のこの国で生きるわたしたちがもつ、わたしたち特有の苦しみと、明日の食べ物も飲み水も確保できない、ワクチンもない、学校に行くことのできない発展途上国の人々の苦しみを天秤にかけて、どちらがより不幸なんて、だれにも、分からない。分かっちゃいけない。そんな壮大じゃなくってもいい。平凡極まりないわたしと、きらきら輝くインスタでいつもみるあの美しい人が、どちらがより不幸か、幸せかなど、はかりようがないんだよ。こちらからみたらそりゃたいそう幸せそうですよ素敵な外見と環境をおもちで。でも、私が知らない彼女の不幸、彼女が知らない私の幸せが、たしかにここにある。だから、幸せと不幸の量を自分の視点のみから推測して決めつけるのはやめたいね。心がけるだけでいいの。もしかしたら、自分の知らない苦しみや悲しみがあるかもなって、それだけでいい。自分からみえるものの正体はだいたい自分のもっている知識や経験や立ち位置から推測されるものでしかないけど、そのなかに、〈こうかもしれない〉というひとつの思考の選択肢を増やすの。それだけ。それで、ひとつ、自分で自分を救える部分がきっとあるだろうと思う。そんなこといって、自分の不幸をかいちゃったのは、弱さでもあるしやっぱり心のどこかでわたしは他の人より不幸かもと思ってしまってるからかもしれないんだけど、そんな自分も自分。穏やかにね、いきましょう。

追記
こないだ、ライブにいった。入るのが遅くなってしまって、最後列くらいになった。周りの人はほぼみんな私より背が高くて、私にはみえない景色をみていた。背伸びしてもほぼ前の人の背中や頭しかみえなくて、足の痛みだけが虚しさと共に残った。こんなことはよくある。満員電車で、周囲で一番背の低いわたしは縮こまるように人におされて、顔はあげられずに下をずっとみる。誰かの背中が視界いっぱいにひろがる。ちっぽけだなあと思う。こないだのライブハウスでも、何も見えない私の、背だけじゃなく存在も、限りなく小さくみえて悲しくなった。自分を客観的にみて、隣の人にはみえてるものがなにもみえないんだあいつにはって、憐れに可哀想に思う。そんなふうに思う必要はないって分かってはいるけど、どうしてもそう考えてしまう。仕方がない。自分の背が低いのも、仕方がない。そうあるしかないのだから、これからもずっと。だから、そんなときは、なにかは分からないけど確実にあるらしい背の低い私としての幸せを、想像する。心をあたたかい場所においておけるように。隣の芝が青いんなら、私も私なりの綺麗な色をもってる。だれかへの羨望の眼差しはきっと消えることはないだろうけど、この言葉も同時にちかくに置いておくんだ。少なくとも自分にとっては意味があるから。は〜〜人間めんどくせ〜😌







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