見出し画像

長崎駅の時計

100年に1度の大改造中の長崎駅
今の駅舎で5代目とのこと

先日3年ぶりに長崎へ墓参りに行った時、慣れない駅舎に戸惑った。
私は3代目、4代目の印象が強い
特に三角屋根にステンドグラスをはめた教会のような3代目駅舎がシンプルながらも長崎を象徴していて好きだった

3代目長崎駅舎
4代目長崎駅舎

そんな進化中の長崎駅の目の前
一等地に戦前、祖母は住んでいた

祖母は駅前で料理屋を営み
住み込みの女中さんを何人も雇うほどの裕福な家庭で育った10人兄弟の長女

家というよりお屋敷
まさしくお嬢様
最近見つけた幼少期の写真からもその雰囲気は十分に伝わる

女中さん夫婦と妹達(昭和13年頃)

幼少期のキラキラした思い出話の中で
よく話してくれてたのが長崎駅舎のこと

①学校へ行く時は家の中から見える駅舎の時計を見て出発
②電車に乗る時も駅舎の時計を見る&到着直前の案内ベルが聞こえてから出発しても間に合った

駅前すぎる立地だからこそできる技!
そんだけええ所に住んでたんよ〜♪
お嬢様やったからね〜♪
と嬉しそうに話す祖母の顔が私は好きだった

大正〜昭和初期 2代目長崎駅舎

けど、原爆が全てを奪った

爆心地から距離があったため
最初は直接の被害がなかったが
燃え広がる火事に隣家が次々と飲み込まれ、お屋敷もすべて焼けてしまったそうだ

お嬢様時代の話と原爆の話は必ずセット。天と地。裕福から一文なし。

一命を取り留めた感謝は大前提。
しかし家族にとって、現実を受け入れ一から這い上がるのは相当辛かったそうだ。そのお話はまた今度。

ちなみにお嬢様時代の記憶があるのは
祖母を含めて兄弟上5人ぐらい。
あとはまだ幼かったので、戦後の貧乏時代の記憶しかないそうだ。

晩年の飲み会では、お嬢様時代を知ってる組と覚えてない組でよく兄弟ケンカをしていた。
姉達は自分達が着せてもらった豪華な服の自慢話をし、妹達はずるいわー‼︎‼︎覚えてへんー‼︎‼︎と叫ぶ。ラストは末っ子が「覚えてないならマシよ。俺だけ戦後に生まれたから金持ちの空気も吸っとらんよ?笑」と言ってみんなで笑って終わる。これが定番だった。

お屋敷の写真は1枚も残っていない。
だから当時の雰囲気は祖母達の話から想像することしかできない。

盛ってることはないと思う。
けど弟達からすると、戦後の生活からは想像できない程のキラキラした生活に憧れと想像が膨らんでいたのだろう。

私もそんな1人である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?