アルケミストを読みながら
連載: 〜夢を旅した女たち〜 第1章 光と影(1)
「アルケミスト」
世界で最も読まれた本の一つであり、1988年にブラジルの小説家パウロ・コエーリョにより発表された本。
夢を叶えること、言い訳を作らないこと、「アルケミスト」が教えてくれる挑戦の教訓とは…
人の縁なんて…
橙子(とうこ)はそう言いかけた言葉を噤んで塗り終えたマニュキュアの左手をそっと宙に翳した。
「えっ、なに?」
「なにって…?」
「人の縁なんて…って、その後に続く言葉よ」
桜里(おうり)は読んでいた分厚い医学書を開いたまま胸の上に置くとソファに横たわる身体を少し捩って橙子にそう問いかけた。
フリッツハンセンのアイボリーカラーのチェアに脚を組んで座る橙子は何も応えず窓の外を黙って見ている。
透き通るような新緑が、風に揺れながら庭に設えたウッドデッキに淡い葉陰を落としていた。
誰も彼もが桜、さくらと浮かれたように花見に勇んで出かけた4月も末になると、都心から少し郊外にあるこの街にも新緑が色鮮やかに街を埋め尽くし始める頃だ。
「呆気ない…」
「橙子、なんかあった?」
「なにも!」
「なにもって…唐突にそんなこと言うから…」桜里は読みかけの本をパタンと閉じてゆっくり身体を起こすとソファの上に胡座をかいた。
「呆気ないわ」
「呆気ないかなぁ」
「呆気ないわよ…人の縁なんて。呆気ない」
橙子はそう言って椅子からおもむろに立ち上がると明るい陽の差すデッキの上を素足で歩きながらこう言った。
「ねぇ、桜里、人生で心許せる大切な人ってこの片手五人…うーんー、精々、二、三人くらいよね?」
橙子はそう言って、自分の両の手を澄み渡る晩春の空に翳して染み染みと眺めた。
「心許せる大切な人なんて一人居るだけでも十分よ。
突き詰めれば人は自分自身のことだって心許るせてるのかって思うわよ。
人はひとり…所詮、ひとりきりよ」
誰も居ない朝のリビングの椅子に腰掛けて、橙子は取り残されたようにポツンと一人、エスプレッソを飲みながら桜里の言葉を思い出していた。
「人はひとり…ひとりきり」
外科医の桜里らしいスパッとしたもの言いは橙子の胸の奥底でモヤモヤとした形作れない感情の上に突き立てられた刃(メス)のように思えた。
飲みかけのエスプレッソをシンクの排水口に流しながら「一人っきりか…」そう言って橙子はふっとため息をついた。
リビングのテーブルの上には散らばった数枚のDMと半分剥き掛けのオレンジが一つ、転がっている。朝の慌ただしい時間を母、洋子はバタバタと切り盛りしながら父、桐島省吾を勤務先の総合病院へ送り出し、自分も慌ただしく自宅敷地内にある「桐島産婦人科」の勤務先へと出掛けていった。
共に「医者」と言った職業に就いていた両親のもとで橙子は、4つ違いの兄、和志となに不自由なく暮らしていた。
一見、気難しいそうに見える父でも、仕事以外の父は温厚な性格で芸術や音楽等に造詣も深く、謂わゆる趣味人としても幅広い交友関係を持ち、家庭人としても妻や子を愛する優しい父でもあった。
しかし、父親の理想像とも呼べるこの父、省吾が、今から二十二年前のある日、桐島家に思いもかけぬ出来事を運んで来たのだった。
桐島家に特別な行事、祝い事や、年忌法要などに家族がよく招集された
料亭『さんじ』
その庭に設えてある四つ目垣の緑の竹の隙間から、小手毬の白い花が溢れるように咲いていた。
季節は…そう、新緑の美しい今頃だったと思う。
ミッション系の中高一貫校に通っていた橙子は厳しい受験戦争を潜り抜けずとも併設上級校にエスカレーター式で入学したばかりだった。
16歳の正に瑞々しい希望に満ち溢れた春だった。
「橙子の入学のお祝いだな」
兄の和志はそう言って下宿先のある京都から駆けつけてくれた。
名だたる有名医大を受験し、尽く不合格の通知を受け取りながらも煩憂する暇もなく一年の浪人生活から見事に京大の医学部に合格を果たした和志は両親はもとより橙子にも自慢の兄だった。
会うたびに青年から大人の男へ変貌していく兄の姿に橙子は些かの戸惑いを覚えながらも優しく快活な兄、和志と自分はかけがえの無いたった二人っきりの兄妹だと信じていた。
「何してるのかしら」
母、洋子が何やらそわそわと庭から見える渡り廊下の方を覗いた時だった。と、同時に部屋の襖がスッと音を立てて開かれた。
そこには父と、黒髪を腰まで伸ばした見知らぬ少女が、葵もみじがゆらゆらと影を落とす長い廊下に、俯くように立っていた。
日本人離れしたような手足の長い少女だった。
その長い足を窮屈そうに折り畳むようにして少女は部屋の隅に静かに座った。
向かい合わせになるように庭のイチイの葉の下に置かれた蹲の水が5月の明るい陽にてらてらと照り返し少女の顔に光を散らした。
一瞬、少女が眩しげに眉を顰めた時、橙子と目が合った。
それが、桜里との初めての出会いだった。
「今日は橙子の高校入学のお祝いの席だがその前に…」父はそう言うと一度軽く咳払いをしてから話を続けた。
「ここに居るこの娘(こ)も又、この春から都立、白堂西高校の一年生になる」
「白堂西の!」そう声を上げたのは兄の和志だった。
私立国立を含めた偏差値ランキングで常に東京都10位内、東京都公立だけなら3位内に入るトップレベルの進学校だった。
和志が入りたくとも諦めた、最難関の進学校にその少女が入学すると言う。
しかし、和志や橙子にとって桐島の家と関わりも無い少女の進学先がどこであろうと関係無い筈なのに、それがどうしたと言うのか。
父の言ってる事の真意が掴めない…
しかも今日は、橙子の高校入学の大切な祝いの席だ。見知らぬ他人がこの場にいる事自体、橙子には解せなかった。
「パパ…」橙子がその分けを聞きたくて父にそう呼びかけた時だった。
「桜里…そんな隅っこに居ないで此処に来なさい」今度は母までもが少女の名を親しげにそう呼んで手招きをして見せた。
「母さん…その子、誰なの?」橙子と同じく状況が少しも飲み込めない苛立ちを抑え切れずに和志がそう言って母に詰め寄った。
「この娘はね…」
「洋子待ちなさい、私が話すから」父は母の言葉を遮ると少女を自分の側に座らせてポツリポツリと話し始めた。
少女の名は桐島桜里、橙子と同じ姓を持ち年齢も数ヶ月違いの16歳だった。
アメリカ、ボストンに生まれ、日本人の母とイングランド系アメリカ人の父の間に生まれた桜里の母、ハル.ウィルソンは当時アメリカ在住の将来を嘱望されたピアニストだった。ボストンにあるバークリー大学在学中に国際ピアノコンクールで優勝、以来、ボストンを拠点に世界中の数々のコンクールにエントリーして賞を総なめにしていった。ハルの奏でる旋律は技術に裏付けされた圧倒的な表現力で聴く者の心を一瞬に捉え離さなかった。
「女神の指先」と観衆から称賛され、華のあるその姿にもコンサートチケットは発売と同時に直ぐにsold outになった。
しかし、その豊かな才能が故にもたらす数々の悲劇が彼女を襲い繊細な感受性と求められる音楽家としての高い技術力との狭間でハルはしばしば心身を病んでいた。
そしてある年の冬、ハルは、休養を兼ねて一時帰国していた母親の故郷の日本で、父、桐島省吾と出会ったと言う。
「つまりは…つまりは父さん、その娘は父さんの子供って事だよね?」和志はそう言って父の横に座る桜里を鋭い眼差しで見つめた。
父は無言でうなずいた。
真一文字に結んだ口から何ひとつ言い訳がましい言葉は無かった。
もう、それ以上の説明は要らない。
橙子の高校入学と言う祝いの席に、敢えて、同じ桐島姓を名乗る桜里が連れて来られたと言う事だけで父、省吾の言わんとする全ては物語っていたのだ。
誰ひとり、口を開かぬ重い沈黙を破るように、銀砂子の散りばめられた白い襖がバーンと勢い音立てて開かれた。飛び出して行った桜里を追いかけたのは、父でもなく、母でもなく、橙子だった。
あれから22年の歳月が流れ、二人は共に40手前の成熟した女になっていた。
屈指の進学校に進んだ桜里はその後、父母の期待を一心に受け、国立大の医学部に進み、順調に脳外科医としての階段を登っていった。
橙子に至ってはミッション系の高校からエスカレーター式に進学できる大学を選ばず、学校推薦型選抜のある女子医大に猛勉強の果て見事合格、父と同じ内科医になった。
桐島家の一人娘として幼い頃から何不自由なく暮らしていた橙子は、いずれ父母の跡を継ぎ、医者の道を進むであろう和志がいれば、桐島の家に、二人の医者は要らないと思っていた。
その思いを大きく転換させた存在が桜里だった。
22年前のあの日、長く薄暗い廊下を駆けて行く桜里の後ろ姿を追いながら橙子は泣いていた。
自分でも訳の分からない感情に揺さぶられ、涙が、後からあとから溢れ落ちた。
薄暗い廊下の端で振り返った桜里の白い頬も濡れていた。
二人、16歳になったばかりの春だった。
人は時々ふと、遠い記憶の中に居る自分を思い出す。
それはどんな場面でも懐かしく時に切なく愛おしい。
そして、そこにはどうしてそんな事を…?と思ってしまう情景が際立つように浮かび上がってくる事がある。
履いていた靴の形や流れていた音楽、着ていた服の色やシャツの柄、匂い、そして誰かと交わした言葉の真意…そんなことを妙に思い出すのだ。
あの時、橙子は、自分の頬の涙を拭いながら「ごめんなさい、ごめんなさいね」と言葉にならない声で桜里に向かって頭を何度も下げていた。
足元に広がる床みどりの上に二人の影がぼんやりと重なり合っていた。
「どうして…どうして、橙子ちゃんが謝るの?」桜里も涙を拭いながら橙子にそう言った。
その時、橙子は桜里が自分の名をずっと昔からそう呼んでくれていたような気がして思わず顔を上げた。
桜里の白く長い指が頬の涙を拭っている。
時折、その長い指の隙間からヘーゼル色の瞳が瞬きを繰り返し、橙子を見つめ返した。
それは、まるで、西洋の美しい一枚の絵画を見るようだった。
橙子はそれから22年経った今でもあの時の桜里の白く長い指と瞳の奥の深い悲しみの色を思い出す。
橙子があの時、桜里に頭を下げたのは、父が不義の娘として、桜里をこの世に送り出してしまった事への自分なりの贖罪の意味を込めての行為だったのか。あるいはまた別の羞恥の情、、否、優越感…?
あの時の橙子に、複雑な自分の思いを語らせるには、橙子はあまりにも幼過ぎた。
ただ、橙子は、異母姉妹としての桜里ではなく、一人の女性、人間、桜里の魅力に惹かれ…橙子の人生の目標として桜里の背を追いかけていった。
ーあらすじー
共に「医者」と言った職業に就いていた両親のもとで桐島橙子は、4つ違いの兄、和志となに不自由なく暮らしていた。
父親の理想像とも呼べる父、省吾が、今から二十二年前のある日、桐島家に思いもかけぬ出来事を運んで来たのだった。
異母姉妹の存在、家族の在り方、人生の選択
その後、共に育った娘、桜里、と橙子は脳外科医と内科医という医者になっていたが橙子は大きな人生の迷いを感じ始めていた。
🌱🌱🌱
二つの椅子の間には夏のなごりの陽がジリジリと床を焦がすほどに強く射していた。
橙子は足の爪先に塗り終えたヌードベージュのペディキュアをその西陽に晒したあと、まるで海辺の焼けた白砂を踏むようにその熱い床を爪先立ちでそろそろと歩いた。
今、ブルーノー.マーズの「Runaway Baby」の曲でもかかろうものなら、軽いステップを踏んで、踊ってみたい気分だが、それより今夜、一年半ぶりに会う篠田航平との約束の時間まで支度を急がなければならなかった。
鏡の前で橙子は、細く不揃いな眉にやや柔らかな弧を描き、瞼の上にシルバーがかったフロストブルーのシャドウパウダーを乗せた。
もう、それだけでも十分に華やいだ気分になるのだが、最後にDIORの口紅、コーラル系の朱色を唇に強めに引いた。
内科医として仕事をしていた時の橙子は、殆ど化粧気のない素顔で過ごしていた。
人に会う時、何かのパーティー等に出席する際には流石にそうとはいかず、失礼のない程度に身なりを整えたが、それでも、今日のように朱色の口紅を強めに引くことなど殆どなかったように思う。
ここ数ヶ月の間、橙子の心内で何かが大きく変わろうとしているのが橙子自身にもはっきりと分かっていた。
そして、どんな些細な事でも敏感に橙子はそれを受け入れた。
化粧の仕方や服の選び方ひとつにしても今までの橙子とは違っていた。
今日、橙子がクローゼットの中から選び取ったのはオフホワイトのセットアップのパンツスーツ。
この夏の初め、渋谷のセレクトショップで迷わず手にして買った服だった。
そのスタイリッシュな服に合わせるように華奢な三連リングのシルバーのピアスを耳たぶに付けながら橙子は壁にかかる時計を見た。
17時40分
約束の時間まであと、2時間はある。
鏡の中で美しく装った橙子の姿…
耳元でシルバーのピアスが、何かの戸惑いを振り払うかのようにキラキラと西陽を弾き返していた。
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