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ほうき森の仲間たち 【👑王様の口笛】series3

 

 美しいとか醜いとか、もう、そんなことに私はさほど関心もないのだよ。

否、そんなことより私は、何に関心を持っていいのかさえ分からなくなる時がある。

 熊のプロフは、縁の丸い眼鏡を鼻の上に押し上げながらジーポの座っている窓辺の方へ向き直しました。

「そりゃ、君の言う通り、不安で押し潰されそうな時だってないことは無いさ。
 庭の花の名も夜空の星々も、森の仲間たちの名前さえ思い出せない時もある。だからと言ってその事がいったい全体、君たちにどれほどの迷惑をかけているというのかね?」

 プロフは荒々しい口調でそう言いながら立ち上がると、ストゥブの脇に置いてある太い楢の薪を2本ばかり炎の中に勢い投げ入れました。

今の自分の気持ちを、何かにぶつけなけれすまないほど、プロフは押さえ切れない感情の高まりをジーポに見せつけたのです。

そして今度は、少し落ち着き払った声でこう話しを続けました。


「君は、君のひいお爺さんの書いた「王様の口笛」の本を読んだことがあるだろう? その文中の第1章、上段の冒頭に確かに、こう、書かれてあったじゃないか!」

「忘れていくことが何故いけないのですか…」と。

 どんぐり新聞社の記者、狐のジーポは一文字に閉じた唇から次の言葉を継げずに押し黙ったままコクリと頷きました。

忘れていくことが何故いけないのですか…

そう。

ジーポは、ひいお爺さんの書いたあの本の中の一文と同じ言葉を今、目の前のプロフから、投げかけられたのです。

そして、その言葉にジーポは何も答えられず、プロフの心のような燃え盛る炎をただ、見つめているだけでした。


 そしてまた、ここにも暗がりの中で燃える薪の炎を静かに見つめている1匹のオオカミがいました。

彼の名前はヴァディスバ.コルトー

四大森のひとつ、カモライの森の中で彫刻家として長く生きてきました。
コルトーがいつの頃からか、カモライの森からこのほうき森の大石の岩宿に住みついたのかは誰も知りませんでした。

 青く澄んだ切長の目と白い毛色と鋭い牙を持つコルトーはその姿と芸術家特有の気難しいさとで周りの者たちを容易に寄せ付けない雰囲気を身に纏っていました。
しかし、コルトーの創り出す彫刻はほうき森の至る場所でやすらぎや慰め、浄化や復活と森の仲間たちに夢や希望を与えてくれるような作品ばかりでした。
それはきっと、コルトーの魂そのものが気高く、美しさと優しさに満ち溢れていたからに違いありません。

三本杉の森の教会の広場にある【フェリキタス:幸福な仲間たち】
ベロだし峠の坂の上の病院の広場のオブジェ【希望への賛歌】
図書館の広場、アヲゾラ音楽堂、そして、森の何でもない大樹の下や小さなミドリの広場にコルトーは数々の作品を残してくれました。

しかし、そんなコルトーにもいつしかクマのプロフと同じように老いが静かに忍びよりそのいい知れようもない不安は日増しにコルトーの胸の中で大きく膨らみ始めているのでした。


 パチパチと爆ぜる薪の音が岩宿のアトリエに響き渡るのをコルトーはこんなにも寂しく聞いた季節はありませんでした。

森に朝からしきりに冷たい雨の降る日でした。

ゴロリンド農園の農夫、ロバのロバタは秋のりんごの収穫に寝る間を惜しんで働き、クタクタの体を引きずるように干し草のベットの上に横たえていました。

静かに降る雨音は疲れた体に心地よく、このまま眠りに落ちてしまいそうでしたがロバタは眠るわけにはいきません。午後にはオレンジ谷の入り口にあるコッペリのパン屋さんまで配達に行かねばなりません。そして、もうひとつの約束、オオカミのコルトーの大石の岩宿までもぎたてのりんご、二箱分を届け無くてはならなかったのです。

コルトーがほうき森の中で唯一心を許し、信頼しているのが農園夫のロバタでした。
確かにいかにも芸術家らしい気難しい面もあるコルトーでしたがロバタはそんなコルトーに森の仲間たちと同じように付き合い、ゆっくりと長い時間をかけて信頼を築き、友情を温めてきたのでした。

そしてまた、4大森の中でも優れた彫刻家としての才能をもつコルトーを尊敬し、彼の素晴らしい世界観や深い思いやりの心を持つオオカミであることをロバタは森の仲間たちに伝える役割を努めてきたのです。

 オレンジ谷の入り口、マカロニトンネルの直ぐ側にあるコッペリのパン屋はブタのゼヒトモさん親子が営んでいる森の小さなパン屋でした。

ロバタはいつものようにパン屋の裏口にある丸太小屋の中に注文のりんごの入った木箱を積み上げていると、ブタのゼヒトモが柔かな笑顔で近づいて来て言いました。

「ロバタさん、雨の中をすみませんね。ごくろうさまです」

「いやいや、こちらこそありがとうございます。ゼヒトモさんに頼まれたら雨だろうが嵐だろうがお伺いしますよ」ロバタは笑いながらそう答えたあとにふと、手を止めて目の前のりんごの木箱をもう一度数え直し始めました。

「ゼヒトモさん、私は注文の数を間違ちゃいませんよね?去年の秋の注文より随分と多い気がしますがね」

「お陰さんで今年はご覧の通り、注文が次からつぎですよ」

ゼヒトモは色白の丸い顔にのったさくら色の大きな鼻を幸せそうに膨らませながら腰に下げた注文伝票をロバタに広げて見せました。

「ここ三年ばかり、世界中を苦しめた感染病のせいで森の仲間たちが寄り合う事が出来なかったからですね。でも、ようやく今年のクリスマスは会いたい人に会える。楽しい時間をみなと過ごせる時が少しづつ返って来ているんだと思います」
「それは良かった。言われてみれば去年も、一昨年のクリスマスもコッペリのシュトレーンもりんごのパイも食べる機会がなかったですからね。ひとりで食べるには大き過ぎましたよ」

ロバタもゼヒトモも互いの顔を見合わせて笑顔で頷き合いました。

「これからコルトー先生の家まで?」

「えぇ、コルトー先生にも、もぎたてのりんごを食べて頂きたいんでね、届けて帰りますよ」ロバタはりんごを積み終えた丸太小屋のドアを閉めると雨に濡れた革の帽子を被り直しながらそう言いました。

「ちょっと待っててくださいましな」

ゼヒトモは慌てて店に入ると両手に出来立てのりんごのパイの入った包みを二つ抱えて戻って来ました。


「出来たてのリンゴのパイです。ひとつはロバタさんに、そしてもうひとつはコルトー先生に持っていってあげてくださいな」

「やーや、これはこれはいつもありがとうございます。コルトー先生もゼヒトモさんのりんごパイは大好物!喜んで頂きますよ」

 そのりんごのパイはロバタの濡れた皮のコートの中で僅かな温もりを保ちながらコルトーのもとに届けられました。

コルトーの大石の岩宿はコッペリのパン屋からさらにオレンジ谷に向かう坂の下あたりのゴロゴロと足場の悪い場所にありました。

大きな岩をくり抜いたようなコルトーのアトリエの中は一見、乱雑なようでも一定の規律を持って整然と様々な道具が置かれてありました。

鋭い刃の彫刻刀や大小の木槌、削られた石の塊、立て掛けられたイーゼルの中の不思議な構図絵
石を組んで造られた大きな暖炉の中では乾いた薪がパチパチと爆ぜながら焔を揺らし燃えています。

コルトーはその部屋の中央にある大きな樫の木の椅子に腰を下ろし、いつものように気難しい顔をしてロバタを招き入れました。

「コルトー先生、お変わりありませんか?
先程、コッペリのパン屋さんまで配達に行きましたら、ゼヒトモさんからコルトー先生にって、作り立てのりんごパイをいただいて来ましたよ。ほら、まだ、温かい。美味しいお茶でも淹れましょう」

ロバタはそう言うとキッチンのカップボードの扉を開き、棚の上に手を上げた瞬間に「あっ」と、小さな声をあげました。

 そこには二週間ほど前に坂の上の病院長 犬のヨウゴウ先生から預かり届けた葡萄が籠の中でジクジクと腐り異臭を放していたのです。
そして、注意深くカップボードの棚の上を見渡すとカビの生えたクッキーやパン、干からびた果物や溶け落ちて固まったチョコレートなどが至る所に無残な姿で散らばっていました。

ロバタはキッチンの隅にあった麻の袋にそれを手早く放り込むと勝手口のドアの隙間から引いて来た荷車の上に投げ入れました。

いつもと何かが違っている…

大好物の果物もクッキーも食べ残しているのじゃない。
全く手つかずのまま腐らせてしまって、コルトーはまるでそこにそんな物がある事さえ覚えていないかのようでした。

ロバタはコルトーの暮らしの中にロバタの知らないコルトーを見るような、そんな妙な気分でした。
それでも、ロバタは平気を装い、温ためたティーカップにオレンジペコの紅茶を注ぎ入れながらコルトーにこう声を掛けました。

「コルトー先生、随分と寒むくなりましたね、お身体の具合はいかがですか?」

「別になんともないよ」

コルトーは相変わらず気難しい顔をして皿の上のりんごのパイを食べながらそう応えました。

「こう言っちゃなんですが、コルトー先生もお年を召して来られたのでお身体にはくれぐれも気をつけてくださいね。何かご不自由なことがあったらいつでも私や森の仲間にたちに言ってくださいね」
ロバタはそう言って、テーブルの上に湯気の立つお茶のカップを置きました。
そして、薪棚から新しい薪を数本抱えてきて暖炉のそばに置くとアトリエの中をぐるりと見渡しました。

窓の側の石膏台の上にある石の塊はこの夏から少しも形を変えず硬いミノが打ち込まれたままになってそこにありました。
どうやらコルトーはここ数ヶ月、彫刻家の仕事もせずに日がな一日をぼんやりと暮らしているようでした。

「コルトー先生、それでは私はそろそろお暇します。しつこい様ですが何かあったら私や森の仲間たちにいつでも仰ってくださいね。困ったことがあったらいつでも飛んできますから」

ロバタはそう言って暖炉のそばで乾かしていた革の帽子を深く被りました。

するとコルトーは、手にしていた分厚い赤い革表紙の本をパタンと閉じてテーブルの上に置くと、少しキリキリした物言いでこう言いました。

「君は最前から何かあったら、何かあったらと何度も私にそう言うが、その何かとは何だね、ロバタ」

ロバタはその赤い革表紙の本をいつかどこかで見たような気もするのですが直ぐにはどうしても思い出せません。それよりコルトーの物言いに慌ててロバタは笑顔を作って見せました。

「いえ、特別何か、って言う話じゃないんですよ、寒くなって来ましたから…」
「私が…」
コルトーはロバタの話を遮るように言いました。
「私が何か君たちに心配をかけたり、自分で解決できない困りごとでもあると言うのかね」

「い、いぇ…」ロバタは思わず被った帽子を剥ぎ取りました。

「ロバタ、見てご覧、あの本棚の中を。
私は君たちがどうやったって読み解くこともできない難解な本や世界中の有名な芸術家、音楽家、賢者と呼ばれる者たちの教えに学び、今日まで生きて来たのだ。今更、何を君たちに相談できることがあると言うのかね。そして、今、私は君やこのほうき森の仲間たちに何か心配をかけているとでも言うのかね」

「いや…あのぉ」ロバタはコルトーの息巻く言葉に何も返せずうつむきました。

いつものコルトー先生と何かが違っている。

ロバタはもう、何も言わずに帰ろうと思いました。

ロバタが入り口の壁にかけてあった濡れた皮のコートを羽織っているとコルトーが背中越しに「その足下の箱は何だね?」と尋ねました。
「これは私の農園のりんごです。毎年、コルトー先生にはもぎたてのりんごを一番に食べてもらっているので今年もお持ちしました」

「りんごかね…」コルトーはポツリと呟きました。

そして、「君は私がこの世の中で一番嫌いな食べ物がりんごだと言うことを知らないのか!」と吐き捨てるようにロバタに言いました。

「コルトー先生!それは酷い…。先生はたった今も私の農園のりんごがたっぷりと入ったりんごのパイを食べたばかりじゃありませんか!毎年、私のリンゴを楽しみにしてくださって、農園にも何度もリンゴをもぎに来たことだってあったじゃないですか!」

ロバタは疲れていました。

ここ数日、寝る間も惜しんでりんごの収穫に働き詰めでクタクタでした。
普段は声を荒げたり森の中で起きることに不平や不満など決して口に出さないロバタでしたがコルトーのわけのわからない言葉に思わず声を荒げました。
コルトーもまた、自分のわけのわからない感情を抑えることができませんでした。
そしてその感情をロバタの言葉を引き金に爆発させてしまったのです。

「こんな物!」

鋭い爪のある右足でコルトーは赤く艶やかなりんごの入った木箱を強く蹴飛ばしたのです。

「あっ!」

紅いりんごはドアの隙間から氷雨の降るぬかるんだ道にゴロゴロと音を立てながら転がり落ちていきました。

バタンと石戸の閉まる音がロバタの背中越しに酷く冷たく聞こえました。


 ロバタはしきりに降りつづく氷雨に濡れた紅い、紅いりんごをひとつ、またひとつと、木箱に拾い上げました。
そして、重い荷車を引きながら石ころの道を歩き始めたのです。

頬をつたっているのは冷たい氷雨なのか涙なのかはロバタにはどでもいいことでした。

ただ、悔しくって、悔しくって。
      腹立たしくって、悲しくって…。

どうしようも無い気持ちがロバタの胸の中で渦巻いていました。

コルトー先生は一体どうしてしまったのだろ。
いや、それより、私の何処がどうコルトー先生を怒らせてしまったのだろう…。

ロバタの気持ちはもう、ぐちゃぐちゃと自分でもよくわかりません。

コルトー先生、ごめんなさい。
    ごめんなさい、ごめんなさい… ごめんなさい。

ロバタの引く荷車の中で氷雨に濡れた紅いりんごも泣いているようでした。

 落ち葉の敷き詰められたベロ出し峠の坂道を上り詰めれば、目の前に広がる白樺の林。
その林の奥にある、青い三角屋根の小さな病院は、犬のヨウゴウ先生と息子のアナンさんとでやっている森に一軒しかない病院でした。

北風を受け、三角屋根の上でクルクルと風向きをかえている風見鶏はこの夏、ロバタがピカピカに磨き上げて白いペンキを塗り替えたばかりでした。

「相変わらずこの坂道を登ってくるのは大変だな」ジーポはそう言って白い息をひとつ吐きました。

数日前の冷たい雨は、秋をいっそう深くして、ジーポはツィードの厚手のコートにボルドー色の毛糸の襟巻きをぐるぐる巻に首に巻きつけていました。

それに引き換え、ロバタは薄手のスェードの上着を一枚羽織っただけで坂の上から吹きつける冷たい風にジーポはしきりにロバタを気にかけました。

「寒くは無いか?」

「大丈夫だよジーポ。僕は元来身体だけは丈夫なんだ」ロバタはそう言ったあとに大きなくしゃみをひとつしました。

「ほら、言わんこっちゃない」

ジーポは呆れた顔をして、自分の首にまいてある襟巻きを外すとロバタの前に突き出しました。

「う〜ん、やっぱり、あったかいやぁ。ジーポ、ありがとう」
「痩せ我慢はしないこと!そんな上衣一枚じゃ風邪ひいちゃうよ」
「ああ…」ロバタはそう頷いて毛糸の襟巻きの中に顔を埋めました。

ロバタの皮のコートは先日コルトーの家から帰ると途中、冷たい雨に降られ、グッショリと濡れ素ぼり未だに家の軒下に吊るされたままになっていたのです。

幼い頃からこうしてジーポは何かにつけロバタのことを気にかけてくれました。そしてロバタもまた、ジーポのよき友人として喜びや悲しみをいつも分かち合ってきました。

硬く冷たい病院の長椅子に腰を下ろして、ジーポが静かな声で言いました。

「君が昨夜、僕に話してくれたコルトー先生のこと、そして、僕がプロフの家を訪ねて感じたことは全然違う話のようで、実は似たような事だと思う。ただ、僕も君も「何かがいつもと違う、、」そう、感じただけで、それ以上は何も言えない。僕らは解決していくだけの知識を何も持っていないからね。そのことについて今日はヨウゴウ先生としっかり話し合おう」ジーポは新聞記者と言う職業柄、感情的にならずに冷静に言葉を選びました。

「そうだな」ロバタも静かな声でそう応えました。

古い病院の窓の外では檀香梅の黄葉が冷たい北風に吹かれガサガサと乾いた音を立てていました。

 診療室の窓に凭れてヨウゴウ先生は、白衣の両腕を組んでぼんやりと外を眺めていました。

 空には今にも凍りつきそうな雲が灰色の層をなして重く垂れ、おひさまはその雲の陰で少しばかりの明るさを森の上に投げかけていました。

この季節には、生い茂っていた秋草も枯れ、病院の周りの楢や栗や櫟の木々の葉も冷たい北風にその葉を散らしていきました。

「自然は時に残酷ね」

ヨウゴウ先生は、ぽつりとそう呟きました。

「ついぞ、この間まであんなに美しい花々や緑で覆われていたこの森の木々も北の風が吹き始めると力尽きるようにその葉を落としてしまう。
コルトー先生やプロフに訪れている『老い』はまるでそんな森の姿のようだわ」

「ヨウゴウ先生、僕らはいったい何をしてあげれば…」
ジーポがそう問いかけた時、ヨウゴウ先生は古い診療室の木枠の窓をパンと勢い開け放ちました。

凍りつきそうな冷たい北風が一気に診療室の中に入ってきてロバタは思わず巻いていた襟巻きの中に首を窄めました。

「見守ることしかできないわね」

「それだけ 、、ですか?」
ジーポはそう言ってコートの襟を立てながらぶるっと体を震わせました。

 するとヨウゴウ先生は窓から身を乗り出すようにして大きく深呼吸を一つして言いました。

「ご覧なさい、ここから見える森の景色を。すっかり葉を落としてしまったこの森はやがて雪に覆われて静かに冬の眠りにつく。
誰も止められない自然の力だわ。その力に抗う必要などなにもない。ただ、こうして静かに見守って行くだけ」

「でも、ヨウゴウ先生、僕らにはそれ以外にも出来る事があるのじゃないかと…」
ロバタは眉を顰めてそういいました。

「ロバタ、他に出来ることがあったら私にも教えて頂戴」

 ここ数年、世界中を襲った奇妙な感染病にこの坂の上の病院は森の仲間たちの一番の心の拠り所でした。

みなし児で野ねずみだったオルゲンハットの帽子職人、ねずみのナチューが感染病に罹った時、ヨウゴウ先生と息子のアナンさんは自分の命に危険が及んでもこの森に感染病を広めずその命を救ってくれたのでした。

 そのヨウゴウ先生が「見守っていくだけ」と言い切ってしまった。

それはジーポにもロバタにもこれ以上の解決策など何も無いのだと言われてしまったも同然でした。

「ロバタ…あなたは私やジーポ以上に、より、自然に近い場所で働いているわよね。
例えば、寒い夏や、大雨、嵐が農園を襲って来る事だってある。予測がつかないでしょ?そんな時ロバタはどうする?」

 ロバタは膝の上に乗せていた大きな拳をぎゅっと握り返すとヨウゴウ先生の痩せた背中越しにこう言いました。

「そんな時は…」

「そんな時は?」「黙って嵐が過ぎるのを見守るしかないです」

「そうよね、、私たちにはどうあったって自然の、そう、その自然は神様だって思ってもいいかもしれない。その神様のなさることには何も抗う事ができない。でも、ただ見守って行くことにはじっと耐えていく我慢が必要よ、この我慢がなかなか大変。コルトー先生もプロフもこの私にも老いと言う自然の流れには抗えないのよ。そして、その老いを見守る者たちにもいつしか必ずその時がやって来る。まさに季節が巡る順番のようにね」

自然に抗う事なくありのままを受け入れていく…。

「見守るしかない」と言い切った医者のヨウゴウ先生の言葉はジーポとロバタの胸の中に小さなもやもやを作りながらもそれが今、一番、自分たちが納得出来る言葉のようにも思えてきました。

落ち葉の敷き詰められた夕陽の坂道を、重い足取りで下りて来たロバタとジーポでしたが、いがぐりごんご岩のあたりまで来ると空を染める夕日の美しさに少しばかり気持も和んで来ました。そして、ロバタとジーポはいつも通りの明るい自分達を取り戻していたのです。

 すっかり裸木になったそこら中の木々の隙間を駆け抜けながらジーポが大きな笑い声をあげました。

「僕の方がガサゴソ落ち葉を蹴る音が大きいぞ!」

「何言ってんだよ!ほら、僕の方がこの後ろ足で蹴り上げる落ち葉の量が多いよ!」
ロバタはそう言って後ろ足でガサガサと音立てながら落ち葉を蹴り上げました。

すると赤や金色の落ち葉は夕陽にキラキラと舞い上がり、そこら中に落ち葉のカーテンを広げました。

「わぁ、綺麗だな、ロバタ」ジーポはそう言ってロバタに微笑みかけました。

 どんなに心塞ぐ出来事も困難なこともいつもこの愛すべき友は互いを尊重し、力を合わせ、ものごとに立ち向かって来たのです。

 ヨウゴウ先生に自分たちの納得できる答えをもらえなかったとしても、それをより良い方向に変える力をロバタとジーポは持っていました。そして、それはいつも森の仲間たちの力をも導き出すものでもありました。

その日から幾日も経たぬ寒いさむい日の午後の事でした。

 ロバタはりんごの収穫の仕事を終えると薪の火が燃える温かな部屋で疲れた体を休めていました。


ふと、ロバタはこの夏に、彫刻家のコルトーから借りたままの「アンリ.ルソー」のカタログ.レゾネをコルトーにまだ返していない事を思い出したのです。

ミントグリーンの表紙をそっと開くと古い紙の匂いがして、ルソーの作品群が年譜事に順番に記してある本でした。※レゾネ 画家の作品系譜

 ロバタがルソーの描く絵が好きだと言えば、「ルソーの絵なぞ、如何にも常人の好みそうな趣向だな」とコルトーはいつものように眉間に皺を寄せながらも本棚から両手いっぱいのルソーの画集を抱えて来てくれました。

 また、ロバタがアカガシの樹の根本で、幼い頃何度も読み返した大好きな絵本をコルトーも一等大切に本棚にしまっているのを見つけた時、コルトーもロバタも思わず両手を取り合って、アトリエの中を飛び跳ねたこともありました。

 こうして、強面で気難しいコルトーでも時間をかけて付き合えば優しい思いやりのあるオオカミでした。

コルトーはロバタの知らない智の世界へと導き、ロバタに学びの時間をくれました。

 

 農作業でささくれだった蹄で頁をめくって行くと、頁の中程に押し花にした一枚の赤い葉が挟んで有りました。コルトーもこのレゾネの頁を熱心にめくっていたのだと思うとロバタはここにもコルトーと同じ思いがあるようで、とても嬉しい気持ちになるのでした。

 雨の日の出来事から足が遠のいていたコルトーの家に、ロバタはこの本を返すことを理由に訪ねて見ようと思いました。

そんなことを思っている時でした。

トントン、トントン

ロバタの家のドアを叩いている者がいます。

誰だろうこんな日暮れに。

窓の外はもう、すっかり陽が落ちて、今にも冷たい雨が降り出しそうなお天気です。

トントン、トントン

「はい、はい、今開けますよ」

ロバタが重い樫の木のドアを開けると、そこには青いマントを纏った見知らぬ1匹の黒猫が立っていました。 

 その、夕暮れの訪問者は静かに降り出した雨の中でまるで一枚の絵のように身じろぎもせずに佇んでいました。

 美しい青いマントの肩先には銀色の雨粒がキラキラと宝石のように輝き、エメラルドグリーンの大きな瞳は一点の曇りもなく澄んで、真っ直ぐにロバタに向けられていました。

「こんばんは。突然の訪問をお許しください。私はカモライの森からやって来ました、猫のニーケと申します」訪問者はそう言って、ロバタに艶々とした美しい毛並みの右手を差し出しました。

 ロバタは一瞬、退りぞきそうになる自分の足を蹄でぐっと踏ん張ると、その手を恐る恐る握り返してこう言いました。

「こ、こんばんは、ようこそ遠いところから…。私はロバタと申します。この、りんご農園の主をしております。この私に一体、どんな御用で?」

 がっしりと力強く握り返したニーケの握手は、何か強い意志を持ってここを訪ねて来たような、そんな只ならぬ雰囲気を醸し出していました。

どこか威厳と風格をその身に湛えている黒猫のニーケ。

 その、ニーケが遠いカモライの森から一体ロバタに何の用があると言うのでしょうか。

 後に、彼自身が語るある出来事をきっかけにニーケは自分の大切な友人を失っていました。その友人にどうしても再会を果たし、やってもらわなければならない事をお願いにこの森までやって来たと言うのです。

パチパチと薪の爆ぜるストーブの前でおもむろにマントを脱いだニーケは雨に濡れた身体をその火🔥でゆっくりと温めました。

「お寒かったでしょう。雨はみぞれに変わりましたよ」
ロバタはそう言って、ニーケの前に温かなミルクの入ったカップを差し出しました。

「これはこれは、ありがたい。あぁ…身体の芯まで温もりそうだ」ニーケは瞼を閉じてホッと息を一つ、つきました。

ロバタは羊の毛糸で編んだ膝掛けをニーケにかけてあげながら
「先ずは、ゆっくり体を温めてからニーケさんのお話をお聞きしましょう」優しい声でそう言いました。

柔らかな寝息の音が聞こえていました。

 疲れ果てているのでしょう。

 ロバタは新しい薪をストーブにそっと投げ入れると膝掛けに包まって眠っている猫のニーケの寝顔をシゲシゲと眺めました。

 こんな北風の冷たい中を、どれほどの時間をかけて遠いカモライの森からニーケはこの森にやって来たのでしょう。

 ロバタは、カモライの森に未だかって行ったことはありませんでした。場所によっては険しい岩肌を滑り落ちる覚悟で通らなければならない場所もあると聞いたことがありました。

 ほうき森より更に北の場所に位置するその森は、これから厳しい寒さの中で冬を迎え、雪に閉ざされた森の生き物たちはひっそりとねぐらの中で春を待つのだそうです。そんな厳しい森に暮らすものたちは、大自然の美しさが際立つその森の厳しさと、神秘性を享受し、音楽家、芸術家、作家、写真家とそう言った仕事を生業にするものたちが好んで住んだ森でもありました。

(確か、、彫刻家のコルトー先生もこのカモライの森で嘗て暮らしていたんだ…)

ロバタはぼんやりとそんな事を思い出していました。

しかし、今、目の前で泥のように眠る黒猫ニーケが危険を冒してまでこの森で会いたいと思うものは誰なのか…。

そして、何を果たそうと?

 この森へ?
      約束?

ロバタは自分が考えても仕方のない事が頭の中をぐるぐる駆け巡っていました。

壁の時計の針はいつの間にか夜の8時を指していました。

ロバタはおひさまで乾かしたフカフカの干し草のベットを用意して、今夜はニーケに此処でやすんでもらうことにしました。


ストーブの中でゴロリと薪の崩れる音がしました。

すると、その音に眠っていたニーケが飛び起きて辺りを見渡しました。

「ニーケさん、大丈夫ですよ、薪が爆ぜてその薪が崩れただけですから」

「あぁ、、私はうっかり眠ってしまったのですね。
夢を見ていました。とても、とても、優しい夢でした。何か、温かいものに包まれて泣き出したくなるくらいに気持ちが解きほぐされていくような…そんな夢を見ていました」

「そうでしたか、ぐっすりおやすみでしたよ。寒い中、遠い場所から歩いてこられたのでしょう?無理もありません。ほら、足の脛がこんなに傷だらけじゃありませんか!」
ロバタはそう言って、森の薬草を練った薬をニーケの脛に丁寧に塗ってあげました。

「ありがとうございます。何から何までお世話になってしまいました。ロバタさん、甘えついでに温かなお茶を一杯頂けませんでしょうか?さっきから喉がカラカラで」

「はいはい、とびきり美味しいりんごのお茶を差し上げましょうね」ロバタはそう言って庭の茶木から摘んで作った紅茶の中に甘いりんごの実を浮かべてニーケの前に差し出しました。

「美味しいです!あぁ、体もすっかり温もり疲れも取れました。私の話を一時も早く聞いて頂きたい」ニーケはそう言って紅茶のカップをテーブルの上にそっと置きました。

しかし、その話は紅茶一杯ですまされるような手っ取り早い話ではありませんでした。
           長い々夜が始まりました。🐈‍⬛


遠い北の果てにあるその森は、点在する4つの森の中でも一番大きな領地を占めていました。

 大きく切り立った岩山や洞穴、神の樹と呼ばれる古木が至る所に根を下ろし、森の仲間たちでさえ、迂闊に足を踏み入れられない氷河のクレバスが、幾つも口を開いていました。
 また、その大自然の厳しさが故にもたらされる美しい景色や豊かな恵は、この森に住む生き物たちに数々の恩恵をも与えていたのでした。

 樹々の隙間から溢れ落ちる虹色のサークル、森を渡る風の中で咲く花、夜空を覆うほどに降る星々の煌めき、なく鳥の歌声、それ等にひとたび触れると神々し光の中で自分の魂が浄化されていくような感覚がありました。

 森の西側にある「果て舞う丘の上」では3羽の鳥が日に4度、祈りの歌を歌い、風のなかでは舞踏家たちが美しい舞を見せました。

森の音楽家たちは毎日、それぞれの楽器を持ち寄り岩の上のステージで楽器を奏でていました。

静寂と躍動する魂が混在するような森…それがカモライの森。

 古い言語から紐解けば、まさに(神の住む場所)カモライはその名が由縁の場所だったのです。

 猫のニーケはその森で新聞や本のコラムに書評を寄せるコラムニストとして生きて来ました。
元来、斜めから物事を静観したり、辛辣な言葉で相手に物言う性格は、時に仕事仲間たちから煙むたがられ、融通が効かない奴だと敵を作ることもありました。
しかし、ものの本髄を見極める心眼があり、うわべだけの綺麗事を並べることを嫌ったニーケのコラムは、多くの読者を獲得して長く続けている連載ものが幾つもありました。
 その、大切な読者の一員でもあり、また、彫刻家として類い稀なる才能と美的センスを持ったオオカミのコルトーとニーケは自他ともに認める大親友でもありました。

 彫刻家のコルトーは、芸術家特有の気難し屋で、独自の世界観の中で生き抜く一匹オオカミ。
方や、猫のニーケは、自信家で思慮深く、融通の効かない偏屈者。

 おおよそ、コルトーとニーケが親友になるような接点はどどこをどうさがしてもみつからないはずでしたがその二人には共通する性格がありました。
それは、思いやりや優しさを素直に表に表すのが苦手という事、そして、簡単に自分の非を認めない悪癖でした。

 時にそれは芸術家や物書きの強い個性、オリジナリティを生み出す起因にもなるのですがその激しいさが故にニーケとコルトーの上に起きた悲劇はその後長い月日、悲しみと後悔しか残しませんでした。

森に瑞々しい若葉が茂る五月の頃でした。

 猫のニーケは好物のミートパイを抱えて友人のコルトーのアトリエを訪ねました。
「久しぶりだったな、随分な活躍じゃないか」「あぁ、そっちこそ」

コルトーは相変わらずのぶっきらぼうな返事を返しながらも久しぶりのニーケの訪問をとても喜んでいるようでした。

「ときめきの泉の辺りのモニュメントの制作者、君に決まったそうじゃないか。僕は最初から君に決まると思っていたよ」

「あぁ、、らしいな」

「おぃおぃ、まるで他人事みたいな返事だな」

コルトーはなまじ返事をすることよりニーケの手土産のミートパイをナイフで切り分けることに神経が注がれていました。

 近年、コルトーの彫刻家としての才能は大きく開眼し、創る側からその作品は高い評価と賞賛とそしてそれに伴うように彼の名前は広く森中に知れ渡って行きました。
 ニーケとコルトーは榛の木の枝から溢れ落ちる五月の陽の光の下で丁寧に切り分けられたミートパイと氷河の氷で割ったバーボンウィスキーを飲みながら互いの近況を語り始めていました。

うらうらと陽炎五月の陽は暖かく、冷たいウィスキーはニーケとコルトーの酔いを早めました。


 ひと足早めに酔いに身を任せてうとうとし始めたニーケを横目に、コルトーは氷河の氷をひとくち口に含むと席を立ち、アトリエの中に消えて行きました。

 ニーケが目覚めたのは、おひさまが西に傾き始めた夕暮れ近くのこと、風もひんやりと肌に冷たくテーブルの上のパイもすっかり形を無くしていました。

 慌ててニーケはコルトーの姿を探してアトリエに入ると、思わずその場に立ちすくんでしまいました。そこには一心不乱にノミを振るっている彫刻家、コルトーの凄まじい姿があったのです。

 その姿はさながら石に魂を注ぎ込む職人、コルトーの芸術家としての誇り高い姿。誰をも近づけない威厳がニーケの足を踏みとどまらせてしまっているかのようでした。

しかし、その日のニーケはいつもの冷静なニーケではありませんでした。

 


アトリエの高い窓の上には細い二日の月が姿を現していました。

ニーケの黒い革のブーツの爪先は、削り飛ばされた石の塊の上をよろよろと選り分けながら、それでも真っ直ぐにコルトーの居る作業台の方に向けられて居ました。

「来ないでくれ!」

声をあげたのはコルトーでした。

ニーケは一瞬、足を止め、虚ろな眼差しで声のする方を見上げました。

そこには頭から石の白い粉を被ったコルトーの険しい顔がニーケを見下ろして居ました。

ニーケはその言葉に酔いの顔をニヤつかせながらこう言い返しました。

「へぇー、これがときめきの泉のオブジェか?」

「此処から離れてくれ!」

コルトーはニーケの質問には応えずにそう言うと、また、力強く石にノミを打ちつけました。

「コルトー、コルトー先生!

このオブジェの名はなんと言うのか教えていただきませんか?」

「……」

「否!こりゃ失敬…。今や、巨匠コルトーとでも呼ばなければお答えいただけないのかな?」

しつこいまでに絡みつくニーケの言葉はコルトーの神経を逆撫でました。

そして、作業台の下でヘラヘラと笑い顔で見上げているニーケを忌々しく見下ろすと
「酔っ払いに構ってなんかいられない!ニーケ、酔いを覚ましたら家へ帰れ!」と声を荒げました。

「何いってんだよ!コルトー!君だって酔っ払いじゃないか!榛の木の下で僕とさっきまで一緒に飲んでいたのは誰だったんだ?私の知らない巨匠さまだったのかい?」

 ニーケはよろよろと気づけばコルトーの作業台の真下まで歩み寄っていました。
ニーケはニーケで自分に向けられたコルトーのぞんざいな態度が我慢ならなかったのです。

酔っていたのは確かです。

全く、意味のないirony(皮肉)のような言葉をコルトーに投げつけている事もニーケには分かっていました。

ただ…

 ただ、大切な親友オオカミのコルトーは今や四大森の中でも誰もがその名を知らぬ者はいない彫刻家 ヴァディスバ.コルトーなのです。

創り出す側からコルトーの作品は高い賞賛とその名に匹敵する程の称号とを手にしているコルトー。

 ニーケはそんなコルトーに嫉妬している訳では無いのです。

いや、断じてそうではないのです。

 ニーケはコルトーが自慢の友人でありながらも、どこか自分の知らない遠い存在になっていくようで寂しくもあったのです。

だからと言って、酔いに任せて自分がコルトーに放つironyの矢はコルトーには我慢ならないものである事もわかっていました。

しかし、もう、これ以上言ってはいけない。

ニーケは僅かに自分を取り戻していました。

「コルトー、悪かった。今日はこれで帰るよ」そう言いって後ろを振り向いたその時でした。

 ぐらりと石の破片の上で足元をとられたニーケは、コルトーの乗った作業台に思わずしがみつくように手を突きました。すると、その勢いで作業台の上のコルトーの身体が斜めに傾き、その瞬間、石の造形物がコルトーの脇を滑るように大理石の床の上に倒れて行きました。

ズドーン

凄まじい音と共に石の破片がアトリエの中に飛び散りました。

 気がつけばニーケもコルトーも真っ白な粉塵を浴びてただ、呆然とそこに立ち尽くしていました。

石は跡形もなく粉々に床に散乱しています。

コルトーの右頬の辺りから僅かに赤い血が滴り落ちていました。

「コルトー…」

ニーケはコルトーの側まで駆け寄るとコルトーの顔も見れずにそこに跪きました。

「すまない…コルトー。とんでもない事を…私が…」ニーケが絞り出すようにそこまで言うと

「違う!」

コルトーが低い声でニーケの言葉を遮りました。

「ニーケ、君は…。いや、私が、私がもっともっと、注意していればよかったんだ」

ニーケは床にうっ伏したまま、そのコルトーの言葉をまるで誰かの救いの言葉のように頭上で聞いていました。

  窓から吹く5月の風がむせ返るばかりに若葉の匂いを運んでいました。


 あの日から…

 そう、あの日、コルトーのアトリエから逃げるように自宅に戻ったニーケは、幾日も、幾日も眠れぬ夜を過ごしました。

窓辺を伝う夏蔦が柔らかな若葉から青葉、そして、蔦紅葉に色を変える頃になっても黒猫のニーケはオオカミのコルトーに会いに行くことができませんでした。

悪いのは自分なのだ。

心に何度、そう言い聞かせてもニーケはコルトーのアトリエを訪ね、自分の非を詫びることが出来なかったのです。

 酒のせいでも、コルトーの自分に向けられた冷ややかな眼差しへの仕返しでもなかった。

自分の愚かな言動が起こした出来事だった。

うっかりだった…では済まされない、取り返しのつかない事を自分はしでかしてしまったのだ。

 コルトーの作品に注ぐあの凄まじい姿が、どれほど思い入れのあったものかは一目瞭然でした。

それを、作品ばかりか、コルトーが積み上げて来た作品への情熱までも木っ端微塵に打ち砕いてしまったのだ。

謝らなければ、心から謝らなければ…。

そう、自分に言い聞かせても、体は頑なに身動き出来ず、時間ばかりが悪戯に過ぎていきました。

 季節はいつしか冷たい風が吹き荒む、寒い冬へと移ろい、変わろうとしていました。

 その頃、カモライの森に妙な噂が立ち始めていました。

「コルトー先生の姿をこの夏頃から見かけないわね」

「先生はもう、このカモライの森には居ないって話だよ」

「アトリエはそのままで、もぬけの空だって」

「一体全体、何があったって言うのだ!」

「何もかもうっちゃって、何処か遠い所にいっちまうって、、何がコルトー先生をそうさせたんだ?」

森は日に日にコルトーの噂で持ちきりになり、中には、
「死んでしまったらしい」と思わずニーケが耳を塞ぎたくなる話しまで出てくる始末でした。

コルトーがこの森から居なくなった…。

何処か遠くへ?

あんなにこの森の自然を愛しみ、自分の制作の大きな原動力にしていたこの場所を離れた。

自分のせいだ…。

ニーケはそう思いました。

 その頃、連載していた新聞社からコルトーの失踪について、ニーケの見解をコラムに書いて欲しいと言う依頼が届きました。

「何と言っても、森が依頼した仕事を放り出してしまったのですから、無責任極まりない。コルトー先生の経歴から言っても信じがたい事ではあります。友人であったと言うことは抜きに、冷静な目で芸術家、コルトー氏のこれ迄の経緯と君が推察する範囲で、コルトーの心情を書いて欲しい。そうでなければこの騒ぎは収まらない」と。

 新聞社の強面の顔をしたマルヌネコ、オジャはそう言ってテーブルの向こう側でニーケにまくし立てるように言いました。

 協賛していた新聞社としては怒りの矛先を何処かに向けなければ腹の虫も収まらないと言うものです。

 ニーケは友人としてではなく、名コラムニストの名に恥じぬよう、冷静にコルトーの芸術家としての才能を賞賛し、何ものにも変えがたい存在感で森に多大なる功績を残していたことを熱く書き連ねました。そして、最後に、このような結果になったこと…それは、身近な友人として推察の域を超えないのであるが、と前置きをして、「ヴァディスバ.コルトー氏は近年、才能の限界を感じていた」と、そう、嘘を書いたのです。

 全ての原因がそうでないまでも、ニーケはあの出来事を闇の中に葬り、自分だけの秘密の蓋で閉じ込めたのでした。 

火の消えたストーブは薪灰の中で埋め火が僅かに温もりを残しているだけでした。

 ロバタは慌てて新しい薪をストーブの中に投げ入れると、しばらく無言でその火を眺めていました。

 窓の外は雪が降りしきり、壁の時計の針は既に夜明け前の時刻を指しています。

「温かな物でも飲みましょう」

 ロバタは、ぽつりとそう言って立ち上がるとキッチンのカップボードの中から新しいカップを取り出し、熱い湯とリンゴのシロップとシナモンをそのカップの中に丁寧に注ぎ淹れました。

「コルトー先生が私の誕生日の贈り物として作ってくれたカップです」

 ニーケの前に差し出されたそのカップは、栗の木を丸く削った、いかにもコルトーらしい温もりのある素敵な作りのカップでした。

 手に触れた瞬間からニーケはもう何も言えず、ただ愛おしそうにその丸みのあるカップの底を何度も何度もさすりました。

「コルトー先生はこの、ほうき森の岩宿にアトリエを構え、元気でお暮らしですよ」

ロバタは毛糸で編んだ膝掛けをニーケの膝にかけ直しながらそう言いました。

「元気でしたか…そうですか。良かった…本当に、良かった」

ニーケは何度も頷きながらそう言って、そっと涙を拭いました。

「ニーケさん、ひとつお聞きしても良いですか?」

ロバタはニーケに優しく問いかけました。

「コルトー先生がこのほうき森にいらっしゃる事をいったい、どなたにお聞きになったのでしょう?
そして、互いに無言の決別をしたのに、、何故今になってコルトー先生に会いたいとお思いになったのでしょうか?」

それは…

ニーケはエメラルドグリーンの美しい瞳を少しまた潤ませながら、遠い眼差しで、静かにこう、語り始めたのです。

 ニーケはカモライ新聞社の寄稿文を最後にコラムニストとして二度とペンを持つことはありませんでした。

 しばらくは、森のガイドや子供向けの物語を書いたりして生業を立てていましたが、深く思考する能力と、物事の本質を見極めることに長けていたニーケは、事の真理を問い続け、探究する学問の世界に生きる哲学者として名を成して行きました。

 そのニーケも駆け抜けるように生きた日々も過ぎ、この頃では学問の傍、山歩きや日課の散歩を楽しみのひとつとしていました。

 カモライの森にしては珍しく、酷い暑さの続く夏もようやく終わる頃でした。

 この夏の水不足で枯れて倒れたアカガシの大木がいつもの散歩道に横たわり、道を塞ぎ、通れません。ニーケは仕方なく別の道を選び歩いていると、久し振りにときめきの泉の辺りに辿り着きました。

 今から思うとそれは何かに導かれたような、そんな気さえニーケにはしたのです。

 ニーケは、泉のほとりの小径を暫く歩くと、大きな榛の木の下にあるベンチを見つけ静かに腰を下ろしました。すると、対岸の緑の芝の上に苔の生えた薄汚れた大きな石の台座が目に飛び込んで来たのです。

 その台座こそ、彫刻家、ヴァディスバ.コルトーの作品が飾られる予定の台座だったのです。

ニーケは、はっと息が詰まりそうでした。

 いたたまれなくベンチの椅子を立ち上がろうとしたその時でした。

夏の終わりの雲ひとつない大空から真っ白なオオワシが一羽、ゆっくりと舞い降りて来てその台座の上で翼を閉じたのです。

それは、とても美しい光景でした。

 まるで、ヴァディスバ.コルトーの魂の注がれた作品が今、そこにあるような錯覚さえニーケには思えたほどです。

震えるような感覚でニーケはそのオオワシを見つめていると、そのオオワシは鳶色のそれはそれは美しい瞳で真っ直ぐにニーケを射抜くように見つめ返しました。
「驚かせてしまいましたね、すみません。旅の者です。少し、ここで休ませてください」

ニーケは無言で頷きました。

「カモライの森はとても美しい森だと聞いてはいましたが、想像以上に素晴らしい森ですね」オオワシはニーケに静かな声でそう言いました。

「旅はどこからですか?」

「この森から遠い東の場所にあるほうき森と言う森からです。
私は、その森で旅行作家を生業に世界中を旅しています、グリークと言います」

オオワシはそう言ってニーケの座るベンチの側まで飛んで来ました。

ニーケはグリークの見事なまでの大きく真っ白な翼にみ惚れて言いました。

「あなたのように、そんな大きな翼が私にもあるのなら、私も自由に翼を広げてこの大空を飛んで行きたいものです。そして…」
「そして…?」
「そして…失った友と、帰らぬ歳月(とき)を探しに行きたい」ニーケはそう言うと眩しそうな目で夏の終わりの空を見上げました。

 グリークは泉のほとりの澄んだ水を飲み、毛繕いを済ませるともう一度ニーケの側まで来てこう言いました。

「先程、ニーケさんが仰った失った友人と言うのはもう、この世にいらっしゃらない友人なのですか?それとも…」

「あ、いや」ニーケは首を横に振りました。

「要らぬ事だと思いましたが、とても悲しみに濡れた言葉のようで、気になったものですから」

「失った友人が生きているのかそうでないのか、そして、どこに居るのかさえ知れない…のです。その起因を作ってしまった私はこうして老いぼれてこの森に生きているのに…ね」ふっと、ニーケは苦笑いをしました。

 そして急に何か思い立ったような顔をして、ニーケは長い間、誰にも話せなかったコルトーとのあの忌まわしい出来事を今、誰かに話したい、いや、聞いて貰いたと思いました。

 それは誰にでもと言う訳けにはいかなかった。

 重く黒々とした胸の内の塊を吐き出すにはもう、老いて来た自分の力だけでは無理だ。むしろこうして救いの言葉を投げかけてくれるような誰かに、自分の過ちを懺悔したい。

ニーケは不意にそんな気持ちになっていました。

 オオワシのグリークが石の台座に舞い降りて来た時、ニーケは正に救いの神が天から舞い降りて来た…大袈裟でなく何処かそう感じていたのかも知れません。
 午後の泉の辺りは森閑として、藪の中で鳴くひぐらしのほかに、声ひとつありません。

ニーケは半ば無意識に苔むす石の台座を背に草の上に静かにひざまづきました。

 今にもこの水辺の辺りから、飛び立って行きそうなグリークをひきとめるにはぐずぐずと躊躇っている時間などありません。

「グリークさん、聞いて欲しいのです」ニーケはひざまづいたまま、こうべを垂れ、そう、唐突にグリークに言いました。

「私の愚かで、そして鎖にも繋がれたような何処にも動けない思いの全てを…聞いて欲しいのです」

 ニーケはグリークの足元にひざまづいたまま、ふと、目を上げるとグリークの鳶色の瞳は真っ直ぐにニーケの眼を射抜くように見つめ返していました。

それは、ニーケの嘘や誤魔化しを直ぐに見抜いてしまいそうなほど鋭い眼光と澄んだ水鏡のような美しさを湛えていました。

「お話ください…私のような者がお役に立てるようなことは何ひとつないかも知れません…ただ…鎖に繋がれた苦しい思いを自由に解き放つ術を私も一緒に考えてあげられるかも知れません」グリークはそう言ってニーケの目の前で大きな翼を窄めました。
 ニーケは遠い昔の自分の愚行を正直にかつ、深い懺悔の気持ちを込めて訥々とグリークに話し始めました。時にニーケは、自分の弱さにたじろぎ、パラパラと早急に過去のページを捲りたい時もありましたがグリークの瞬きはそれを何度もひき止めました。

「私は大切な友人を失いました。もう二度と会うことは無いでしょう。この齢になって…身悶えする程悔いるのは、自分の過ちを過ちとして、友人に謝れなかったことです。ただ、ただ、それだけが今も尚、この身を責め立てるのです」ニーケは露を孕み始めた草の上にゆっくりと立ち上がると水辺の向こう岸に目をやりました。

 泉の辺りには、百日紅の木が緑色の葉群の間から桃色の美しい花を覗かせ、まるでアンリ.ルソーの絵のように色濃く影を作り二、三本、並んで立っていました。

その木立の向こうから白銀の身体を揺らしながら親友バンディスバ.コルトーが今にもここに現れて来そうな、、ニーケはそんな幻想さえ夢見ていたのです。

「ニーケさん、良く話してくれましたね。もう、あなたは許されてもいいのですよ。いえ、許されなければいけない。こんなにも長い月日、苦しみ、そして、その苦しみを無駄な時間だけに費やすこともせず、あなたはこの森の為に立派な仕事をやり遂げて来たのですから」グリークはそう言って暮れかかる空を見上げました。
「私がこの森に来たのは何かに導かれたのですね。それは、ニーケさん、あなたのコルトー氏への切実な思いがそうさせたのかも知れない」ニーケも小さく頷き空を見上げました。
そしてグリークは、ニーケの目を優しく見つめ返すと思いもかけぬ言葉をニーケに放ったのです。

「あなたの大切な友人、彫刻家、ヴァディスバ.コルトー氏は生きていますよ」

「どこに…!」

仄暗い水辺の上にはどこからともなく蛍が飛び交い、空にはいつの間にか細い二日の月もかかっていました。 


コルトーは生きている… 本当に…?

  ニーケは自分の耳を疑いました。

 たとえ、それが偽りの慰めの言葉であってもいい。

「もう一度、もう一度だけいい…私の耳の奥底にこびり付くように(コルトーは生きている!) そう、言って欲しい」

絞り出すような声でニーケはグリークにそう、哀願しました。

「ヴァディス.バコルトー氏は生きています。嘘ではありません」

「本当に⁉︎本当に…コルトーが生きていると確信を持ってそう、言えるのですね?グリークさんはコルトーに会ったことがあるのですね!」ニーケの声は叫びにも似て夜の水辺に響き渡りました。

「はい。ヴァディスバ.コルトー氏は今も元気で私の故郷、ほうき森で彫刻家として立派に生きています」グリークはキッパリとそう言い切りました。

そして、降るほどの星空を見上げてグリークはこう、言いました。

「何という偶然だ!そう、叫びたくなるほど魂が打ち震えていたのは私の方でした。
まさか、私の住むほうき森に居るコルトー先生が、あなたの探しているヴァデスバ.コルトー氏であったとは…。話しをお聞きしながらその疑念は確信へと、そしてこんな偶然を何ものかが用意して下さったのだと…深い感謝と喜びに今、魂が震えているのです。まるで、この夜空の星々のように何億光年の光の彼方からこの地上に届けられた煌めきのように、、キラキラと私の魂を震わすのです」

「あぁ、グリークさん、私は何と言って良いのか言葉が見つかりません」ニーケは草の上に座り込み両手を組み夜空を見上げました。

  コルトーが生きていてくれた!

そして、今も彫刻家として立派に仕事をしている…

ニーケにとってこんな喜ばしいことはありません。

 二度と会うことも無いと思っていました。

その生存さえ分からないと諦めてもいた、大切な友人コルトー。

会いたい…。
    一刻も早く。

会って、心からあの出来事を詫び、許しを乞いたい。

 しかし、そのほうき森がこのカモライの森からどれほど遠い場所にあるのか、ニーケにはおおよそ想像もつきませんでした。

「ニーケさん、もし、コルトー先生にお会いになりたいとお思いになるのでしたら一刻も早い方がいい」

「はい、私もそうしたいと思っています。しかし、、私はご覧の通りすっかり歳をとってしまった。ほうき森が何処にあるのかさえ知らない。否、例えそれが分かったとて、どれほどの時間をかけてそこへ辿り着くのか検討もつかないし、私のこの足では、、」
ニーケは大きなため息をひとつ吐きました。  

「そうですね。このカモライの森から東に位置するほうき森へは、私の翼でも幾日も飛び続けなければ辿り着きません。その上、これから秋から冬へと季節は移ろい、深い雪に覆われてしまえば何ヶ月も森に足を踏み入れることは出来なくなります」
グリークの言葉はニーケに早急な決心と覚悟を促しながらも半ば諦めにも似た憂いを秘めていました。

ニーケはその夜、旅を急ぐグリークと別れ、重い足取りで自宅のある風の谷の林の家に帰りつきました。

どうしたらいいのだろう。

こんなに奇跡のような出会いと嬉しい報せを無駄にしてはならない…そのことだけは分かっている。

しかし、身も心もすっかり老ぼれてしまったこの私に、いったい何ができると言うのだろう。

ニーケは、幾日も幾日も考えあぐねました。しかし、一向に良い答えは浮かびません。時は悪戯に過ぎ、気持ちは焦るばかりです。

寄るべない気持ちと諦めと…。ただ、グリークが別れ際に残した言葉だけがニーケには妙に心にかかり僅かな希望の灯となってニーケの心を暖め続けました。


季節は足早に過ぎ、カモライの森の樹々も冷たい北風にその葉を色鮮やかに染めあげていきました。

 ニーケは窓を閉じ、お気に入りの青いマントをおひさまに干したりビスケット缶の中に焼き立てのビスケットを詰め込んだり、近頃、何かとソワソワと落ち着きません。

 その日の朝、北風が庭のポプラの大木をザワザワとざわつかせ、金色の木の葉はビロードのような苔土の上に静かに舞い落ち始めました。

ニーケはドアの隙間から部屋に流れ込んでくる深い秋の香りを鼻先に感じながら樫の木の丸椅子に腰掛け、その金色の煌めきを眺めていました。

 《金色の小さき鳥たちが地上に舞い降りる頃…その願いは叶えられる》

それが、別れ際、グリークがニーケに残した言葉でした。

その謎めいた言葉の意味をニーケは既に読み解いていました。

金色の小さき鳥たち…それは金色に色づいたポプラの葉のこと…

その葉が地に落ちる頃、再びこのカモライの森にグリークは舞い降りて来る。

 その時、自分に強い気持ちと勇気があれば、囚われた重い鎖を自らが断ち切り自由に何処かへ飛べるはずだと…。

そして、その日がきっと来ることをニーケは強く願っていました。

ニーケの願いは届きました…

 午後になり、風も止み、庭のポプラの木の枝に真っ白いオオワシのグリークが姿を現した時、ニーケは青いマントを掴み取るとポプラの木の下まで駆け出していました。 

「グリーク!あなたがこのカモライの森に再びやって来てくれると強く、強く信じて待っていました!」

 ニーケは秋の空に枝をひろげたポプラの大樹を見上げて大声でそう叫びました。
 このふた月余り、ニーケは眠れない夜を幾つも乗り越え、叶えそうも無い願いを何度も手放そうともしました。けれど、ニーケはどうしてもコルトーに会いたいと言う思いを諦め切れなかった。会って過ちを侘びたい…いや、そんなことより、ただただ、、大切な友人コルトーに会いたかった。
その、思いは微塵も揺るがない。ニーケは辛抱強く自分の内なる声と向き合い決心を強固なものにしていたのでした。

「グリークさん、私はどんなことがあってもほうき森に行きたい。いや、行かなければならない。どうか、どうか、この愚かな私に力を貸して下さい」ニーケの悲痛な叫びにも似た声は秋の高い空に吸い込まれていきました。

「ニーケさん、分かりました。私はニーケさんのその、強い意志を確かめるために今日、ここに立ち戻って来ました。ニーケさんにそこまでの思いがあればどんな困難も乗り越えられるでしょう。ならば私に出来ることはただ一つ、精一杯力をお貸しするだけです」

 グリークはそう言うと、金色に燃えるようなポプラの葉の隙間から白い翼を広げてニーケの目の前に舞い降りて来ました。

「急ぎましょう、冬はそこまで来ています。千尋の谷を渡り、直に「薔薇の棘の山」を越える頃には雪も降り出すはずです。その時、氷柱のような凍った風が矢のように私たちを襲うでしょう。真っ逆さまに谷底に落ちる覚悟もしておいて下さい。」
グリークの氷のように冷たく、真っ直ぐな眼差しは、ニーケの両足をワナワナと微かに震わせました。

「さぁ、私の背にお乗りなさい。そして、決してその手を離してはなりません。どんな試練が待ち受けていたとしても…」

ニーケは大きく頷くと北風に青いマントを翻して雪のように白いグリークの背に飛び乗りました。

 ーあらすじー

カモライの森で暮らす哲学者、ねこのニーケは遠い昔、自分のふとした過ちから大切な親友、彫刻家のコルトーとの友情を壊してしまいました。ある日、アトリエから忽然と姿を消したオオカミのコルトー。今になれば生きているのかさえわからぬまま。ニーケの苦しみは月日と共に風化するどころか自分を責めたてていました。そこへ、旅の途中に立ち寄った旅行作家のオオワシのグリーク。そのグリークが思いもかけぬ告白をしてニーケを驚かせます。「コルトーは生きている」私の故郷のほうき森で。しかし、その森に辿り着くまで、、ニーケの試練の旅が始まりました。

 

 やがて、グリークの白い翼はカモライの森と氷河の谷を繋ぐガルチ湖の上空で東へと大きくエッジを切り旋回し始めました。

    眼下にひろがるのは4代森の中でも最も大きな湖、ガルチ湖。

 その遥か向こうに聳え立つ、薔薇の棘の山から流れ出る清流を豊かに湛えていました。湖は夕暮れの薔薇色の雲を湖面に写しだし、左手に眩しく遠のくカモライの森はまるでもう、遠い世界の国のようにニーケには思われました。
 次々と目の前に広がって行く景色はニーケにたったの今まで一度だって見たことのない色彩と造形を見せつけ、ニーケの心を色鮮やかに塗り替えていくようです。

  あぁ…なんて、自然はこうも壮大で美しいのだろう…。

 ニーケはこの旅の重さを一時でも忘れさせてくれる目の前の美しい景色に思わず声を上げました。

 天空からみた、故郷のカモライの森はありとあらゆる色のつぎきれを縫い合わせたような錦繍の光りに輝き、あの美しい森で自分は生まれ、沢山の仲間たちと出会いと別れを繰り返して生きて来たのだ。

 先人の教えに学び、大概のことは知らぬものは無いような顔をして生きてきたけれど、こうして俯瞰した世界から自分を見れば自分はいかに小さく、窮屈な世界の中で無知や誤解、何よりもエゴイズムの秘められた感情に塗れ、大切なものを見失ってきたのだろう。そして、その失ったものと引き換えるほどの人生のすばらしい果実を摘み取ることができていたのだろうか? 

 ニーケはグリークの広い背の上で自分がこの大自然の中でいかに無力で小さな生き物であるのか思い知らされているようでした。

 やがて、夕暮れの空にラベンダー色の帷がゆっくりと降り始めるとグリークが東南の方角を指差してニーケに言いました。

「ニーケさん、ご覧なさい。冬の星座、オリオン座が斜めに傾いて見えるでしょう」
「あぁ、こんなに近くに!」ニーケは思わず手を差し出して星を掴む素振りをみせました。

「オリオン座の四角形の左上で輝いている星が「ベテルギウス」冬の大三角の頂点のひとつ星です。
「ベテルギウス」は赤く輝いて見えますよ。
その、三角形の下にある星、これが、おおいぬ座の「シリウス」
ベテルギウスの下のほうにきれいに3個の星が等間隔に並んでいるのが見えますね。 3個の星を左下にのばして行くと南東の空低くに、ひと際明るく輝く星があります。それが「シリウス」です。 「シリウス」は-1.5等と地球から見える恒星では太陽を除くと一等明るい星です。 「シリウス」は白く輝いて見えます」

「確かに白くキラキラと輝いていますね。それになんて大きいのだろう」
降り注ぐ幾千の星々は地上から見上げる以上に大きくキラキラと瞬き、まるで自分もその星々を繋ぐひと欠片の星のようにニーケには思えるのでした。

 「ベテルギウス」と「シリウス」を線で結び正三角形を作るようにすると、そこに、こいぬ座の「プロキオン」が見えるはずです。「プロキオン」は「ベテルギウス」と同じくらいの明るさですが、「ベテルギウス」は赤く見えるのに対し、「プロキオン」は白色に輝いています。これら、3つの星を『冬の大三角』と呼んでいます。どうです?見つけられましたか?」

ニーケはグリークの言葉に目を凝らして何度も大きく頷きました。

「グリークさんは色んなことご存知なのですね」

「いいえ、まだまだ知らないことだらけですよ。私は世界中を飛び回っているのが仕事なのでね、自然にそんなことをいつの間に覚えただけですよ」グリークはあくまで謙虚で控えめにそう言って微笑みました。

 しかし、ニーケはこの後もグリークの博識と機知に富んだ言動にしばしば驚かされ、また、自然に対峙するグリークの畏怖の念を強く感じるのでした。

 ニーケはグリークの暖かな背の上でひとつ、ふたつと流れ星を数えながら深い眠りに落ちて行きました。  

  さ、寒い…あぁ…凍えるほどの寒さだ。

 ニーケは肌を刺すほどの冷たい風に我慢出来ずに目覚めると、足元にある青いマントを身体に引き寄せました。

 カモライの森で一番腕の良い仕立て屋「Nノエン」の職人、ハリネズミのドレドに仕立ててもらったその青いマントは上質なカシミアを贅沢に使い、毛足の長いボアが首の周りに施されていました。その立派なマントにしてもニーケの震えは一向に押さえきれず、ニーケはグリークの暖かい首根っこに思わずしがみつきました。

「ニーケさん、お目覚めですか?寒いのでしょう?我慢ですよ、これから」

「グリークさん、私は、ほうき森までの長い旅を無事に乗り越えて行けるでしょうか?」ニーケはブルブルと唇を震わせながらグリークに弱気な言葉を吐きました。

「おやおや…もう、泣き言ですか?」グリークは真っ直ぐ前を見たままそう答えました。

「あ、いえ、はい…。正直に白状すれば不安で胸が張り裂けそうです。今、自分が何処に居るのかも分からない。身体は凍りつきそうなほど寒いし、心許ないのです」

 確かにニーケが不安になるのも仕方ありません。

辺りは始まりも終わりもないような灰色の靄に覆われ、恐ろしいほどの静寂の中にニーケは居ました。

 頼りになるのはグリークだけ。

 そのグリークも一睡もせず、指標もないこの靄の中をどうやって飛び続けていけるのかニーケには全くもって不思議で仕方ありません。その上、ニーケはグリークの身体が最初の頃よりひとまわりもふたまわりも大きな身体になっているのに気づいていました。全身の羽毛はびっしりと分厚く毛足も長くなり、まるでニーケの知らないグリークのようでした。いや、元より、ニーケはグリークのことを何も知らないのです。

それはグリークだって…同じこと。

 この冷たく薄暗い靄の中をただただ、自分の為にひたすらに翼を広げ飛んでいるグリーク。
 その優しさに甘えてここまで来たけれど…老いぼれた自分はグリークの足手まといになりゃしないか…この先、どんな試練が待ち受けているのか…覚悟はして居たつもりでもニーケは不安で仕方ありません。ニーケのそんな要らぬ思いをよそにグリークは微塵も揺るぎない野太い声で静かに言いました。

「ニーケさん、もう直、薔薇の棘の山の麓辺りに辿り着きます」

「あぁ、あの大きな湖から遥か遠くに眺めた山ですね。もう、そんな遠くまで私たちは飛んできたのですね」ニーケはそう言うと通り過ぎて来た色の無い虚無のような世界を振り返りました。
 そして、頭をぐりぐりと左右に振ると直ぐに前を向き、青いマントの懐から持って来た苔色のビスケット缶を取り出しました。

「グリークさん、こんな物じゃ腹の足しにもなりゃしませんがおひとつ如何ですか?」ニーケは悴む指でアプリコットジャムを挟んだビスケットを二、三枚、摘みあげるとグリークの嘴の先に近づけました。

「あぁ、これはありがたい。アプリコットのビスケットは大好物ですよ」グリークはそう言ってニーケの手の上のビスケットを嘴で上手に割り分けてぺろりと平らげました。

 その仕草が見事で卒がなくニーケは思わず「ほぅ」とため息をつきました。そして、グリークの顔をチラッと覗き込むとグリークの目の周りを覆うまつ毛が真っ白に凍りついています。
 靄の隙間を突いて僅かに覗く夜明けの星あかりにその睫毛はキラキラと輝き、グリークがゆっくりと瞬きする度に零れ落ちる霜の欠片をニーケはうっとりと眺めました。それはまるでグリークの鳶色の瞳の中から小さなダイヤモンドが幾つも生まれ出る瞬間のようにニーケには見えたのです。

 睫毛も凍るほどの場所を今、自分たちは飛んでいるのだ…ニーケは改めてこの旅がどんなに過酷な旅であるかを思い知らされながらも自然の作り出す造形美にひと時、目を細めました。

 やがて、重く冷気を含んだ靄が少しずつ晴れ、ニーケの鼻先を甘い花の香りがくすぐり始めました。

「なんて良い香りなんだ」ニーケは辺りを見渡しました。

「ニーケさん、薔薇の棘の山の麓に辿り着きましたよ。ご覧なさい。秋の薔薇が咲き残っています」グリークはそう言うと一気に高度を落とし下降し始めました。眼下に見えるのはニーケがこれまで一度も見たことのないような薔薇の丘が果てなく広がっています。朝露を孕んだ薔薇の花々は芳しい香を放ちながら幾重にも花びらを重ね咲いて居ました。

「まるで、ここは薔薇の花園のよう。さっきまでの寒さや靄は誰かが綿飴をくるくると絡めとるように持って行ってしまったみたいだ!」ニーケはグリークの背の上から身を乗り出しその花園を見下ろしました。

 朝日がゆっくりと山際から姿を現し、その朝日は花園をみるみる薔薇色に染め、光の輪の中に包み込んでいきました

「凄い、凄い!なんて美しい花園なんだ!まるで、天国のようだ」

ニーケの歓喜の声は山々の深い谷間の奥まで遠くこだましていきました。 


イバラヤブノタニ…?

 鼻先に黄色な薔薇の花粉をつけたままニーケはそう言ってグリークの声のする方へ振り向きました。

「何処かで聞いたような気もしますねぇ…さて?」

 ニーケはグリークの問いかけにさほど関心もない素振りで、もう一度、赤い薔薇の花弁に鼻先を近づけながら満足そうに目を閉じました。

「ニーケさんがご存じないのも無理はない。この私だってその谷の上を未だ一度だって飛んだことはないのですから」

「飛んだことがないですって?」

 ニーケは今度はグリークの言葉に強く反応しました。

「一度も飛んだこともない場所を飛んで大丈夫なのですか?昨晩も私は正直、不安で不安で仕方なかった。頼りに出来るのはグリークさん、私にはあなたしかいないのですよ」
ニーケは縋るような目をしてグリークににじり寄りながらそう言いました。

「出来れば私もそんな無謀な冒険はしたくはない。ただ…」

グリークはそこまで言うと、岩肌が剝きだしになった険しい薔薇の棘の山の頂きを見上げました。

「ただ…なんです?他にそこ以外に選択肢がないってことですか?」ニーケはグリークを急かすようにそう、尋ねました。

「えぇ、ニーケさんの仰る通りです」

「……」
 
「正直、この薔薇の棘の山をニーケさんを背中に乗せて越えて行くには危険が大き過ぎます。時間もかかる。どうしても雪の降る前にこの場所を一時も早く離れなければなりません。しかし、かと言って…」グリークはそこまで言うと小さなため息をひとつ吐きました。

 そして、その尾根筋の脇を深く、えぐり取ったような黒々とした谷間に目をやり、ポツリと呟くように言いました。

 イバラヤブノタニ…

 一時の休息に降り立った薔薇の丘の上からその谷間は漆黒の細長い口を開け、錦繍の山々をザクリと切り裂くように東の森の方角へと伸びていました。

「かと言って…そのイバラヤブノタニを選ぶにも危険があると言うのですね?」

 ニーケは鼻先の花粉を冷たい風にさらわれながらも微動だにせず、ただ遠く闇を広げる灰色の靄の下の谷間を睨みつけるように見つめ返しました。

「飛んでみなければ分からない…。そして、かつて沢山の私の仲間たちが謎のように消息を絶ったと言われているイバラヤブノタニ…。どうあっても私がそこを飛び越えて行かなければならない。そして…否…!」グリークは何か含みのある言葉を自分で遮るように頭を振るとキッと顔をあげました。

 その時ニーケはグリークの鳶色の瞳に何か強い信念のような炎が揺らぐのを見逃しませんでした。

「さぁ、グズグズしてはいられません。ニーケさん、急ぎましょう」

 グリークはそう言って大きな翼を広げると、雲ひとつない朝の空に力強いひと声をあげました。

 ニーケも、荒ぶる気持ちを抑えるように首元のマントの紐をきつく締め直すとグリークの背に勢い飛び乗りました。

「どんな危険が待ち受けていたとしても覚悟はとうに出来ています。例え私が谷底に真っ逆さまに落ちても、それは私の運命。ここまで来れただけでも本望です」

「ニーケさん、その覚悟、肝に銘じていてください。えぇ、、どんな事があっても無事にほうき森までニーケさんをこの私がお連れ致しますとも。どんな事があっても…」グリークはまるで自分を鼓舞するように風の中にそう叫ぶと力強く地面を蹴り上げました。

青く蛇行する渓流の流れを眼下に追いながらグリークは旅を急ぎました。

 細く切り立った岩壁は両側に広まったり窄まったりを繰り返しながら尖った先端を秋の空に高く突き出していました。

 頬に刺す風は相変わらず凍るように冷たく、グリークやニーケの吐息までも白く凍らせましたが我慢できない程ではありません。

 時折、遠雷がゴロゴロと鳴動を発して、それが何やら恐ろしい何かの呻き声のように薄暗い谷間にこだましているのが不気味なだけでした。

「グリークさん」ニーケはグリークの背中から声をかけました。

「何です?ニーケさん」

「思っていたより、風もそう強くはなく、雪の降る気配もまだないようですね」

「えぇ、しかし、私はさっきから妙に気になっている事があるのですよ」

 グリークは声をひそめてそう言うとやや右よりの岩壁に沿う様に翼を傾けました。

「ご覧なさいまし、岩壁の斜面という斜面、そして、その割れ目の隙間を覆うシダや苔の分厚さと茂り方。岩壁の間を縫う様に孤立して立つ一本一本の木々の樹冠が投げかける独特な影…。陽の光がこうも頼りなげで、谷間の底に十分に届いていないにも関わらず、ここの樹木や植物は異常な程に生命力を保っている。否、、それはそれでそのような陰生植物はある程度の弱い光量でも生きられる。
自然にそった光合成ができますから頷けることではありますが…。しかし、ニーケさん、お気づきじゃありませんか?」

「えっ、何がです?」ニーケは目玉をくりくりと動かしながらグリークの分厚い羽毛の背中から顔を覗かせました。

「それほどの生命力を培う場所なのに、この谷間に入ってから鳥の声ひとつ聴こえない…。そればかりか何かこう、暗闇の中に引き摺り込まれて行くような胸騒ぎがするのです。そして、この谷間の何処かに深く息を潜める何かの気配の様なものを私はさっきから感じているのですよ」

「確かに、何かが息づくような気配のようなものを私も感じていました。何でしょう…?誰かに見られているような…グリークさん!」

「はい…?」

「例えば、このイバラヤブノタニの主みたいなものが居て、そいつが私等の命を狙っていて、手ぐすね引いて何処かに潜んでいる?」ニーケはそう言った後にククッと笑い声を立てました。

「でも、グリークさん、そんな事、よくある陳腐な冒険ファンタジー小説じゃあるまいし、私たちは戦える武器もありませんしね。そんなものが襲って来たらいっぺんに此処でお陀仏です」

「ニーケさん、何言っているのですか!大体、鳥の背中に乗って旅をするってことだけでも、もぅ、冒険ファンタジーの要素満載ですよ」グリークもそう言ってお茶目な顔をして笑声を上げました。

 しかし、グリークもニーケも自分の言葉に笑い声を上げてはいるものの、頬が硬く引きつっているのは寒さばかりでない事に気づいていました。

その時でした。

「うわっ、うわっ、うわぁぁぁ!痛い!痛い!痛ーーーぃ」

グリークの大きな叫び声が谷間にこだましたかと思うと、同時にバサバサバサッーー‼️と翼が何かに絡まる音が聞こえました。

あまりに突然の出来事でグリークもニーケも何がなんだかわかりません。

「ニ、ニーケさん!!顔を出してはなりません!私の、、背の奥深く隠れて!決して、決して、、、手を離しては、なりま、、せん」

 グリークの声が途切れ途切れにニーケに聞こえてはいましたがニーケももぅ、グリークの背羽を握りしめるのに必死でした。

 グリークは大きな叫び声と羽音を立てながら物凄い勢いで暗い闇の底へと引き摺り落とされていきました。

この世界に光と言うものがなかったら…

この漆黒の闇の中で、私はこの爪先を何処へ向けて歩き出して良いのか分からない。

 誰かに手を差し伸べてあげることも、その手を握り返すことも、温もりを感じ合えることさえ叶わない。

 グリークが自分を守り暖めてくれた柔らかな一片の美しい羽根を右手に握り締めたまま、ニーケは湿った苔の匂いをひとり嗅いでいました。

 恐ろしいまでの静寂の闇の中、ニーケはグリークの名を叫びながらそこらじゅう走り回りたい気持ちでしたが僅かに右足の傷みがそれを邪魔して、うずくまったままそこにいました。

 今、自分に起きていることがニーケにはさっぱり分かりません。

それを知ろうにも色ひとつないこの闇のなかにいるのです。

 ニーケは静かに瞳を閉じました。

 瞼の裏側に蘇って来るのはここ数日、グリークの背の上から見た色彩に塗れた大自然の美しさと壮大な景色。

 キラキラと眩しいまでの陽の光の中でこんなにも希望に溢れた日々はなかった。

 一度も見たことのない世界を見ながらニーケは自分が新しい何者かに生まれ変わって行くような気さえしていたのです。

 自信家で融通の効かない偏屈者、、それはそれで自分の個性には変わりないけれど、もっと、もっと、自分は変わらなければならない。その勇気と希望をくれたのがこの大自然の雄大さと導きをくれたグリークでした。

 自然から与えられた恩恵を享受 し、当たり前にあることを感謝して、誰も一人で生きては行けぬ事、苦しみを乗り越えて行く強い思い。しかし、それはグリークと共に乗り越えていけると信じていたからです。今、この闇の中にひとり取り残された自分は無力で何も出来ず何をどうしていいのかさえわからない。

 ニーケは「どんな事があろうと、、、」とグリークに誓った言葉が今ほど虚しく思えることはありませんでした。

  自分はなんて弱虫なんだろう…。

 ニーケは強く唇を噛むと右手に握り締めていたグリークの背の羽根を暗闇に力いっぱい投げつけました。

「グリーーク!」

「グリーーーークッ!」

ニーケの声は闇の中に悲しく響き渡っていきました。

するとその声を探していたかのように

「ニーケさん、何処にいるのですかぁー!」

グリークの野太く力強い声がニーケの頭上で聞こえて来たのです。

「グリークさん、ここです!私はここに居ます!」

ニーケは在らん限りの声を振り絞ってグリークの声のする方に向かって叫びました。

その時です。

 先程ニーケが暗闇に投げつけたひとひらの背の羽根が、一瞬🪶大きな光の輪を描きました。

 そこには薔薇の太いイバラに絡まり身動き出来ず吊るされたままのグリークの姿がニーケの頭上高く映し出されていたのです。

あらすじ

🪶🪶カモライの森に暮らす哲学者、黒猫のニーケはかつて、自分の愚かな過ちで大切な親友、彫刻家、オオカミのコルトーとその親交が絶たれ、その生存さえわかってはいませんでした。
月日は無情に流れ、ニーケもコルトーも老い、もう2度と会うことは無いだろうと…
しかし、神の悪戯か思し召しか、、、偶然に出会った、ほうき森に住む旅行作家のオオワシのグリークがコルトーは自分の故郷のほうき森に生きて居ると…
会いたい、、どうしても。ニーケはグリークに旅の同行を頼みます。
険しい山々、谷間をくぐり抜けグリークとニーケの旅が始まりました。しかし、その旅は想像以上に厳しく命までも危うい旅になって行ったのです。🐈‍⬛🐈‍⬛

  絶望と運命

 その、二つの言葉が追いかけっこしながら、ニーケの頭の中をぐるぐると渦巻いていました。

「例え、私が、谷底に真っ逆さまに落ちたとしても…それは私の運命」

 ニーケは薔薇の麓の丘でグリークにそう誓った言葉を思い出していました。

 そして、それは謀らずも現実のものとなり、訳もわからず、こうしてニーケは真っ暗闇の谷底へと引き摺り落とされたのです。

 闇の中に吊るされたグリークと、その闇の底に落ちた自分とが、どうもがいてみたって、それは助かる術が見つかりません。

 互いが救われるには、何の手立てもなく、ただ、誰にも気づかれず、今は静かに死を待つだけ。

 こうなってしまえばそれはもう、抗うことの出来ない運命と言うもの…。

 
 どんな事があっても、無事にほうき森までニーケさんをお連れ致しますとも。どんな事があっても…

 グリークは力強くそう言ってニーケを勇気づけて来れました。

しかし、それはもう、、、

ニーケは小さく頭を振りました。

「グリーーークッ!」

 ニーケはもう一度、グリークの名を暗闇の中に叫びました。

しかし、もぅ、グリークの声は何処からも聞こえては来ませんでした。

 「あぁ…グリーク…。私も君もこの漆黒の暗闇の中で、互いの顔さえ見ることが出来ずに別れをせねばならぬのか。

 せめて、この短い旅に見た数えきれない出来事や感動を与えてくれた君へ、グリーク…感謝の気持ちをひと言だけでも伝えたかった」ニーケは顔を上げ静かに目を瞑りました。

 物音ひとつしない漆黒の闇の世界の中で二度と光輝く地上に上がれない絶望にニーケは打ちひしがれていました。

 しかし、それよりも、イバラの蔓にぐるぐる巻に吊るされたグリークの方がもっと、その絶望感を味わっているはずでした。

 ニーケはグリークの事が気がかりで、気がかりで仕方ありません。

 けれど、老いて、無力な自分には何ひとつ出来ないのです。

ニーケはヘナヘナと力尽きるようにその場に座り込みました。

その時、ふと、自分の目線の先にキラキラと光る何かにニーケは気付きました。

 よく、目を凝らすと、それは金緑色に光る光苔でした。

微かなエメラルド色に怪しく光るその苔をニーケは瞬きもせず眺めました。

 暗闇の中で死にゆく自分が、この世で最期にみる光、、それはせめてもの神さまの贈り物かもしれない。

ニーケは暫くその光苔の辺りを恐る恐る眺め歩き回りました。

 そうしている間にいつのまにか疲れ果てて、岩陰のような場所でうとうと眠りこけてしまったのです。

どれほどの時が経ったでしょう。

 

キラキラと眩いまでの木漏れ日が、青く透き通る葉の隙間から、ニーケの身体の上に溢れ落ちているようでした。

「夢を見てるんだ」

ニーケはぽつりとそう呟きました。

 金緑色の光苔を眺めていたから、残光が瞼に貼り付いて、木漏れ日のように感じているのかも知れない。

 ニーケはおあむけになったまま両手を額の上に翳して薄目を開けました。

「あっ!」

ニーケは小さく声をあげました。

 そこには美しいヘーゼル色した四つの瞳が寝転んだニーケを優しくじっと見つめていたのでした。  


お目覚めになりましたか?

 大きな嘴をゆっくり動かして、一羽の鳥が、ニーケの顔を覗き込んでそう言いました。

 ニーケは声も出せずにコクリと頷いて目線を移しながらもう一羽の鳥にもコクリと頷きました。

 ヘーゼル色の4つの瞳の持ち主、、、それは青みがかった灰色の羽根を持つ、2羽の大きなハシビロコウでした。


 後頭に短い冠羽があるそのハシビロコウは、学名をラテン語でBalaeniceps rex

「クジラ頭の王様」とよばれ巨大な嘴を持ち、 淡黄色に不規則な灰色の模様がありました。

 足が長く悠然とした動作は「動かない鳥」として、その生態は不思議な魅力を持つ鳥でもあります。

 しかし、熱帯の淡水の沼に生息するといわれるハシビロコウが、一体全体どうしてこんなところに?

ニーケはゆっくり起き上がりながら辺りをキョロキョロと見回しました。

 そこは、緑一面の緩やかな丘が続き、その丘の途中に石造りの古いお城のようなものが見えました。

2羽のハシビロコウは、ゆらゆらと緑葉の揺れる大きな大木の下でニーケが目覚めるのをじっと、何時間も待っていたようでした。

この2羽のハシビロコウはつがいの鳥たちでした。

 オスの名前がマクロニス、メスの方がルシア(起源:光を運ぶ娘)と言いました。

 2羽は、大木の直ぐ側を流れる小川で水浴びをしたり水面を泳ぐ魚を捕まえたりして、この辺りで日がな一日を過ごしているようでした。

しかし、そんなことは今のニーケにはどうでもよくて、一体全体自分はどうやってあの暗闇の中から救われたのか?

 そして、2羽のハシビロコウは何故ニーケが目覚めるのを待っていたのか?何より、グリークはどこへ行ってしまったのか?頭の中がぐちゃぐちゃでニーケは今にも泣き出したい気分で、思わず空を見上げました。

そこには真っ青に澄む初冬の空が雲ひとつなく広がっていました。

あの漆黒の闇の中で見上げた絶望と言う虚無の空はもう、どこにもありませんでした。

「グリーク、、、君は一体、何処へ行ってしまったんだ」ニーケはぽつりとそう呟きました。

メスのルシアはそんなニーケを優しく見つめて
「さぁ、少し、急ぎましょうか?王様はきっと痺れを切らしてあなたが来るのをお待ちかねですよ」と言いました。

「王様⁉︎」

「はい」

今度はオスのマクロニスがそう言ってヘーゼル色の美しい目を細めました。

「ちょ、ちょっと、待ってくださいな。私はたった今まで、真っ暗な闇の中に何者かに引き摺り落とされていたのです!未だ、私の大切な友人、グリークは何処へ行ったのかさえしれない。心配で、心配で、、胸が張り裂けそうな思いなのに、、、その上、王様が待っている?何処に?何故?」ニーケはマクロニスにそう矢継ぎ早に問いを投げかけました。

 すると、マクロニスはニーケのキリキリとした物言いと正反対にゆったりとした口調でこう言いました。

「あなたとグリークさんはマレフィスの罠にかかったのですよ。(maléfice :邪悪な呪文)

「マレフィス…?」

「はい…このイバラヤブノタニの上空を行き交うものたちが必ず引き摺り落とされる邪悪な罠…決して、逃れられない罠です」

 マクロニスのゆったりとした物言いとは裏腹に自分たちに掛けられた罠は何かとてつも無くオドロオドロしいもののようで、ニーケは思わずブルブルと身体を震わせました。

「その罠にかけられた者たちはどうなるのですか…」

ニーケは恐る恐るそう言って、2羽のハシビロコウの瞳を交互に見つめました。

マクロニスはヘーゼル色の美しい瞳をゆっくり瞬かせながらこう言いました。

「どうにもなりはしません。この、イバラヤブノタニでずっと楽しく暮らせます…私たちのように…」

その意味ありげな言葉と裏腹にマクロニスの瞳は深い悲しみ色に潤んでいました。 

 霜の降りた草の小径を2羽のハシビロコウに連れられてニーケはまるで囚われ者のようにトボトボと後ろからついて行きました。

 2羽のハシビロコウの後頭のちょこんと伸びた冠羽が、冷たい秋風にゆらゆら揺れるのを後ろで見ながら、ニーケはグリークの背羽の中で旅をして来たことをぼんやり思い出していました。

「ニーケさん!顔を出してはなりません!私の背の奥深く隠れて!決して、決して、手を離してはなりません」

ニーケが最後に聞いたグリークの言葉でした。

 どんな時もグリークはニーケの身を一番に考えてくれ、寒さも、ひもしさも、眠ることさえ自分は後回しにして旅を続けてくれたのでした。

「これから私はひとりぽっちでどうなってしまうのだろう」

 ニーケは頬を刺す冷たい風にいよいよ寂しさと心細さが募り、霜で濡れた冷たいつま先ばかりを見つめてただ、黙々と歩き続きていました。

 しばらく行くと、緩やかな螺旋を描く城の石段が見え、マクロニスが後ろを振り返りニーケに畏まった顔をしてこう言いました。

 「ニーケさん、私たちがこうしてマレフィスの罠にかかった者たちをお城に連れていくお役目をおおせつかってから、長い月日が経ちました。でも、一度だって私たちはそのことを立派な仕事だと思ったことがありません。ただ、、、私たちは今、そのお役目をしっかり果たさなければなりません。この城に続く階段を登った先に王様の宮殿があり、そこに王様がいらっしゃいます。王様は悪いお方では決してありません。ただ…王様は…ただ、寂しいのです」

 ニーケはマクロニスの言葉の本意を深く受け止めきれずにいましたがしばらくしてからこくりと頷くと目線を上げて長い階段の先にあるお城を見上げました。

ここまでくればもう、何も争うことはありません。

覚悟を決めてハシビロコウのお役目に従うだけです。

 白い薔薇の花びらの零れ落ちた石段を上り始めてから間も無くして、ニーケは初めて後ろを振り返りました。

 そこには果てなく広がるススキの野原がおひさまに照らされキラキラと黄金色に輝き、そのもっと遠くには紅葉に彩られた山々が険しい稜線を描きながら悠然と姿を見せていました。

 ニーケは吹き荒む冷たい風に向かって叫ぶように声をあげて言いました。

「グリークーーー!私は先に行くよ。どんなことがあろうと扉を押し開ける勇気を君が教えてくれた。どんなことがあろうと諦めたりはしないと。だから、君もどんなことがあっても生きていてくれ!」

 風はいよいよひゅるひゅると音を立て、それはまるでグリークの悲しい叫びにさえニーケには聴こえました。

「ニーケさん、急ぎましょう。宮殿の扉が開かれるのは実に気まぐれで、そして不確かです。運わるくその日のうちに入れなければひと晩、野宿になったりします」
ルシアはそう言ってぶるっと体を震わせました。

 霜の降りる、こんな寒い日の夕べに外で野宿だなんて、、、凍え死んでしまいそうです。

 ニーケはルシアの言葉に促されて、少し急足で石の螺旋階段をぐるぐると目の回るくらいのはやさで登って行きました。 

 開かれた宮殿の扉の向こう側には、ニーケがかって一度たりとも目にしたことのない王宮の世界が広がっていました。

 恐らく百年、否、何百年も朽ちることなく輝きを保ち、宮殿を支える柱一本、一本に、そこかしこに整然と置かれた椅子やテーブルに、壁にかかった絵画、花瓶のひとつにさえ惹かれ合う美と造形とが 歴史の重さという荘厳な空間を作り出していました。

 チェス盤のように四角いピカピカの石が互い違いに張り巡らされた宮殿の床には、見たこともないような毛足の深い、細やかな織りのペルシャ絨毯が扉の入り口から王様の座る玉座の足元まで、延々と敷かれてありました。

 そして、その玉座の直ぐ側で、大きなクジャクが高い窓から届く光を浴びて高貴なビロードの羽を開いたり閉じたりしながら、入り口に立つニーケたちを静かな眼差しで見つめて居ました。

 マクロニスがニーケの横に立って小さな声で言いました。

「王様がお出ましになられたら片膝を立てて、頭を深く下げるのが礼儀です」

ニーケは背筋を伸ばしコクリと頷き、青いマントの紐をキリリと締め直しました。

 部屋の片隅の扉を開け、ゆっくりとした足取りで現れた王様は、四方に金のモールの施された玉座の椅子に静かに腰を下ろしました。

 2羽のハシビロコウは王様の前まで歩くと、先ず、マクロニスが片膝を立てて王様に深く頭を下げ、次にルシアが軽く膝を曲げ、小さく※カーテシーをした後に、ニーケに目配せをして王様に挨拶をする様に促しました。

 ニーケも片膝を立て、深く頭を下げた後、ゆっくりと目線を上げ、王様の顔を見ました。

 真っ白な口髭を顎に蓄えた王様の顔は、ひどく歳をとっているように見えましたが、優しい眼差しと気高さを持った姿にニーケは少しホッと頬を緩めました。

 そして、ふと、何故だか、ニーケは王様にいつか、どかで会ったような不思議な気持ちがして来たのです。

 さて、、どこで出会ったのか?思い出せません。
頭の中でぐるぐる記憶をかき混ぜても思い出せません。

 王様に会うことなど生きているうちにそうあるものでもありません。忘れる筈もないのに…。

そんな事を思っていると、王様が、ニーケに良く通る声でこうお尋ねになりました。

「君の名は何と申すのか」

「はい、ニーケと申します」

「どこから来て何を生業に生きておるのか」

「このイバラヤブノタニから遥か北にある、カモライの森という所で、哲学者として生きて参りました」

「ほぅ、哲学者とな、、中々面白い。私は随分と長く生きて来て、世界中の賢者、思想家、哲学者、芸術家、宗教家、さまざまな本を読み、さまざまな人種、才能や能力を持った者たちに出会って来た。君の知りうる限りの哲学の話を私に聞かせて欲しい」

「えぇ、、はい、、、。哲学の話と申しましても、、。何をどうお話すれば良いのやら、、」ニーケはいきなりの王様の質問にあたふたとして俯いてしまいました。

「そうか、それはこれからゆっくりと聞かせてもらうことにして、。そうだな、先ずは、君がカモライの森からここに来るまでの旅の話をしよう。いま、薔薇の棘の山の麓にどんな薔薇が咲いていたか教えて欲しい」

「薔薇の棘の麓、、、?」

「そうだ、、薔薇が咲き乱れている丘があっただろう?」王様は優しい眼差しでニーケの顔を覗き込むようにそう、言いました。

 その瞳の優しさは、とても自分たちを罠に貶める人のようにはニーケには思えませんでした。

 ニーケは王様の目を逸らさずに真っ直ぐその瞳を見つめ返してこう言いました。

「王様、王様は何故、私たちを邪悪なマレフィスの罠にかけたのですか?」

 王様はニーケのエメラルドグリーンの美しい瞳をじっと見つめたまま「私は薔薇の名を君に聞いているのだ」と答えました。

ニーケは頭を横に振り「私は薔薇の名を知りません」そう、キッパリ答えました。

「ひとつもか、、、」

「はい、たったのひとつも、、」

「アイスバーグもローズノートもスカボロー・フェアも、、、知らないと言うのか」

「はい」

その時でした。

 宮殿の後ろの扉がゆっくりと開かれると2羽のハシビロコウが棘のある蔓におおわれた大きな草の塊を引き摺りながら宮殿の中に入って来たのです。

※カーテシー:目上の人に対して女性がする挨拶


 そのイバラの蔓で覆われた緑の塊を、2羽のハシビロコウは、王様の前に恭しく差し出すと静々と後ろに下がり頭を垂れました。

「それが、アイスバーグだ」

王様は出し抜けにニーケにそう言いました。

「えっ?」

 ニーケは意味が分からず、王様と足元に転がる緑の蔓で覆われた塊を、交互に見返しました。


「その蔓の先に咲いている白薔薇がアイスバーグと言う名前の蔓薔薇だよ」

 ニーケが目をよく凝らすと確かに棘のある蔓の枝先に真っ白な薔薇の花がいくつか咲いていました。

 「目の前になくとも、バラの名前を言っただけで、バラは我々の目の前に現れている、、、、と、論じたのは中世の唯名論者たちだ。君も少しは、薔薇の名前を覚えたらいい」

 ニーケは小さく頷いて、もう一度、その蔓でぐるぐる巻きの緑の塊に目を凝らした時「あっ!」と声を上げました。

「グリーク?グリークーー!」

 ニーケは緑のその蔓の塊を揺さぶりながらグリークの名を大声で叫びました。

 緑のイバラの隙間から僅かに覗く白い毛羽根の色は紛れもなくグリークのものでした。

「グリーク、、、、生きていてくれたのだね、、、。本当に、本当にグリークなのか!」

その時、白い毛羽根の先が微かに動くのをニーケは見逃しませんでした。

「王様、、王様、、、お願いです。イバラの蔓を早く解いて私の大切な友人をここから出してあげて下さい‼︎」

 ニーケは王様の足元に駆け寄り、縋るようにそう言って懇願しました。

「そんな簡単に君の友人をそこから出すわけにはいかない」

王様はそう冷たく一蹴しました。

「なぜ?」

「なぜ、、?とな」王様は眉を少し顰めて言いました。

「君とまだゆっくり話もしていないじゃないか?」

「話なら後でいくらでも話て差し上げます。だから、お願いです、どうか、どうか、グリークをここからいっ時も早く出してあげて下さい!」

 すると王様は、ニーケの一心に懇願する姿をまじまじと眺めた後にこう言いました。

「わかった、、、そうであるならば、君が私の質問に答え切れたなら、君の一等、大切な友人をそこから助けてあげよう」

「はい。なんなりと、、、」ニーケはそう言ってごくりと唾をのみこみました。

「では、君の一等大切なものがその中にいる友人、グリークなら、私の一等大切なものは何だと思うかね」

王様はそう言ってニーケの眼を真っ直ぐ見つめました。

「王様の?王様の、、、一等、、、大切なもの、、、?」

ニーケは、はたと、次の言葉が継げません。

困った、、、困った、、、王様の一等大切なもの、、、、?

 ニーケの額には汗が滲み出て、気は焦るものの、全く言葉が浮かんで来ません。

その時です。

「王様の一等大切なもの、、、それは王様の口笛です」

緑のイバラの塊の中からそう聞こえて来たのはグリークの声でした。

 すると、グリークをぐるぐる巻に覆っていたイバラの蔓がまるで生き物のようにみるみる形を変え、塊が大きく膨らんだかと思うとその蔓がバラバラと音を立てて茶色く色を変え、床に落ちました。

 そして、その中から真っ白いオオワシのグリークが大きな翼を広げて王様の目の前に現れたのです。

「グリーーーク!」ニーケは歓喜の声を上げました。

と、同時に王様はワナワナと震える指でグリークを指差しながら言いました。

「何故、、、何故、お前は私の一等大切なものが私の口笛だと、、、?」

 グリークは鳶色の鋭い眼差しで王様の目を射抜くように見つめるとこう言いました。

「王様の一等大切なもの、、それは王様の吹く口笛です、、、いや、正確に言うと、それは何百年も前の王様の大切なもの。今は、、、」

「今は、、今は何だと⁈」

「今は、、王様の一等大切なもの、、、それは永遠の命です」

グリークはそうキッパリと言い切りました。

 それを聞いた王様は、よろよろと玉座に尻餅をついて、青ざめた顔でグリークを見つめ返しました。


 グリークは、王様の前にゆっくりと歩み出ると片膝を立て、深く頭を下げると誰に語るでもなく静かに話を始めました。

 今から200年ほど前も昔、グゥスコ ソフォス :ΣΟΦΌΣ SOFÓSと言う作家が私の故郷のほうき森に住んでいました。

 彼は私の友人でもある、どんぐり新聞社の記者、きつねのジーポのひいおじいさんでもあります。

 グゥスコの描く物語の世界観は当時はあまりにも気を衒い過ぎ、森の仲間たちには中々受け入れられないところがありましたが、ただ一つだけ、今でも長く読み継がれている物語があります。

それが「王様の口笛」と言う物語です。

 その時、こうべを垂れ、グリークの話に静かに聞き入っていたニーケはあっ!と小さな声をあげました。

 若い頃、親友、コルトーの家の膨大な書籍棚の中で偶然にもみつけた一冊の本。

 その赤い皮表紙の分厚い本を手に取り、パラパラと読むでは無しに捲ったページの端に一人の年老いた王さまの挿絵が描かれてありました。

 立派な口髭を顎に蓄え、ブルーグレーの瞳はどこか寂しげに遠くを見つめ、威厳あるその横顔はニーケの胸にいつまでも焼き付いていました。

 正に、その、王様の顔と目の前の王様がそっくりだったのです。

 何処かで出会ったことがある、、そう、ニーケが感じ取った思いは間違いではありませんでした。

 ニーケは何十年も前に挿絵に描かれたこの王様と出会い、また今、こうして巡りあったのです。

 作家、グゥスコ ソフォス:ΣΟΦΌΣ SOFÓSが何故このような物語を書けたのかは今でも謎めいて不思議なことでありますが、読み継がれているという歴然とした事実は否めません。

 赤い皮表紙の分厚いその本の中の第1章、上段の冒頭から始まる一節は若く美しい王女と王女の召使いの黄金の鳥に、王様が老いて行く自分の苦しみを告白する場面から始まります。

「忘れていくことが何故いけないのですか?」

「いえ、忘れていくのが悪いとは申しておりません。忘れることが面白いほど沢山あって、そのたくさんの中に忘れてはいけないものもあるのぢゃないかと、不安になるのです。そして、その不安さえも忘れていく毎日なのです」

 王様の苦しみや悲しみ、そして老いて、自分がこれから先どうなってしまうのだろうと言う不安が、頁2枚分ほども、悲しみの言葉で埋め尽くされ、延々と語られて行きます。

 しかし、それは生きとし生けるもの誰もがいつかは自分も老い、味わう悲哀や不安であることは十分理解できるものでした。

 ただ、ここからが私たちに到底理解できない出来事が王様の身の上に起こります。

ある時、この王国に一人の旅人がやって来ました。

 その旅人は、自分は世界の誰もが出来ない魔術が使え、どんな願い事も叶えられる呪文を知っていると嘯き(うそぶき)ます。

若く美しい王女は老に苦しむ王様のことはもとより、自分がいつまでも若く美しくありたいと願うばかりに、その旅人に、願いの叶う呪文を教えて欲しいと懇願します。

「そうは、簡単に教えられないよ。どうしても、と、言うのなら王女さまの一等大切なものを私の前に差し出すが良い。私の呪文がその大切なものと同じくらいの価値があるならば、王女さまに私の呪文をお教えしましょう」

怪しげな旅人はそう言って、王女を惑わします。

 その時、欲深い王女は自分の一等大切なものは王様です。と、咄嗟に答えました。

しかし、怪しげな旅人は首を横に振りました。

この先、老いぼれて何の役にも立たない王様などいらないと…。

すると、王女は暫く考えてからこう言いました。

「実は王様は、とても美しい口笛が吹けます。その口笛を聴いたものたちは幸福が約束され、金銀財宝手にすることができるのです。王様は滅多にその口笛をお吹きにはなりません。それだけの力をもっているからです。その口笛をあなたにあげましょう」と。

 王様の断りもなく王女は勝手にその怪しげな旅人と約束を交わしてしまったのです。

 その代わりに自分と王様に「永遠の命、若さを保つ呪文」をかけて欲しいと願うのです。

旅人は喜び、王女ばかりか王様にもその「永遠の命」を授ける呪文を授けたのでした。

そして、別れ際に旅人は王女にこう約束させました。

 王様に二度と口笛は吹かせてはならぬ、、、、と。

ひと度、口笛をふくことがあったならその命は忽ちに消えて無くなるであろう。

 そして、その怪しげな旅人は自分が奪った王様の口笛を誰も奪い返しにこないようにこの王国を取り巻く全ての場所に邪悪なマレフィスの罠をかけて外に出ないように呪文をかけたのでした。

 この物語の章はここで終わり、私たちはその後、永遠の命を授かった王様と王女が幸せに暮らしたかどうかを知りません。

グリークは、そこまで一気に語ると、深く息を吐きました。

ーあらすじー

カモライの森で暮らす哲学者、黒猫のニーケは親友コルトーに会うためにオオワシのグリークの背に乗ってほうき森へと旅立つ。
険しい山河を渡り、旅を急ぐ中、邪悪なマフィレスの呪文のかけられたイバラヤブノの谷にグリークとニーケは引き摺り落とされてしまう。
そのイバラヤブの谷には自分の大切な口笛と引き換えに「永遠の命」をもらった王様がいた。


 静まり返る宮殿の中に再びグリークの声が響き渡りました。

「王様、私は王様に尋ねたい。
永遠の命を授かって王様は幸福でしたか?
忘れて行く記憶を追いかけるように悲しんだ日々はなくなり、ただ漠然と生きた月日は輝いていましたか?」

 王様はグリークの言葉に一瞬、眼(まなこ)を釣り上げグリークを睨み返しましたがやがて、、悲しみの色で覆われた瞳でグリークを見つめ返すと静かに首を横に振りました。

「グリーク…、私は君の言うように長く生き過ぎた。年を取ると、得て来たものよりも失ったもののほうが多くなる。それにしても、愚かな私の考えで失った物の代償は計り知れないほどだ。こんな虚しい思いをして、それで生きていたって何になるものか、死んでいる方がよっぽどましだ」

 王様の言葉には当てどなく永い旅路を歩き続けて来た旅人のように身も心も真から疲れきったような響きに聞こえました。

「イバラヤブノの谷の王国は命の輝きに満ち溢れた王国だった。
鳥たちは私の口笛と共に命の喜びを歌い、蝶や蜂やてんとう虫たちは花咲く丘の上を忙しなく飛び交い、甘い蜜を王国に運んでくれた。私の本意でなくとも怪しげな旅人に口笛を奪われてから私は本当の自分を見失い、そして、苦悩と無常の思いを強くしていった」

「永遠の命などない、、そうお気づきになっていたのですね?」

 グリークは語気を強めてそう、言いました。

「あぁ、、」王様はそう小さく呟くと言葉を続けました。

「永遠と言う言葉は美しい響きがある。しかし、それは虚しいものだ。
命には限りがあってこそ、その短い生を切に輝かせようと生きる。また、そのことこそが素晴らしく、尊く、意味のあることだと気付いてた」

 王

様はそう言って立派な玉座からゆっくりと立ちあがりました。

「私は、自分の存在のはかなさにも疾うに気づいていたよ。もし、命の限りと言うものに自然に従い向こうの世界へ旅立っていたら、また花や蝶、鳥や獣、あらゆるものに姿を変え、今世の中で再び命を煌めかせていたかもしれぬ。路傍の花や大空を渡る鳥たち、青葉、一葉にさえ一切の無常の象徴に姿を変え、この世に生まれ出る事を切なる願いとして、私は目に映る全てのものに縋りつきたかった。しかし、、」

「しかし、王様は何をいわんや、その永遠の命にしがみついて生きてきた」

 お王様は、グリークの言葉に激しく頭を振り、白髪の髪を掻きむしりました。

 その時、王様の頭上に輝く立派な宝飾の冠がぐらりと傾いたかと思うと、呆気ないほどにその冠は王様の頭上からスルリと床に転げ落ちました。

 それはあっという間の出来事でニーケも番のハシビロコウたちも声も出せず、そしてそれを直ぐに拾いに行くものなど誰もいませんでした。

 グリークは肩を落とし項垂れた王様に更に厳しい言葉で追い詰めていきました。

「王様はご自分の大切な宝物の口笛と永遠の命とをお引き換えになり、不本意ながらもその願いを叶えた。けれど、私たちが決して許してはならないことがあります。
 それは、自分の寂しさや虚しさ、長く退屈な日々の相手に罪もない旅人、鳥や獣たちに罠をかけ、王国に引き摺り落とし、そして、そのものたちの夢や希望、故郷に帰りたいと言う願いさえも奪い取ってしまわれたことです」

 窓から吹く晩秋の風が切ないまでに甘く芳しい薔薇の花の香を宮殿の中に運んでいました。

 王様は静かに目を閉じてグリークの投げかける矢のような言葉を黙ってお聞きになっています。

「王様、永遠の命などはこの世のどこにもない。

王様は、、ご自分の一等大切な口笛を今こそご自分に取り戻し、その口笛
を吹く時が来たとのだ思います」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

声をあげたのは以外にもニーケでした。

「王様が口笛を吹くことは、、吹くって言うことは王様が、、死んでお仕舞いになるということなのでしょう?」

「そうです」

 グリークはキッパリとそう言い切りました。

「私の大勢の仲間たちもこの、イバラヤブノタニの中で故郷を思いながら、夢を諦め、希望を無くし、二度と故郷に戻って来ることはなかった。
今こそ、王様、今こそ、永遠の命に幕を下ろす時が来たのです」

 グリークの強く厳しい言葉は、まるで、目の前の王様に裁きを下しているようでした。

To Be Continued


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