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クリといつまでも

<背景>

桑田佳祐
「これは名曲でしょ。本当、冗談抜きで。
なんでこれを作ったかというと『Acoustic Revolution』の流れだよね。この曲は本当好きでね、大ヒットすると思ったんですけどね(笑)。そうはいかなかったね。でも、いろいろと勉強になりました。」(1994年)

筆者もこれはホント~~に冗談抜きで名曲だと思う。実に深いんです。
一聴してタダのナンセンスソングにしか世間では認識されていないが、
実はそこには様々なものを背負っていることに気付かされるんですよ。

『スーパーチンパンジー』名義でCDリリースされたのが、1991年9月のこと。この曲が作られた頃の時代背景を追ってみよう。

まず1990年末から、原由子のアルバム『MOTHER』の製作が始まる。
レコーディング中の1991年1月に湾岸戦争が勃発。
それに触発され、『MOTHER』セッションのメンバーを中心に日清パワーステーションで『Acoustic Revolution』ライブを行ったのが3月のことである。

桑田佳祐
「あの頃はちょうどハラ坊のアルバムを作っている頃でね。プロデューサーつっても基本的に俺は見てるだけだから、欲求不満がたまってきちゃってさ、おれも歌いたいよぉという。人恋しくなるのよ。ダイレクトな反応が欲しくなる。

それとね、湾岸戦争ってことがあるね、ひとつ理由として。小林武史くんたちと毎日スタジオで顔つき合わせてるじゃない。で、話すことといったらフセインのこととか90億ドルのこととか、海部さんてのはいい人なんだろうけどいじめられやすいキャラクターだなとかね、そんなのばっかり。ハラ坊はハラ坊でニュース見て暗い顔してるしさ。

そういう情報とともにいろんな感情がもやもやっと渦巻いてね、その気分を正直に現そうと思ったらライブやるしかないな、と。

まあ、そのへんのつながりはうまく説明できないんだけど。ただチャリティみたいなものにはしたくなかった。」(1991年)

『Acoustic Revolution』の選曲やステージ上での映像は見てのとおり湾岸戦争を色濃く反映した内容であった。

桑田佳祐
「湾岸戦争とか天安門とかベルリンの壁が壊れたっていう世界の激動ってのをTVで見てさ、そういうなかで多少プロテストなもの・・たとえばボブディランの曲とか『What A Wonderful World』とか・・を歌っても、こっ恥ずかしくない時代かなって。ライブのとき、バックに湾岸戦争の映像を映し出したのもそういうことでね。これもひとつの音楽の在り方っていうことだよね。」(1994年)

ちなみにルイアームストロングが『What A Wonderful World』を発表したのがベトナム戦争の真っ只中であったことはあまりにも有名だ。心から平和を懇願していたのか、シニカルな視点を持ち合わせていたのかは定かではないが。

桑田佳祐
「意図的に入れたのは頭の『What A Wonderful World』とラストの『The End Of the World』、それにディランの2曲だけだよ。ああいう世界情勢に対して無口にならざるを得ない俺たち日本人の体質にね、こういう禅問答みたいな歌が合ってるような気がしてさ。」(1991年)

ライブ開催の時点で、このユニットには名前がなく、"SUPER CHIMPANZEE"という名前は、このライブ後に付けられた。

桑田佳祐
「もとを正せば、ちょうどアコースティックライブのビデオ編集をしてて、夜遅くなったんだよね。で、手持ちぶさたなんで、小林君や小倉君と酒を呑んじゃったんです。

その時はライブの映像を観てるから盛り上がってるでしょ?『イイよねー、これはイイよ。これはもう外国へ持っていけるんじゃないか?』みたいなさ、自惚れも含めて、酒呑んでるもんだから、皆、気がデカくなってるんだ。

グループ名も『スーパーチンパンジーという名前があるんだ』って俺が言ったら盛り上がって、『電気セーターズはどうだい?』なんてさ。皆『それがいい、ウワーッ』とか言って。

ステージで俺の動きなんか見てもやっぱりマトモじゃないでしょ?
『ブルーススプリングスティーンみたいじゃないし、ロッドスチュワートにもなれないから、日本ザル的イメージで、でも洋モノを超えたという意味で、日本ザル=スーパーチンパンジーだぁ!』なんてね。舌が滑らかになってますから(笑)。

そうしたら『よし、これでイラクに行こう!』とかって。ちょうど湾岸戦争が終わってまだみんな心が熱い頃だ。『イラク?・・いや猪木さんがバイクに乗ってシルクロードを行ったみたいだし、俺達も韓国あたりから入って、ずーっと国境を越えて・・』『最後はサウジアラビアで砂の舞台を作って』とかわけのわかんないことを言ってね(笑)。」(1992年)

さらに

「湾岸戦争の時、TVの画面の向こうで弾が飛んでて、僕は初めて"アジアの果て"のようなものを観た気がしたんですよ。
(中略)
 同じアジアにもいろんな事情を埋没させて、それが戦争になっちゃった…そんな状況を目の当たりにして、『世界は広いが世間は狭い』とかワケのわかんないことを言いながら、"じゃあ、アジアに行こう"みたいな風潮だったんです。」(1992年)

そして、同1991年6月にスーパーチンパンジーは中国・北京へ行くことになる。この時のメンツは桑田佳祐、小林武史、小倉博和、今野多久郎の4人。

「湾岸戦争で"戦争をやると思わなかったのは日本とフセインだけ"みたいな意見があったけど、俺は『あっ、そうなのかな』って思った。予測と現実にTV画面から出てくる映像がジョイントできない。
そんな時にたとえば日本のロックとか僕らがいるところなんかをいろいろ考えていたら、とにかく居ても立ってもいられないというような感じがしちゃって。で、中国の話がきたんで、スーパーチンパンジーは皆、乗ったんです。」(1992年)

この訪中が翌1992年のサザンオールスターズとしての北京ライブの布石となるわけだが。
実はこの時の、中国・天安門広場での映像に『クリといつまでも』を歌っている姿が残っている。中国行きの前、上記のように、こんな気運が盛り上がっている頃には既に出来上がっていた歌なのである。

このように時系列を追ってみると、今や押しも押されぬ名うてのミュージシャンが集合し(佐橋、小倉両氏はこれをきっかけに"山弦"を結成することになる)、プロテスト性が強く、世界を照準にしていた、この"スーパーチンパンジー"というユニットが、閉塞感を持たざるを得なかった世界情勢や時代の空気の中で、究極のナンセンスソングを作ったという事実が何とも深いじゃありませんか。

―この曲は桑田さんのなかの植木等的部分ですか?

桑田佳祐「いや、むしろ『ケメ子の歌』じゃないかな。一生に一度ほんとのナンセンスソングを作ってやろうという気で。
いまだってナンセンスっぽい音楽ってのはあるにはあるけど、なにか学生気質が抜けてない感じで俺にはつまんないの。
昔だったら月亭可朝とか、水商売の香りいっぱいのヤクザっぽいのがあったでしょ。もっとも実際やってみたら難しかったけどね。楽しいんだけど難しいという二重構造」(1991年)

帰国後、スーパーチンパンジーとして初のレコーディングを開始。(この時に角谷仁宣 が Computer Operation, Backing Vocals としてクレジットされる。)
その内の1曲は『北京のお嬢さん』。タイトルからもわかるように中国からインスパイアされた曲である。

桑田佳祐
「(カップリングと)この2曲のバランスってスーパーチンパンジーではすごく取れてるんですよ。このメンツだからできたってところかな。音楽を突き詰めるというか、どこにもないジャンルっていうかね。ハズしですよね。」(1994年)

その後、7月にサザン名義でのシングル「ネオ・ブラボー!!」とライブ「THE 音楽祭 1991」を挟んで、9月にこの歌がリリースの運びとなった。

『スーパーチンパンジー』というユニットはドラムレス・ベースレスという編成がシンプルだったが故にフットワークは軽かった。
そして、PVやテレビ出演時には、桑田佳祐は女装をし、メンバーは被り物をし、パフォーマンスは道化そのもの、大いに歌舞いてみせた。

時を同じくして、この91年、多くのミュージシャンはこぞって"反戦"をテーマに歌い上げた。この曲はそういった風潮に対してのアンチテーゼだったのかもしれない。

桑田佳祐という人は決して声高に叫ばない。決して攻撃的なアジテーションをしない。ただ、それとは違う方法論で、それに匹敵する何かを産み落としていく。サッチモが「What A Wonderful World」を歌った時のように。

『Acoustic Revolution』が時代に対する一つの<解答>だったとすると、
そこから派生してできた『クリといつまでも』はもう一つの<解答>だったのではないか?

誤解を恐れずにいうと、桑田作品の中で最大の反戦歌なのかもしれない。
なぜなら、これほどノー天気で平和な歌はないから。
もっと評価されるべき歌だと思う。

最後に、デジタルサウンドが席巻していた1980年代からの反動か、この頃から「MTVアンプラグド」が脚光を浴びてきたのと同時に、シンプルな編成でのアコースティックサウンドに走ったミュージシャンは数多く、『スーパーチンパンジー』もその中の一つであったことを付け加えておく。



・・・とかなんとか言っちゃって、大袈裟に書きすぎちゃったかなあ~。
実際、単なるナンセンスエロエロソングという認識でいいと思う。
歌は歌として成立するべきだし、1曲は1曲としてしか成立しえないから。
音楽に理屈はいらない。

決して『世界平和』を歌った唄ではないし。タダのエロソング。春歌のノリで作っただけかもしれないし。
だけど、その時の背景だけ、その時の桑田佳祐の姿だけ、知っておいてもらいたい。

<2002.09.11記>


追記

SUPER CHIMPANZEE メンバー
桑田佳祐(ボーカル)
小林武史(キーボード)
小倉博和(ギター・コーラス)
佐橋佳幸(ギター)
角谷仁宣(コンピューターオペレーション・コーラス)

これだけのテクニシャンを集めたらもっとカッコいい曲をやりますよ、普通は。でも、そうはしない「ハズし」「裏切り」「あまのじゃく」。
これぞ桑田佳祐なんですよ。

山弦は2021年アルバム『TOKYO MUNCH』でこの『クリといつまでも』をカバー。
佐橋・小倉両氏が出会った実質のデビュー曲である事を考えると感慨もひとしおである。

<2023.12.05 追記>

追記その2

この原稿をサイトにアップしたのが上記の通り2002年09月11日。9.11アメリカ同時多発テロの1年後に合わせて執筆した。
9.11後、同年10月からのアメリカ・イギリス軍によるアフガニスタンへの空爆の映像を見ていたら、1991年の湾岸戦争がシンクロして、その度にこの曲の事を思い出していた。その頃から構想をしていた文章。

で、2001.9.11アメリカ同時多発テロの10日後に、その年のAct Against AIDSの内容が全曲ジョン・レノンを演ると(クワガタムシ 対 カブトムシ)オフィシャルで発表された。
それを受けて、当時筆者が書いていた日記もついでに載せます。(初の試み)


2001年9月21日『ノレンに腕押し』

今年のAAAがジョンノレンさんになったようで。まあ、このご時世に、なんちゅうタイムリーなんでしょうか、狙ったように。

実は “戦争の影にレノンさんあり” という桑田的図式がありまして。
振り返ってみると、91年の湾岸戦争の時も「イマジン」や「パワートゥザピープル」なんかが放送禁止になったことに端を発して『アコースティックレヴォリューション』をやったわけだし、もちろんその時にもノレンさんの歌は何曲も演ったわけで。

その後も1991年『EXテレビ』で“super chimpanzee EX BAND”なる名前で全曲ノレンさんの歌を演ったりと。(ホントに偶然なんだけど、AAAの事は知らずに昨夜、数年ぶりにこのビデオを引っ張り出して見て、“カッチョええのう~”と思ってたところ。これ実話。)
まあ、今回のAAAも偶然なんだろうけど、偶然にしちゃあ凄いなと、桑田さんも俺も(笑)。
てなわけで、今は亡きサザビー掲示板でも復活させようかなあ、などと考えておる。

クリックリックリッ。



↑↑などと書きつつ、2023年現在、歳のせいか『EXテレビ』の内容をあんまり覚えていない。ネットを見ても出てこない。ビデオを探すのも面倒臭い。
確か全曲リズムマシンを使ってたな、とか「コールドターキー」は歌ったよな、とかそんな程度の記憶。誰か覚えている人いたら教えて下さい。

<2023.12.05 追記>

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