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「ある」と「ない」の微妙に大きな違いにきづく


ネットを閲覧していた。
調べ物を、僕はしていた。

そうして開いたら出てきたのは、とある書き込みでできた掲示板のようなサイトだ。
そこには、それぞれの意見がかかれていて、にチャンネルや、YouTubeのコメント欄のようだった。

ただ、テーマが一つあって、それに対してのコメントで、ページが成り立っているようだった。

それをちょっと読んで、僕はすぐにそのサイトを後にした。

あるテーマについてのページなのに、「そうじゃないこと」への批判の方が意見が多かった。
これは、YouTubeのコメント欄をみても、そう言った現象がみられることがある。

いつのまにか、テーマと反対の方へ意識が向いている人は結構多いのかもしれないと僕は感じた。

「これは自分も気をつけないと」そうおもった。


久しぶりの友達たちの飲み会に誘われた。

久しぶりに会ってみたいなとおもった。
そして、不安にもなった。
今の自分がどう思われるか自信がなかった。
何か言われるかもしれないし、自分のダメさを感じてしまうかもしれない。

そう。。。こうして、いつのまにか誘われて行くか行かないかだけのテーマが、すり替わっている。
昔は、楽しそうだな!…。それだけだった動機が今や複雑さをまとった。

美味しいごはんを食べに行こうと、ご飯を楽しみにお店にはいる。
そうして出てきた食べ物をたべながら、いつのまにか、
このままで大丈夫なのだろうかとお金や将来の心配をしている。

いつのまにか、本来の希望をわすれて反対の方へ意識が向いている。

何かうれしいことがあったのに、次に何かイヤなことがあればそのことにイライラし、もううれしかったことなんか忘れてしまう。

そんなことで、そんなことで本当にいいのだろうか?


ニンゲンにうまれながら、そんな悲劇の操り人形みたいに僕らは喜びを自らかき消した。
何かのせいにしながら、不満の理由なんていくらでも作れるから。

「ある」ものなんか、僕らはいくらでも作り出せるのに。

自分の世界の創造者であったのに。


じぶんの望む、100点満点の世界はやってこない。
何があろうと、なかろうと、この世界を100点にするのは自分なのだ。

それは、今あるのもので満足して、もうこれ以上望むなといういみでは決して無い。

いまよりも遥かに望み、高みをめざし、貪欲に。
そこへ向かう道のりである今が、100点に満たされているということなんだ。

だれがどう思おうと。なんと言おうと。



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