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水戸黄門と大洗磯前神社 茨城県東茨城郡 グーグルマップをゆく⑤

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、茨城県東茨城郡。

 東茨城郡は茨城県の中央に水戸市を挟んで東西に位置する。水戸市によって分断されているというのが非常におもしろい。そういった土地は珍しいように思うが、国内にはいくつか存在する。

 古代より茨城郡というのは置かれていた。明治期に茨城郡が東茨城郡と西茨城郡に分割され、西茨城郡は消滅して現在の区画となる。水戸市によって分断されるなら、西茨城郡を残すこともできたのではないか思うが、イマイチ変遷についてはよくわからない。

 東側は山間部で、ほとんどが山で囲まれており、西側は太平洋に面している。ともに水戸市の郊外といった雰囲気である。西側に江戸時代から漁港として大いに栄えた大洗町という町があり、現在も茨城港として主要漁港の一つである。

 海辺の磯に神磯の鳥居という鳥居があるのが目についた。調べてみると、856年に大洗沖から大己貴命と少彦名命神という2人の神がが降り立ち、常陸国の国司が朝廷に奏上して大洗磯前薬師菩薩名神という称号を授かったのが始まりらしい。詳しくは、大洗磯前神社のホームページにて知ることができる。

 大洗磯前薬師菩薩名神という名前には菩薩と神が混在している。856年といえば平安期で、この頃、本地垂迹説が生まれる。本地垂迹とは、菩薩が民衆を救うために神が仏の姿を借りて現れたという考えであるが、大洗磯前薬師菩薩名神は、まさにその先駆け的な例と言えるのではないだろうか。

 大己貴命は日本書紀が設定した書かれた国の神の先駆けで、少彦名命神も大己貴命と並称される医薬の神である。平安期は、地震や飢饉、疫病などが多発した時代で、この地にもそういったことが起こり、それを鎮めるために建立された。

 中世期には荒廃していたが、江戸期になり、時の藩主であった徳川光圀によって再興される。徳川光圀は水戸黄門で親しまれているが、存命中、日本史の編纂や社寺の改革を行った人物としても有名である。

 大洗の岩礁とその美しい景観を歌に詠んだ徳川光圀だが、ひょっとすると磯に立つ鳥居は彼のアイデアによるものだったのかもしれない。

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