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受け継がれる日光東照宮の華やかな彫刻。栃木県鹿沼市。グーグルマップをゆく㉞

 グーグルマップで適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は栃木県鹿沼市。

 宇都宮市と日光市に隣接するこの町は、日光までの交通の要衝として整備された宿場町であったらしい。

 グーグルマップを見ていると、城跡や小さな寺社仏閣が多く見られ、日光を守る機能を持った土地だったのではないかと思われた。そもそも日光とは何か?この辺りのことに詳しくないので、そこから調べてみることにした。

 日光山は奈良期から平安期の僧・勝道上人によって開かれ、鎌倉期行こうは日光権現を祀り、江戸期以降は徳川家の廟地となり、日光東照宮には徳川家康が祀られている。奈良期から山岳信仰のある地域だったことがよくわかる。

 この町の文化に「屋台彫刻」というものが目についた。調べてみると、豪華で緻密な美しい屋台で、祭りの山車であった。装飾が日光東照宮を彷彿させるものだったので、調べてみると、日光東照宮の彫刻に携わった職人たちと関係があるようだった。

 徳川家によって作られた東照宮だが、装飾が豪華になったのは三代将軍家光によって行われた「寛永の大造替」による。家光は派手好きだったらしく、家光の時代から幕府が関わって作らせる寺社には装飾が増えた。

 家康を尊敬する家光は社殿のほとんどを豪華に建て替えさせた。現在の金額にして400億円ものお金がつぎ込まれた。それ以後、定期的に改築や増築が行われた。その度に近隣の職人が担ぎ出された。家光の頃に関わった職人たちが鹿沼のあたりに住み着き、その子孫やたちによって増改築が行われてきたのだろう。

 話を戻して、屋台彫刻である。慶長十三年(一六○八年)に荒廃していた今宮神社の再建される。この年は日照りが続き、不作の年であった。そのため、祭りを三日三晩続けたところ雷雨が起こった。これをきっかけに毎年祭りが行われるようになり、神への奉納の踊りの移動できる舞台として作られたのが屋台である。

 初めは黒漆塗で一部に色彩が施されたものであったが、時代とともに踊りも彫刻も華やかになってゆく。途中、幕府によって地方の芝居の禁止令や質素倹約令が出され、白木造白木彫刻屋台などになるも、その華やかさが失われることなく現在に至っている。

 今もなお受け継がれる緻密で華やかな彫刻に長きに渡って連綿と引き継がれる職人たちの誇りを感じる。

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