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牧師夫人という虚構

既存の教会を見て、私たちにとって驚くべき点がいくつかあります。その中で、「牧師夫人」という言葉も気になりますね。

まず、「牧師」とは一体何でしょうか?もし「職制」の一環だと考えているなら、複雑な問題が生じる可能性があります。しかし、私たちは皆、牧師や役員、教会員である前に、神に愛された人間なのです。当たり前のことが教会内で実践されるべきです。そして、その実践には意思が欠かせません。

例えば、牧師や奉仕者は基本的に「無償」で奉仕するものと理解しています。健常者の奉仕者が教会員よりも安定した報酬を得ることはまずありません。献身者はイエス・キリスト御自身が最高かつ最大の報酬であるためです。

同時に、教会員に求められるのは礼拝者として自発的に自分自身とその生き方を捧げることです。

ですから牧師である以上に、「献身者」である必要があります。そのため、献身者の妻もまた「献身者」でなければなりません。

神のために普通の生活を捨て、教会の奉仕者になることは当然のことですが、現実ではこれが否定されることもあります。牧師が給料をもらいながら、牧師夫人が無給であるという状況は、考えさせられます。

ならば簡単な話ですが、どちらも無給にすれば良いのです。

牧師が貧しさを知りながら生きているのに、知らない者が「貧しい者に幸い」と語るのは摩訶不思議です。牧師夫人も神に召されて「献身者」となった存在として扱われるべきです。

牧師も牧師夫人も、仕事であるか否かよりも、「献身者たれ」という視点が大切です。個人的には、食費や交通費が支給されるボランティア以下の無償奉仕が、献身者の真の姿だと思います。

献身者が職制化されて、「福音で生活するのは神の定めだ」と主張することもできますが、初めから権利を主張するのは避けるべきです。性別や奉仕に関係なく、主に仕え、主と共に生き、主と共に奉仕することを告白すべきです。

献身者として福音を伝えることで、良い結果が得られることもありますが、逆に困難に直面した場合も考慮すべきです。周囲のサポートがあれば、福音宣教に集中できますが、基本的な疑問として「献身者とは何か?」が常に考えられるでしょう。

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