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キリストの内にある者の霊性

竪琴音色キリスト教会の公用聖書は新改訳2017である。しかし、初めて私が手に入れた聖書は新共同訳だった。装丁がボロボロになる程、読み込んだ回数は数えきれない。それなのに何故、新共同訳から新改訳第二版に変更したのかというと、聖書研究会で新改訳第二版が使われていたことに加えて、教会の礼拝でも新改訳第二版が公用聖書だったからである。ちなみに、受洗教会では新共同訳だったため、私は聖書を読むことにおいて、新共同訳と新改訳第二版の世話になったということだ。


ローマ書8章10節の問題


その後、新改訳第二版は第三版を経て、新改訳2017で大幅な改訂が施されて現在に至る。ローマ書を読んでいた時のことだが、次のような訳文に気付いて驚くことになる。

"キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。"
ローマ人への手紙 810
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

新改訳2017においてローマ書8章10節の「御霊が義のゆえにいのちとなっている」という訳文となっているが、そのような訳は聖書の翻訳上、極めて希少である。即ち、人間の「霊」と訳すべき点を「神の霊」「御霊」にしてしまうことだ。

他には過去、共同訳が同じように訳していた。

キリストがあなたたちの内におられるならば、体は罪のために死ぬことになっていても、正しい者とされたことのために、聖霊(神の霊)があなたたちの生命となっています。
新約聖書 共同訳・全注 講談社学術文庫

何故、ローマ書8章10節を直訳して「霊」とせず、「神の霊」「御霊」と読み込もうとするのだろうか。字義通りに「霊」と理解してしまうならば、霊肉二元論における霊魂不滅の信仰になってしまうからだ。肉体は悪に汚染されたまま死ぬのだが、霊は良いものであって不滅なのだというのはキリスト教グノーシス主義であり、使徒パウロの福音ではない。そのように危惧する神学者の方々がおられる。

当該箇所のギリシャ語の本文を確認してみよう。ネストレ=アーラント第28版が手元になくて、第27版となってしまった(以後、NA27と略)。

Romans 8:10  εἰ δὲ Χριστὸς ἐν ὑμῖν, τὸ μὲν σῶμα νεκρὸν διὰ ἁμαρτίαν, τὸ δὲ πνεῦμα ζωὴ διὰ δικαιοσύνην.
ネストレ=アーラント第27(NA27)

ギリシャ語には「生命」を意味する二つの言葉が存在する。第一は「βιος」(ビオス)で「時間的な存続期間としての生命」であり、第二は「ζωη」(ゾイ)で「永遠に属する命」のことである。即ち、ローマ書8章10節は「ζωη」(ゾイ)が使われているため、「義の故に霊は命となっている」「義の故に霊は生きている」という文章になる。

言うまでもなく「義の故に」というのは「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」という条件と結合している。

"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。"
ローマ人への手紙 812
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかしながら、人間の「霊」が命となっているのだろうか。それとも、「神の霊」「聖霊」が命となっているのだろうか。キリストはマルタとの対話の中で「わたしは復活である。命(ζωη)である」(ヨハネの福音書11章25節)と断言している。

「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭11:25-27‬ ‭新共同訳‬‬
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キリストは更にヨハネの福音書14章6節で、使徒トマスに対して「道」「真理」「命」(ζωι)であると言い切っている。

「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14:6‬ ‭新共同訳‬‬
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キリストが私たちの命であられる御方ならば、聖霊はどのような御方だろうか。神の霊は私たちにとってキリストを信じた故に「内住の霊」となってくださったのである。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊」(ローマ書8章2節)は、キリストを信じる現在の私たちにとって「生かす霊」となっている。

"聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。"
コリント人への手紙 第一 1545
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

聖書解釈の偶像化への批判


殆どの訳で「命を与える霊」と訳されているが、ローマ書8章10節と同じで「生命」という名詞はそのまま「(霊が)生きる」という動詞の言い換えとして使われている。「生命を与えるもの」「生命を与える力」という意味として読み込むのは神学者たちと翻訳者たちによる「聖書解釈の強制」となっている。プロテスタント正統主義を批判するつもりはないし、完全な翻訳はあり得ないというのも了解しているが、但し、ローマ教会に対抗するあまり「聖書解釈の偶像化」「聖書解釈の独占化」「聖書解釈の神学的支配」の根拠として、聖書の翻訳作業が利用されてはならないと思う。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭5:39-40‬ ‭新共同訳‬‬
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ローマ書8章10節の「霊」(πνευμα)を「霊」と直訳するのでなくて「御霊」「神の霊」と訳すことで何が起きるのか。

例えば聖書の人間観における三分説(霊・魂・肉体)と、二分説(霊魂・肉体)の対立地平を無効化させ、二分説を聖書を読む者たちに強制することになってしまう。直訳の「霊」ならば、どちらの説も読解可能であり解釈できるのである。

話を元に戻すが、新改訳2017と違って、新改訳第二版と第三版では以下のような同一の訳文だった。

"もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。"
ローマ人への手紙 810
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

上記の箇所の「からだ」はギリシャ語だと「σωμα」(ソーマ)であり「肉体」という意味である。私たちの肉体と対置されているのは「πνευμα」(プネブマ)」であり、そのまま普通に「霊」という意味だ。


キリストがあなたがたのうちにおられるなら


さて、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」(ローマ書8章10節)という言葉は条件だと既述した。だから「霊」が「御霊」と訳されてはならない理由は、聖霊は何の条件もなしに「いのちの御霊」(ローマ書8章2節)なる神だからである。しかし、私たちの「霊」は、即ち、神と交わる場としての「霊性」は霊的に回復しなければならない。キリストを信じる信仰という唯一の条件も不可欠であるという点で、聖霊なる神と、人間の霊は決定的に異なっている。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭3:3-8‬ ‭新共同訳‬‬
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キリストを信じて、キリストの内にある者となった私たちが罪に定められることなく、罪と死の律法から解放されるという条件の故に、新改訳2017におけるローマ書8章10節の「御霊」は「霊」と直訳しなければならない。そうでなければ聖書解釈の多様性と開放性が恣意的に限定される可能性を私たちは憂慮している。



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