「異端とは何か?」という問いに対して、非常に多様な視点が存在するが今回は聖書、──特に、新約聖書の切り口で考えることをしてみたい。日本語として明確に「異端」という言葉が登場する代表的な聖句から学んでいこう。
旧約聖書の時代に「偽預言者」が存在したように、新約聖書の時代の今、「偽教師」が現れて「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むように」なるというのである。
ここの「偽教師」は「ψευδοδιδασκαλος」(セブドディダスカロス)の複数形が使われており、「偽りの教師たち」の他に、「誤謬を教える異端の教師」「自称教師」という意味も含まれる。
そのような「偽りの教師たち」「誤謬・異端の教師たち」が、「偽預言者」と比較対照させられているのには明確な根拠があるはずである。「偽預言者」は「ψευδοπροφητης」(セブドプロフィティス)の複数形が使われており、「偽預言者たち」の他に、「嘘を預言する者」「神から召されていない自称預言者」という意味もある。
キリストは「偽預言者たちに用心しなさい」と警告しておられる。しかも、「狭い門から入りなさい」(13節)という命令と、「天におられるわたしの父のみこころを行う者が(天の御国に)入る」(21節)の間に15節の警告は挿入されている。
旧約聖書において「偽預言者たち」はどのように定義されていたのだろうか。言うまでもなく、キリストが「律法と預言者」を終わらせたので、「偽」じゃない「預言者たち」も存在していたのである。
上記の偽預言者たちに関する言及の直後に、人々からの「他の神々に仕えよう」という偶像礼拝への誘惑に対して注意喚起されていることは興味深い。
では一体、「偽預言者」と「預言者」の識別と区別はどうすれば良いのだろうか。
預言者の役割は重大であったからこそ、神の言葉に聞き従わない者の責任が問われることになるのだが、預言者自身が「主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである」と言われている。ひとりの預言者とは誰だろうか。語りの中身は何だろうか。主なるイエス・キリストこそ、完全な預言者であり、福音を完成させて実現した御方なのである。
だから、「偽教師たち」(ψευδοδιδασκαλος、セブドディダスカロス)は、キリストに導くことをせず、福音の真理を自分自身の欲望の手段としてしか語れない。神の召命はキリストに対する信仰において明確になるものであって、人々から選出されるようなものではない。
偽預言者たちにせよ、偽教師たちにせよ、主の御名によって語った言葉が実現すること、即ち、福音の真理に無頓着であり、キリストに対する信仰という「狭い門」「狭い道」を「広い門」「広い道」に言い換えてしまっていることに共通点がある。
主なるイエス・キリストこそ、真の預言者であり、真の教師なのである。キリストの預言職と教師職を認めているからこそ、キリストを信じる私たちの中から預言者たちが土台となってそれらの預言が聖書に収録されている。
加えて、キリストの教会における「教師」という職務が賜物として与えられたのである。
改めて問おう、「異端とは何か」。
⑴異なる福音を受容すること。
⑵偽りの教えと惑わす霊に心を奪われること。
⑶キリストの受肉の教えに反対すること。
私たちは、キリスト教的な異端からの脱出を手伝うとか、異端から受けたトラウマを癒す賜物が与えられていないと認識している。キリストが私たちに与えてくださった限度を超えて奉仕することは不可能であり、その点に関してはとても残念に思っている。
さて、私たちはカトリックなのか、プロテスタントなのかという疑問があると思う。「所属教会の許可なく活動している」という攻撃と批判を受けたため、「初めから福音宣教の許可と了承は得ている」と反論しておこう。むしろ、その条件下を確認した後にカトリックの堅信を受けることを決断したのである。それ以上の事柄は教会の名誉を汚したくないので記すことを控えたい。
しかしながら少なくとも、カトリックの教えに基づいた福音宣教とか、ロザリオの祈りの集い等は某修道会に報告済みであり、その上で、ロザリオ・コンフラタニティの会員でもあるから、むしろ「ロザリオの祈りを毎日、個人でも複数人でも、捧げるように」という会則が存在する。
所属教会に関しては体調面、経済面、距離面から、他の教会への転入会を祈り検討している最中であり、別の教会のミサに時々だが参加させてもらっている。