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御子は「みこ」と読むのか、それとも「おんこ」と読むのか?


Miko-Onko quaestio


プロテスタント出身の私が、カトリシズムの研究とその実践を教会に導入する時、最大の衝撃が「カトリック教徒の方々は御子を〈おんこ〉と発音する」という出来事でした。確かに、新改訳2017と同等に愛読しているフランシスコ会訳の御子のルビも「おんこ」と書いて、そのように読ませている。

果たして「御子」は「みこ」と読むべきなのか、それとも「おんこ」と読むべきなのか?

この疑問を私はラテン語で「Miko-Onko quaestio」(ミコ・オンコ クエスティオ)と呼ぶことを躊躇しない。ぶっちゃけ「Filioque problemate」(フィリオクェ・プロブレマテ)よりも現実的緊急性の高い、時事的な課題だと思う(嘘)。

「御子」は「みこ」なのか、「おんこ」なのか?

読み方:みこ
御子/神の子。特にイエス=キリストをさす。
Weblio 国語辞典

国語的に「み」は神に対して使う読みであり、「おん」は人間に対する丁寧語です。

キリストは神ですから丁寧語である「おん」でなく、神に対して使う「み」をあてるのが適切かと思います。即ち、御子は「おんこ」でなく「みこ」と読みます。

そもそも読み方として、広辞苑でさえも「みこ」「おこ」という読み方はありますが、他の読み方は基本的にありません。

「御父」「御霊」も神ですから「みちち」「みたま」と読むのが妥当でしょう。「おんちち」「おんたま」だと、ただの人間に対する丁寧語になってしまうからです。

神の本質を啓示している御名なんか「みな」なら違和感ないけど「おんな」は…うーん?(御名は神の本質を示すので「みな」が正しい)。

聖母の汚れなき御心(みこころ)という慣用的な読み方を、御子にも一貫させるのもありだと感じますけど。

ですがミサと聖餐式において、キリストの血と体は「神自体」ではありません

だからカトリック的に言うと聖体の前に跪くことは原則的に控えているようです。但し、カトリックは初めからそうだったわけではありません。

160[=117] 
それから、 司祭はパテナまたはピクシスを取って、 通常は行列をして来る拝領者に近づく。
信者が聖別されたパンやカリスを自ら手に取ること、ましてそれらを互いに手で渡すことは許されない。
信者は司教協議会の決定に従って、
 ひざまずくか立って拝領する。
立って拝領する場合、
 決定された規則に従って、 秘跡を受ける前にふさわしい尊敬を表すよう勧められる。

161[=117, 118] 
パンだけの拝領であれば、 司祭はパンを取り上げて一人ひとりに示し、「キリストのからだ」 と言う。
拝領者は「アーメン」と答え、口で、
 あるいは許可されている場合で拝領者が望むなら手で秘跡を受ける。
拝領者はパンを受けるとすぐにすべてを拝領する。
ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)

ローマ・ミサ典礼書(暫定版)の「日本における適用」


言うまでもなく日本国内では「日本における適用」として別途、ローマ・ミサ典礼書(暫定版)の冒頭に規定があります。

動作と姿勢について

ひざまずく代わりに手を合わせて深く礼をする。 
ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)

プロテスタントも聖餐式では跪かないです。聖体を拝領する行為、若しくは聖餐にあずかる行為が偶像崇拝っぽくなることを危惧した結果であり、それが「日本における適用」だと思われます。


キリストの血、キリストの体


いずにせよ、御血を「おんち」、御体を「おんからだ」と読むと、ただの丁寧語になってしまうのです。普通に「キリストの血」と「キリストの体」と言ってしまえば良いと思いますが、キリストの「御体」をあえて読むとすれば「みからだ」でなく「おんからだ」となります。でも「おんからだ」は読み込み過ぎと思うので「キリストの体」と読むことにします。


ミサの式次第では?


現行の『ミサの式次第』でも、以下のように明記されています。

『ミサの式次第』(増補版)
カトリック中央協議会

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