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聖画像論争の彼方へ

幼少期、私は曹洞宗の幼稚園で園児生活を送っていたが、仏教童謡とか、禅が導入された特殊な環境で育った。他方、兄弟たちはキリスト教(カトリック)の保育園で育ったせいか、結婚式はカトリックでもないのに全員、キリスト教式(プロテスタント)で挙式していた。

さて、仏教系の幼稚園は、弘法大師(空海)による禅の影響があったため、仏像は存在しなかった。しかし、祖父母の家が真言宗の檀家として本家だったので毎日、仏壇に手を合わせるように教えられる日々であった。その時、私が祈り心の中に感じていたものは「無」という言葉でしか表現できない。そこから自分自身の「無-価値」が生じることになる。

だから結局、高校時代に自発的に聖書を読もうとしたが教師がいなかったので挫折して、大学時代の聖書研究会と教会の礼拝への出席と、キリスト教の教理教育を通じて洗礼を受けることになる。即ち、地元では諸教会があって救いを求めていたにも関わらず、福音を伝えてくれる方々が不在だったため、キリスト教徒になることはできなかったのである。

"さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。
するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。"

使徒の働き 8章26~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

時は経過して、キリストを信じて洗礼を受けた私は即座に、神に献身したいと本気で祈り願った。紆余曲折はあったが、神学校を卒業した後、独立伝道者として教会開拓を開始することになったが詳細は省こう。説教と司牧の現場において、福音宣教の困難の中、徐々に私は信仰の限界に至ってしまった。何度も燃え尽き症候群になり、倒れて、極貧生活なのに無償奉仕どころか、相手の方々に信仰の学びに不可欠なテキストだとか、信仰告白者に洗礼を授ける際の移動費・交通費・滞在費・食費などを自分自身で負担していた。理由は簡単で、私が過去に所属していた教会では一般的に「什一献金」と呼ばれる費用負担が存在しており、献金を捧げる時の封筒があるのだが、どうしても献金できなかった時、口頭で注意されたり、教会の経理・会計部門から封筒に「未納」と押印(=不信仰の烙印)されていたことで、非常に心が痛む教会生活だったからだ。今となっては言うのも恥ずかしいが洗礼時、誰からもプレゼントはなく、現在に至っては当時の写真も保管されず、教会籍も抹消され、何と受洗日さえも記憶している関係者の方々もいない。故に、竪琴音色キリスト教会では献金なし、無償奉仕、キリストを伝えること自体が報酬であると考えて福音宣教をさせてもらっている。

"私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。
では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。"

コリント人への手紙 第一 9章16~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

さて、福音宣教において信仰の限界を突破させたものは、私にとって何だったのか。上智大学神学部主催の神学集中講座を受講するよう、カトリックの友人から誘われたことが転機となったと思う。霊性神学だとか、マリア論など、カトリシズムを十分に学べる講義を5年間以上、学び続けて、毎週土曜日夜からのミサにも継続的にあずかり、司祭から祝福してもらった。

カトリック麹町聖イグナチオ教会 主聖堂

入門講座にも導かれたが、何年も通っていた聖イグナチオ教会が遠すぎたため、途中で通える範囲の教会で堅信を受けることになったが、信仰の遍歴に関してはこの辺りでやめておこう。

プロテスタントからカトリックに移った時の、最大の衝撃は、十字架にイエス像が磔にされていたことだとか、祈る時に小さな磔刑像やマリア像を置き、キリストの現存を大切にすることだとか、十字を切るなどの所作だとか、──要するに、聖画像と聖像に対する崇敬であった。神学的に了解していても、例えば、マリア崇敬と諸聖人崇敬の実践としての「ロザリオの祈り」を唱えるのに5年間も躊躇していたと言えば理解してもらえるだろうか。ましてや、マリア像に向かって挨拶の祈りをするために連れて行かれたこともあったが、聖遺物に対する態度も含めて、カトリック教会の風土に慣れるのに「自分の中の抵抗感」と戦うこともあった。現在は普通にロザリオの祈りを唱えて、様々な信心の祈りにも関心があり、聖画像と聖像に対しては崇敬の念を深くして、自室の中では祭壇を整えている程度に、何の問題もなくなっている。

聖ベネディクトの木製ロザリオ

カトリシズムがプロテスタンティズムを包括し、それまでの信仰の限界に突破を与えてくれたことを神に感謝しても感謝し尽くすことはできないくらい喜びに溢れている。同時に何故、一見、聖画像と聖像への崇敬は聖書主義からすると対立するように思えるのに、今は何の違和感も存在しないのか、きちんと言語化すべきだと思った次第である。

七大天使像(東方正教会)

これまで伝道してきて、何らかのカトリック的な影響を受けていた方々と出会ったことも頻繁にあった。修道会が運営していた保育園とか、ミッション・スクールを卒業していたり、幼児洗礼を受けて洗礼名を持っている方々もおられた。堅信は受けておらず、ミサにも参加していないため、伝道対象だったからである。

カトリック聖母保育園 マリア像

聖画像と聖像に対する崇敬の前に、言うまでもなく、キリストの十字架の死を告げ知らせ、福音を伝えるわけだが、キリスト者の霊的成熟のために聖書通読、霊的読書、ロザリオの祈り、教会の祈り等を推奨している。何よりも、自分自身がそれらの恩恵がなければ倒れてしまう。

さて本題に入るが、プロテスタンティズムにおける聖画像と聖像への抵抗感は一体、どこから生じているのだろうか。この問題は紀元8-9世紀に渡る「聖画像破壊論争」に私たちを導くが、M.D.ノウルズは『キリスト教史 ⑶ 中世キリスト教史の成立』の中で、正しく「宗教的芸術に対する敵意の伝統」として、次のように書いている。

聖画像破壊のそもそもの根本要素の由来は、初期の教会の一部の人たちが、ユダヤ教から継承し、また像に対する旧約聖書の禁止令から引き出してきた、すべての形式の宗教芸術に対する敵意である。八世紀にはこの敵意が小アジアに広がった。その敵意はそこではおそらく人体の形を表明することに対する強力なイスラム的嫌悪の念によって煽り立てられたであろう。

M.D.ノウルズ著
キリスト教史 ⑶ 中世キリスト教の成立
平凡社ライブラリー

何よりも、像に対する旧約聖書の禁止令が引き出される。

"あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。"

出エジプト記  20章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

テオドロスによれば、この聖句を根拠にして「肖像を飾った建物は例外なく禁止されている」という。

この言葉はいったいどのような時に、また誰に向かって語られたのか。それは恵みの時以前に、律法の下で監視され、一つの神的位格による支配を教えられていた人々に対してである。それは、神がまだ肉体において示されていなかった時代のことであり、古代の人々は掟によって異邦人の偶像に対して保護されていた。したがって、掟は彼らの太祖アブラハムによって組織された選民のために制定されなければならなかったのであり、この人々は、聖書に記されているように、「誰一人見たことがなく、見ることのできない」唯一の神、万物の主があったがゆえに多神教の深淵を避けることができたのである。

ところで、神の場合にまったく禁じられていることも、そのほかの場合にはかならずしも禁じられてはいないという事実を取り急ぎ示そう。代弁者モーセに禁止令を与えた直後に、神は彼に次のように命じている。

"二つの金のケルビムを作る。槌で打って、『宥めの蓋』の両端に作る。
一つを一《いっ》方の端に、もう一つを他方の端に作る。『宥めの蓋』の一部として、ケルビムをその両端に作る。
ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『宥めの蓋』の方を向くようにする。
その『宥めの蓋』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしの板を納める。
わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。"
出エジプト記 25章18~22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

さらに「民数記」では、主はモーセに次のように言う。

"すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。"
民数記 21章8~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

このように、かつて神が咬まれた人々の癒しのために身を低くし蛇によって象徴されたのであれば、今われわれが、神が人となったとき以来神のものとなった身体的姿をかたどっている聖画像を掲げることは、どれほど神に嘉(よみ)されること、またふさわしいことであろうか。さらに、もしも動物の姿の象徴でさえ、それを一目見るだけで蛇に咬まれた人 々を癒したとしたら、キリスト自身の聖なる画像は、それを見る人々を聖別する以外にどんなことをなすというのであろうか。

中世思想原典集成 3
聖画像破壊論者への第一の駁論
平凡社

ところが、宗教改革者のジャン・カルヴァンは、第2回ニカイア公会議(787年、第七全地公会議)に対して「礼拝堂の中に像を置くことだけでなく、これを礼拝することまで命じた」として「像を用いることに固執する者たちは、このニカイア会議をたてにとって論じる」としている。

キリスト者としてあるまじき貪欲をもって、像を置くことを求めたものたちの狂乱が、どんなものであったかを示したい。

ジャン・カルヴァン著
『キリスト教綱要Ⅰ』
新教出版社

カルヴァンの聖画像と聖像に対する攻撃は苛烈を極めているが、ただの激情に駆られているのでなく、彼には彼なりの、西方教会の理屈が存在する。何故なら「キリスト教綱要」において、第2回ニカイア公会議に「カロリング文書」(Libri Carolini)という、同時代の批判書を対置させているからだ。

「カロリング文書」は、フランク王国カロリング朝時代に、教皇レオ三世から西ローマ帝国皇帝として帝冠されたカール大帝が召集したフランクフルト教会会議(794年)が第2回ニカイア公会議の聖画像に対する崇敬と、神に対する礼拝を区別した解釈を異端として排斥しているというものだ。

「カロリング文書」によれば、第2回ニカイア公会議に東方教会から派遣されたダマスコの聖ヨアンネス(675頃-749年頃)が聖句を引用して、創世記からは像の保有を断定した。

"神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。"

創世記 1章27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

雅歌からの引用では像を推奨するものになると考えた。

"岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」"

雅歌 2章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

他の司教は祭壇の上に像が立てられねばならないことを論証するために以下の聖句を引いた。

"また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。"

マタイの福音書 5章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

別の司教は、像を眺めることが私たちの益になることを詩篇から引用した。

"多くの者は言っています。「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と。主よどうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください。"

詩篇 4篇6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

「カロリング文書」は加えて、「キリスト者は異邦人の偶像の代わりに、聖人たちの像を用いなければならない」という主張を記録しており、その裏付けとして聖句を根拠としたと報告している。

"主よ私は愛します。あなたの住まいのある所あなたの栄光のとどまる所を。"

詩篇 26篇8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

カルヴァンは更に皮肉を込めて「最も見事な解釈」を紹介する。

"初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。"

ヨハネの手紙 第一 1章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神は単に言葉を聴くことによって知られるだけでなく、その像を見ることによっても知られるという解釈である。

ストゥディオスのテオドロスは「光と闇とに何のつながりがあるだろうか」「キリストとベリアルにどんな調和があるのだろうか」という聖句を引用しながら「原因」について書いている。「なぜなら、結果は原因の勢力下にあるからである」。

聖画像が異教の神々の偶像といったい何を共有しているのであろうか。仮にわれわれが偶像を礼拝しているのであれば、われわれはそのような結果よりも先にある原因にあたるものを崇敬し礼拝しているに違いない。ちょうどシドン人やモアブ人の憎むべき神アシュトレトとケモシュへの崇敬のように。

"王は、エルサレムの東、破壊の山の南にあった高き所を汚れたものとした。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌み嫌うべき神ミルコムのために築いたものであった。"
列王記 第二 23章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

またアポロン、ゼウス、クロノス、そして他のすべての異教徒の神々に向けられた崇敬のように。彼らは悪魔によって邪道へと導かれたので、不注意にもその礼拝を創造の神から神の創造の産物へと向け変えてしまったのである。それゆえ、多神教において皮肉にも唯一のものである深淵へと滑り落ち、「造り主の代わりに造られたものを拝んだ」と言われている。しかしわれわれには唯一の神があり、この方を三位一体において礼拝している。

中世思想原典集成 3
聖画像破壊論者への第一の駁論
平凡社

テオドロスは視覚と聴覚の知覚的な同等性に関しても述べている。

ところで、神の諸教会には、すべての人々の目にとまるように聖書が安置されているが、それはちょうど、聖書の言葉が耳に聞こえるように語られているのと同じである。視覚と聴覚のどちらも同等の知覚力を有しており、同程度に尊重されるべきである。しかしたぶん、視覚がより高尚な感覚であるということで、見られるもののほうが優先するかもしれない。

中世思想原典集成 3
聖画像破壊論者への第一の駁論
平凡社

しかし最後に、カルヴァンによって、テオドロスの聖句の引用は「才知」と言われてしまう。

"神よあなたは恐るべき方。あなたはご自分の聖なる所におられます。イスラエルの神こそ力と勢いを御民にお与えになる方です。ほむべきかな神。"

詩篇 68篇35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

またテオドロスは他の聖句も引用している。

"地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。"

詩篇 16篇3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

そういうわけで、テオドロスはこれら二つの聖句は「聖像に関するもの」だと語ったのだが、神学的な方向性は適切でも、聖句の引用に関しては不適切だったかもしれない。だが、その神学的な方向性こそ、テオドロスの評価すべき点ではなかったか。

あなたが卑しく屈辱的と呼ぶ事柄は、実際には神秘の偉大さのゆえに神聖であり、また高尚なものである。なぜなら、卑しい者が高ぶるときには彼は恥じ入るべきであるが、逆に高貴な者がへりくだるときには彼には栄光が帰されるのではないだろうか。

"なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」"
ルカの福音書 14章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

このように、自らの神性の極みにあり、また非物質的な言い尽くしがたさの内にあって栄光 を帰されているキリストにしてみれば、われわれに対する彼の謙遜さのゆえに、その体をもって質料的に描写されることは彼にとっては栄光なのである。万物を造られた方が物質、すなわち肉体をとられたのである。質料的に描写されることは物質の特性であるが、元来その特性を有しない方が自分が受け取ったものになること、またそのようなものと呼ばれることを拒まなかったのである。

中世思想原典集成 3
聖画像破壊論者への第一の駁論
平凡社

ところが、カルヴァンは、彼らの聖句の解釈があまりに「愚劣さ」に陥っているため、「わたしにとって不快でならない」とまで言い切る。

しかしながら、M.D.ノウルズによれば「聖画像破壊者の立場は最初は異教の偶像礼拝に対する恐怖」に負っていたと指摘した上で、コンスタンティヌス5世のキリスト論的理解により恐怖が強化されたと考える。

彼は真の像というものはその原型と同質である。そしてキリストの姿を描くことには異端的考えが含まれていると考えた。イコンはキリストの二つの本性を分離するかまたは混同することになるからである。

M.D.ノウルズ著
キリスト教史 ⑶ 中世キリスト教の成立
平凡社ライブラリー

常識的に考えると、何らかの像を描写する時、原型の本質を模写することは不可能であるように、聖画像と聖像に模倣され再現化された描写は、自分自身の中の理念であって、神の本質でないのは自明である。

第2回ニカイア公会議では、神に対して捧げるのは「礼拝」(λατρεια、ラトゥリア)としているが、聖画像への「崇敬」は(ποροσκυνησις、プロスキニシス)として使い分けている。

キリストの受肉の教義も、ダマスコスの聖ヨアンネスによって聖画像擁護の理論的根拠とされた。

彼にとってイコンは「沈黙の説教」「文盲用の書物」「神の奥義の記念物」であるばかりでなく、受肉によって可能となった、物質の聖化の可視的なしるしであった。目に見えぬもの、書き表せぬものが肉において目に見え、描き表せるものとなったのであるから、目に見える相におけるキリストの画像は真に神を表現するものなのである。

M.D.ノウルズ著
キリスト教史 ⑶ 中世キリスト教の成立
平凡社ライブラリー

少し考えてみたいのだが、キリストの受肉において見えない神が見えるようにされたのである。

聖画像、典礼イコンはおもにキリストを表します。目に見えず、把握できない神を画像で表すことはもともとできないのですが、神の御子の受肉が聖画像を用いるという新しい「道」を開きました。

カトリック教会のカテキズム 1159
カトリック中央協議会

故に、聖画像と聖像に対する崇敬は正当化されるという論点だが、そうならば何故、キリストは使徒トマスに対して次のように言われたのだろうか。

"イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」"

ヨハネの福音書 20章29節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

キリストの受肉と復活は聖画像と聖像の議論において結合しないのだろうか。即ち、カトリックの十字架はキリストによる永遠の贖罪を示す磔刑像だが、プロテスタントの十字架は復活のキリストが聖霊において内住していることを示している、──そのような十字架像の対立は回避できないのだろうか。

キリストの受肉と死においては、神が御子を通して御自身を明らかにしたことの啓示を明示するため、キリストを贖罪の記念として磔刑像にするのである。

キリストの復活においては逆に、聖霊が強調されるため、十字架に磔にされっぱなしのキリスト像は除去されてしまう。

われわれは模像物を十字架と呼ぶのであるが、なぜなら、それもまた十字架であるからにほかならないのであって、二つの十字架があるわけではない。同じく、われわれはキリストの肖像をキリストと呼ぶのであるが、それがまたキリストであるからであって、二人のキリストがいるわけではない。それらの本性によってではなく、双方が共有している名前によって一方を他方から区別するのは不可能である。

中世思想原典集成 3
聖画像破壊論者への第一の駁論
平凡社

聖画像と聖像の範囲は十字架像、福音書(当時は聖書に挿絵が描かれていた)、賛美歌なども含まれていた。ジャン・カルヴァンのジュネーブの教会において楽器が禁止され使われず、礼拝において声だけで賛美されていた事実は極端過ぎるのではないか、──そのような感覚を持つ方々は聖画像と聖像も導入しても良いと考えていると検証するのも面白いかもしれない。

聖大バシレイオスの『聖霊論』

しかし、どうなのか。一つと一つならば、二つの神ではないのか。それはつまり、王の肖像も王と呼ばれるが、王が二人にならないのは、それによって王としての権力が分裂しもしないし、栄光が半分になりもしないからである。同じく、私たちを支配する主権は父と子で一つ、権能も一つである。
だからまた、私たちが讃える栄唱も一であって、多ではない。似像の尊崇は原型にまで届くからである。それは、肖像の場合には模倣の関係としてある似姿が、御子の場合には本性の関係としてあるからである。似姿と原型とは、彫刻や絵画の技術では形が相似をなすように、神の非複合的な本性では、神性が共同による一致をなす。

聖大バシレイオス著
聖霊論
南窓社

現代においては芸術に限らず、アクセサリーだとか、ファッションに至るまで普及している。化粧をせず、ネックレスも指輪も付けず、ウィッグとか、カラーリングも不要な方々もいるだろう。他方、業界によっては、それらのすべてが不可欠になる方々も存在する。

そのような世俗的な時代に聖画像と聖像は明らかにキリストに対する信仰の補助となる。

キリスト教の聖画像は、聖書がことばによって伝えるよいおとずれを目に見えるものによって表します。画像とことばとは相互に説明し合うのです。

カトリック教会のカテキズム 1160
カトリック中央協議会

教会では、子どもたちに聖書を読み聞かせないだろうか。キリストや使徒たちなどの絵本を見せたり、芝居をさせることもあるではないか。それらに関して礼拝と崇敬の区別が付かない人々はいるだろうか。

事実、われわれは彼の生誕と顕現を記念しているし、彼が驢馬の子に乗ったことを表現するときには枝を取る。 また別のときには彼の復活のしるしとして口づけを交わす。また、神殿への登場と誘惑者による誘惑については述べていなかったが、この模倣として四〇日の節欲をしており、同様の意味をもつ他の習慣をも保っている。したがって、「これらすべてを私の記念として行いなさい」という言葉は、最も優れた神秘の下に暗黙のうちに今挙げたような他のことをも包括するような、御言葉による命令と考えられよう。同じことは、木版に身体的容貌をもって表された御言葉の描写の場合、また神聖な仕方で記された福音書の場合にも考えられないであろうか。彼が要約した言葉を書き記すよう誰かに告げたと言うような言葉はどこにもない。 それでも彼は使徒の書の中に描写され、今に至るまで保持されている。紙とインクでそこに記されたどんなものでも、それと同じものが絵の具や他の物質的媒介によって聖画像に表されている。偉大なバシレイオスが述べるように、物語る言葉によって提示されるのと同じものを、絵画は静かに模写によって示している。こうした理由から、われわれはただ触れたり見たりすることによって把握されるものだけを描くのではなく、精神的瞑想によって考えられるものをも描写するよう教えられたのである。

中世思想原典集成 3
聖画像破壊論者への第一の駁論
平凡社

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