聖体的礼拝
さて、カトリックのミサは「聖体的礼拝」 とも言われるが、 パンとぶどう酒は「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」という、主の言葉を直接的に字義通り解釈されることによって成立する。
しかしその結果は叙階された司祭による聖体の聖変化であるのは前述した。キリストの大祭司職は永遠であり死というものがないため「後継者」も「継承者」も不要なのである。
このように確かに私たちは祭司であるが、神に感謝と賛美を捧げる者としての祭司なのである。
キリストの唯一絶対の「なだめの犠牲」 に代わる犠牲はどのような形態でも──自己犠牲の究極である殉教だったとしても断じて許されていないし空しいだけである。
キリストの栄光の体
ユスティノスはミサにおけるパンとぶどう酒はそのまま「イエスの肉と血」 であると書いているが、歴史的にナザレで生まれ、福音書に記された「キリストの肉体」という意味ではない。聖餐式における「キリストの肉体」との神秘的結合と同化はキリストの死に渡された体であり、初穂としての聖霊による体なのだ。
引用文を一読するならば「聖晩餐はしたがって、キリストの御霊......にあずかることではない」と書かれているし、ドイツの改革派神学者ニーゼルによれば、カルヴァンが天におけるキリストの栄光の体を語ることを避けていると述べる。
ならば、主の晩餐において、キリストの栄光の体も聖霊も無意味なのだろうか、そんなことでは絶対ない。私たちは注意深く行間の意味を読み取らなければならない。
既述したように、神は分裂を包括する御方であり、キリストの十字架に信仰を集中させる時、逆説的にキリストの復活に信仰を着地させるのと同様に、キリストの栄光の体に変化させられる私たちを隠された前提にさせている。
そしてキリストの死に渡された血と体が「聖霊によって捧げられたもの」という点も隠しつつ明らかにしている。
キリストの栄光に私たちが結ばれることに関して、聖書は「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ書1:3)と前置きしてから、以下のように語っている。
キリストと共なる昇天は神の子としての私たちの霊的立場であり、天国の実現において、天使たちと世界をさえ裁く権威を行使することになる。
だから、キリストの十字架の体は聖霊によって捧げられたものであり、聖餐式では十字架と聖霊は切り離せないものとして描写されている。
聖霊を求める祈り
「御霊によって」は「δια πνευματος」 (ディア・プネブマトス)が使われており「霊を通して」が直訳である。「πνευμα」の単数形なので「神の霊」「聖霊」であることは明白だ。
キリストの十字架の肉体は聖霊を通して与えられたことが理解できたが、聖餐式においてキリストの栄光の体との一致と、聖霊を求める祈りは、キリストの十字架の体を通して円環的な双方向通行の輪が形成され、その時に初めて御子の犠牲のありとあらゆる益を聖霊と信仰によって受け取ることができる。
しかも自分自身の弱くあてにならない信仰でなく、キリストの信仰が私たちの信仰を包括して、徹底的に砕き、新しく変容させることで私たちは神の恵みを受け取っていく。
その場合、 私たちは地上におけるキリストとの交わりを実現しながら、天国の祝宴に導かれている。
聖餐式はその都度、キリストの十字架をパンとぶどう酒によって私たちが記念して祝うこと、 偽りのない愛をもって思い起こすことなのである。
ラニエロ・カンタラメッサ司祭は『ミサと聖体』の中で以下のように書いている。
カンタラメッサ司祭はカトリックと正教会の歴史的和解を先取りしている。一致の呼びかけは「聖体的秘儀のまさに中心から湧き出ます」(同書231頁)と強調し、カトリックの「聖体制定の記念」(聖変化の言葉を唱えること)と「聖霊への祈願」 (エピクレシス)は別々の時でありながら同時的と表現している。
神の言葉と聖霊による聖変化
主の晩餐におけるパンとぶどう酒の効果が──司祭と教会によってでなく、主の制定の言葉と聖霊によって与えられるという考えに私たちは同意する。
そもそも通常のパンとぶどう酒が聖餐と異なるのは、主の言葉と聖霊による聖変化の有無なのだから。
しかしながら聖変化でさえ「主の制定の言葉と聖霊によって」為されると私たちは考えているので、あくまでも適当な保留付きの同意となる。
説教による聖餐式の意義の略奪
かつてプロテスタントは聖体を偶像礼拝だと誤って批判したが、批判のしすぎで聖餐式を僅かにしか執行しなくなってしまった。現在、毎週の聖餐式の執行程度があまりに少なくて驚かれる始末である。
聖餐式の執行回数に関しては主が再び来られる日まで守るようにと定められている、 そのような厳密な規定は一見なさそうに思える。
誤解を恐れずに言えば聖餐の軽視、弱体化の神学的な理由は不明と思われる時もあるのだが、赤木善光氏は『聖餐論』の中で「説教と聖礼典の固有の意義が曖昧にされて、説教が聖礼典の独自の意味を奪ってしまった」(同書50頁参照)と指摘している。
『キリスト教綱要』でも創造の神、 贖罪の神の論述において敬虔的信仰、即ち、神に対する信仰と服従が核なのだが、敬虔的信仰の客観的享受はキリストの言葉による聖餐なのである。
毎週の聖餐式執行という回数が問題ではなく、感謝の礼拝の中央に聖餐を位置付けさせなければならない。
説教と聖礼典が礼拝の中心なわけで、聖礼典の執行の代わりに献金袋を回すというチャリティーではない。
感謝の礼拝を聖礼典の執行とせず、別の何かで誤魔化すあらゆる偽りを犯している誰かが、カトリックのミサを攻撃する資格はないと断言したい。
ミサの中心は聖体の秘跡とその周辺であることを「聖体的礼拝」とカンタラメッサ司祭は言う。一切は──目的変化と意味変化も信仰も神の言葉も聖霊とエピクレシスも──「聖体的礼拝」に向かうように強調されていくと。
他方、プロテスタントの説教と聖礼典による礼拝は相互に円環を結ぶような方向性を保つことが不可欠である。
そのような礼拝の基礎として、キリストの十字架を核とした信仰が復活信仰に包括されなければならない。
キリストの十字架の根拠としての復活
キリストの十字架と復活を分裂させる私たちの誤謬を包括する、即ち、十字架のキリストと復活のキリストに何ら断絶は存在しない。
キリストの十字架と復活を一層、明瞭にさせようとしたいならば、ドイツの神学者ヴァルター・キュネットの 『復活の神学』における次の言葉が道標となる。「イエスの死は、復活者の証言に基づいて初めて本質的に神学的問題となる。十字架の救済の性格を神学的に問う可能性は、復活なしには全く与えられず、むしろ生きておられるキリストから出てくるのである」「たしかに十字架はイエスの復活のための前提条件ではあるが、十字架の意味の根拠は復活である」 (同書170頁)。
この聖句を司祭制度の根拠にする傾向もあるが、 律法下の祭司には神の誓いがないこと、又、死すべき人間であるため大勢の者が祭司にならざるを得ないことをヘブル書はキリストと比較して断言している。
例えば、キリストの十字架の唯一の犠牲を絶対的に信じることは、カトリックもプロテスタントも同じである。
そうであるならば、キリストの受肉も唯一絶対で反復されることはあり得ない。
しかしカンタラメッサ司祭は『司祭職—信者にとって、聖職者にとって』(サンパウロ)の中で「マリアの身に生じた歴史的な事実は一度限りのものでした。しかし、司祭はそれを毎回、 秘跡的な現実において新たにしていく」(同書147-148頁)と書いている。
キリストの司祭としての普遍的召命
「繰り返すことでなく祝うことによって」とミサに関して説明しているが、やはり 「繰り返すこと」は重要視されている。
このことは犠牲に関する教えに導き、 アリストテレス哲学とトマス神学による実体変化説の再確認へと私たちの考察を向かわせるが、ここでは詳しく検討することは控えよう。いずれにせよ、キリストの司祭としての私たちが全員、神から召命を受けていることに満足しなければならない。同時に、キリストの司祭という職務が、神の教会に与えられていることにも抵抗してはならない。
キリストの犠牲で十分だから祭司制度は不要となり、賛美と感謝に溢れた説教と聖礼典を執行する説教者たちが福音を語ることになるのか。
それともキリストの犠牲で十分だからこそ、古い契約の司祭たちの聖職者中心主義が〈聖体=キリストの体〉の犠牲に画一的に反復的に参加する律法なのか。
主の晩餐において福音か律法かを選ぶよう、私たちは分岐点に立っているのかもしれない。