主は私の羊飼い
真夜中の起床である。
自分の体に難病と分娩時神経損傷、加えて糖尿病や緑内障などがあると、どの原因で不眠が生じるのか自己判断できない。
不眠に限らず、「病因不明」という点がとても辛いのである。
難病も認定まで長い道のりで苦しんだ。
他の病気もそうだが、何が辛くて、どこが痛いのかを言語化できないと、不可欠な医療と福祉を受けることができないのである。
だからリラは重なる誤診と病院のたらい回しに悩まされた過去があった。
そのような過去は現在に至るまで、二次障害というか、余計に症状を悪化させるものなのである。
だからこそ、キリストから離れて生き残る術はない。
神との交わりとして、ロザリオの祈りは欠かせない。
ロザリオの祈りは「使徒信条」「聖書黙想」「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「栄唱」などで構成されており、福音に基づいた祈りなのである。
上記を否定する方々はいないと思うが、アヴェ・マリアの祈りに関して拒絶反応がある方々は、「神様、罪人の私を憐んでください」などの、別の聖句で祈っても良いのである。
あるいは、詩篇23篇はどうだろうか?
聖書には「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)と命令されている。
長年、自由祈祷の限りを尽くしてリラは祈れなくなった時期に苦しんだことがある。
自由祈祷はすばらしいが、伝統的に多くの方々が祈ってきた言葉を用いた時、リラは伝統的な祈りと自由祈祷を組み合わせながら、聖霊によって改めて祈れるようになった
病因不明の不調を突破するために、キリストを信じて礼拝を捧げれば捧げる程、信仰者の霊性を保つだけでなく、掘り下げて探究していきたいと願う者になっていくものである。
その際、「教会堂・聖堂には行けないから、YouTubeなどのSNSを視聴しているのだが恵まれない」という意見を散見する。
しかしながら、神に対する礼拝は「いつでもどこでも」が基本原則である。
故に、一緒に集まろうが、アーカイブの視聴であろうが、ライブ配信への参加であろうが、神の御心に任せて感謝すれば良いと思う。
礼拝の場所に執着していたサマリア人の女性に対して、主は次のように答えている。
この「しかし」が今の時代、とても大切なのではないか?
私は病気である、神経障害で日常生活に難がある、難病でいつ死ぬかわからないし症状は耐え難い、糖尿病における血糖値を下げるための努力に疲れた、経済的困窮はもう嫌だ、緑内障による視力低下は恐怖でしかない──云々と、愚痴を吐きださねばやってられない。
そのような「やってられない自分自身とその生き方」を、主は使徒パウロを通じて「捧げよ」と語る。
ありのままのボロ雑巾の私が、キリストを信じて洗礼を受けた後、主の体と血にあずかる(希・κοινωνια、コイノニア、「受ける」「交わる」の意)ならば、神の言葉と聖霊によって、キリストと神秘的に一致して「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」となる。
時と場所に縛られず、同時に、時と場所を大切にすることも認めながら、キリストの十字架を仰ぎ、見上げて歩んでいこうではないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?