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主は私の羊飼い

真夜中の起床である。

自分の体に難病と分娩時神経損傷、加えて糖尿病や緑内障などがあると、どの原因で不眠が生じるのか自己判断できない。

不眠に限らず、「病因不明」という点がとても辛いのである。

難病も認定まで長い道のりで苦しんだ。

他の病気もそうだが、何が辛くて、どこが痛いのかを言語化できないと、不可欠な医療と福祉を受けることができないのである。

だからリラは重なる誤診と病院のたらい回しに悩まされた過去があった。

そのような過去は現在に至るまで、二次障害というか、余計に症状を悪化させるものなのである。

だからこそ、キリストから離れて生き残る術はない。

"それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。
すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」"
ヨハネの福音書 6章67~69節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神との交わりとして、ロザリオの祈りは欠かせない。

ロザリオの祈りは「使徒信条」「聖書黙想」「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「栄唱」などで構成されており、福音に基づいた祈りなのである。

上記を否定する方々はいないと思うが、アヴェ・マリアの祈りに関して拒絶反応がある方々は、「神様、罪人の私を憐んでください」などの、別の聖句で祈っても良いのである。

"一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』"
ルカの福音書 18章13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

あるいは、詩篇23篇はどうだろうか?

"主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。"
詩篇 23篇1~4節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

聖書には「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ書5章17節)と命令されている。

長年、自由祈祷の限りを尽くしてリラは祈れなくなった時期に苦しんだことがある。

自由祈祷はすばらしいが、伝統的に多くの方々が祈ってきた言葉を用いた時、リラは伝統的な祈りと自由祈祷を組み合わせながら、聖霊によって改めて祈れるようになった

"同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。"
ローマ人への手紙 8章26節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

病因不明の不調を突破するために、キリストを信じて礼拝を捧げれば捧げる程、信仰者の霊性を保つだけでなく、掘り下げて探究していきたいと願う者になっていくものである。

その際、「教会堂・聖堂には行けないから、YouTubeなどのSNSを視聴しているのだが恵まれない」という意見を散見する。

しかしながら、神に対する礼拝は「いつでもどこでも」が基本原則である。

故に、一緒に集まろうが、アーカイブの視聴であろうが、ライブ配信への参加であろうが、神の御心に任せて感謝すれば良いと思う。

"わたしは近くにいれば、神なのか。──主のことば──遠くにいれば、神ではないのか。"
エレミヤ書 23章23節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

礼拝の場所に執着していたサマリア人の女性に対して、主は次のように答えている。

"しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」"
ヨハネの福音書 4章23~24節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

この「しかし」が今の時代、とても大切なのではないか?

私は病気である、神経障害で日常生活に難がある、難病でいつ死ぬかわからないし症状は耐え難い、糖尿病における血糖値を下げるための努力に疲れた、経済的困窮はもう嫌だ、緑内障による視力低下は恐怖でしかない──云々と、愚痴を吐きださねばやってられない。

そのような「やってられない自分自身とその生き方」を、主は使徒パウロを通じて「捧げよ」と語る。

"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。"
ローマ人への手紙 12章1節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ありのままのボロ雑巾の私が、キリストを信じて洗礼を受けた後、主の体と血にあずかる(希・κοινωνια、コイノニア、「受ける」「交わる」の意)ならば、神の言葉と聖霊によって、キリストと神秘的に一致して「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物」となる。

時と場所に縛られず、同時に、時と場所を大切にすることも認めながら、キリストの十字架を仰ぎ、見上げて歩んでいこうではないか。

"あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。"
ローマ人への手紙 14章22節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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