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真っ二つになったとんすいへ

居酒屋の厨房は濡れている。だからいつでもSingin' In the Rainである。
愛、真。義、淫、戯れ。
愛、真。義、淫、戯れ。

単純作業は走馬灯を呼ぶ。という故事成語を習ったのは小学校5年生の時だった。
秦の始皇帝の時代、家来の皿洗い担当がその仕事中に、大きな牙を5本持って、金の蹄を鳴らしながら、長江を行く船よりも速く駆けていく馬に跨って、小麦の草原を往来する幻影を見た。そこで、君はこう言いなさったのだ。「単調なる黙々たる作業、これ、走馬灯を呼ぶなり」。

私も馬に跨っていた。物凄い勢いで食洗機は回るし、これは茶碗、これはお椀、平皿、大皿、椀の蓋、立髪が靡いて獣の香りがして、これは歯車、これはオレンジ、これは鯉、これは毒、馬の首筋に私は、縋る。縋る、と書いて、蜜蜂と読む。

あなた、トトロって言うのネッ!
あっ、ごめんなさい。私はトトロじゃないし、思ってもなかったんですよ。遠足に持ってきた水筒の中身が、ゼラチンで固めた白湯だなんて。

私はBB弾をしこたま詰め込んだエアガンを持って近所のどんぐり公園に身を潜めていたし、アヒルのアラームはロマンスのコレオグラファーだったんですよね。

ねり消しで消したあとの文字みたいに身体の痛みは広がったし、東海道線の終電で知らない男のプレミアムモルツを浴びたし、「夜すがらの熱のこもった口腔の熱さを舌でまさぐって」、私のママは言ったわDon't worry about your size 、このスプライトで今食ったハンバーガーを胃に流し込んでも?

馬は駆け、相模線の踏切で警報音を無視して、バーが降り切る直前に突っ切った。この馬では、相模線の鈍行に耐えられない。そういえば、今私は免許不携帯だけれど大丈夫だろうか?物凄い速さで家から遠ざかっていくけれど……

そうして段々と思い出す。
あの日。
自分がリハウスしたのがいつだったか(ママもあなたくらいの頃にリハウスしたのよ)、思い出せなかったあの日。
人生で初めて春風が吹いた。

「気にしなくていいから、そこの茶色い袋に入れてね」

私は厨房にいた。居酒屋の厨房は濡れている。だからいつでもSingin' In the Rainである。
そして足元には、真っ二つに割れたとんすいが転がっていた。

ものが真っ二つに割れるということはそうそうない。
だから我々はよく喧嘩した。
そのため父はよくこう言った。

一方が厳密に半分こする。もう片方がどちらを取るか決める。こうすれば、故意な不公平は生まれない。

「大変失礼いたしました〜!」

真っ二つになったとんすいは、真っ二つになる瞬間のその直前まで、どれほどの重力を感じていたんだろう。
トム・クルーズが10Gに耐えていた時、このとんすいは戸棚にいて、しかし今日、己がGに引き寄せられて、地球の真ん中を目がけて、あの子のハートを射止めて。

馬の姿は消え、私は投げ出され、あーこれ膝に血溜まってますけど今抜きます?注射、嫌いです。あ、そう(笑)。

真っ二つになったとんすいへ!
あなたに捧げるレクイエムを、今全速力で作詞作曲しているんです!
だからどうか、私が免許を忘れて、警報音も無視して、そうして真っ二つにした全てのものを、どうか許してね。

With Love,
寄せ鍋

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