人生とは-体験学習とはいえ-

まさか?いえいえ、やはりです

裁判の傍聴では、私たちを指導していた天仕(てんじ)が何をどう証言するのか興味を持ったが、天声に従って行動してきただけという感覚で、まだまだ気づいていないかに見えた。
そして、法の華の教義は天声でも何でもなく、ある方が「自分が教えたもので他所でも教え広めているものだ」と証言。
これには少々驚いたが、「へぇ、やっぱりね・・・」と納得もし、「よくこんな貴重な証人を見つけてきたなぁ」と捜査本部の本気度を感じ取ることができた。

確かに宗教ではないと否定しつつも、静岡では宗教法人の認証を受けていたのだから当時だって調べればわかったはずだが、それを問題視する人はいなかったし、教義そのものは基本的に頭がついているか否かで、観(おも)いの度合いを重視していたので脳裏にちらつくことはあっても素通りしてしまう。

(以下は2006年10月当時、元行者さんの心の整理のため、わかる範囲で説明させてもらった文章です。参考のため転載)

ー前略ー
さて、本題に戻しまして、
同じ修行を受けていてもその時代時代によってずいぶん違うものだなと正直思いました。
私の時には、「人間法源」「釈迦・キリストをやれ」という垂れ幕はなかったと記憶しています。
多分、M子さんは平成6年ぐらいでしたよね。

平成6年というのは、その前年にスリランカから仏舎利をいただいて、100日間天行力を当てたところ100倍に増えたとされ、100日後の3月21日に天行力仏舎利が誕生し(のちにレプリカだとマスコミ等が暴露)、法の華にとっても大きな転換点となった年です。
5月には、仏舎利祭が行われ、その際にキリストの御聖体なども披露され、仏舎利殿に安置されました。とはいえ、なんだかわけの分からないものでしたが・・・アハ、未だにわけ分からない。

まあ、そういう背景があっての「人間法源」「釈迦・キリストをやれ」という垂れ幕だったのでしょうね。

>「釈迦・キリストをやれ」
>冷静に考えて見れば、随分傲慢な自分だったと思うが、お      釈迦様、キリスト様に、心のどこかで
>惹かれるものもあり、「人類救済」という掛け声に飲み込      まれてしまったように思う。

これは、傲慢とかそういうのではなく、その言葉だけを観たら、それは全くその通りだと思うのですね。*^-^*
アタマが取れていない人間は、釈迦やキリストになんか成れっこ無いと思い込んでいますから、「やれ」といわれても「はい」とは言えない。また素直に「成ります」ということ自体、思い上がりだと尤もらしく否定し、批判するひとが出てきますから、自信を持って言えない。
だから、そういう言葉(天声)に従って旗振り役をしてしまった自分を傲慢だったと思ってしまう・・・
M子さんが、仰っていることは、そういうことだと思います。

「釈迦・キリストをやれ」ということは、釈迦=仏教、キリスト=キリスト教ではありませんから、仏教やキリスト教をやれではなく、あくまでも釈迦・キリストなのです。
そこを勘違いすると、言わんとしていることが伝わらず、大きくそれてしまいますね。
そして、せっかくいいこと言っているのに、福永氏や本部の方針にそって事を成そうとするときに、歪められてしまっているんです・・・

何故、そういうことが起きてしまったのか?
それは、端的に言えば、福永氏自身がイリュージョンの世界、いわば魔界に住しているからです。自分が錯覚し、幻想・迷妄の世界にいることすらも忘れているわけですし、最後の救済者だと思い込んで、多くの行者を巻き込んで更に更にイリュージョンの世界を作り上げ、ご自身を神格化させていったのですから、まさに法源劇場。人類救済ごっこだったのですね。
私たちも、勿論錯覚の中で踊らされ、自らも最高最高と言って喜んで踊っていたわけですね。(笑)
つまり、私たち行者もそうやってまんまと罠にはまり、神格化して祀り上げていったわけです。
まさに、仏魔の世界でした。

 ここで留意していただかなければならないのは、あくまでも事実を言っています。
善い悪いを論じ、批判や否定をしているのではありません。

「やれ」というのは、やったら成る世界ですから、成ったら良かったわけですね。*^-^*
だけど、そんなこと誰も真剣に思っていませんから、成るわけがないのです。これが、アタマが取れていないことをも実証していたということです。

 但し、「天声」とされているものの出所は一切分かりませんよね。福永氏の著書のほとんどは、ゴーストライターが書いたものとされていますし、天声聖書もゴーストライターが、仏典・経典等々あちこちから持ってきて編集したものと証言していますから、果たして真に天声として福永氏が直接的に天の声を聴いていたのかどうかも分かりません。
 更に言えば、天仕(職員)の提案などが、天伺いして許可が出るとそれも「天声」となって行者らに伝えられたのですからね。*^-^*

惜しいよねえ・・・
紙一重は、どこにでも、いくらでも、ゴロゴロしているなあと、最近つくづく思います。*^-^*

>自分が果たして救済されていたかどうか、自分のことが見      られなくなっていたように思う。
>「自分を見るな」「自分は無いんだよ」「考えるのは頭        だ」等々の言葉によって、
>又、誰にも相談できなかった当時の状況が、よりそうさせ      ていた。
>まるで、ロボットのような自分が見える。
>「自分を救えずして、人類救済なんかできるわけもない」      のに、「自分」が見えていなかった。

そうです。全くその通りなんですね。
全てが、否定から始まっているのです・・・
観ると分かってしまうから観るななんですね。
有るから無いんだというわけです。(だって、アタマ取れていないんだもん(笑))
そして、アタマだけでなく頭(脳の仕組み)を否定してしまったのですから、成れるわけがないのです。そのことにも気づいていないんですね。

だから、ロボットが出来上がっていったのです。徳積みという甘い餌を食べて生きる天行ロボット。勧誘ロボットにです。(あ、別に皮肉でも何でもありませんよ。そのままです(笑))

でも、その学びのお陰で、私たちはロボットも卒業できたわけですね。そして今があります。
「お陰さまで」と「ありがとう」の世界で、息を吹き返したのですね。*^-^*
そして、少しずつでも「自分とは?」が、見えてきているのです。

オオー、♪♪♪ d(⌒O⌒)b♪♪♪サンキュー  ですね♪(^O^)v

                                                        ーーーーつづくーーーー

私を生かし活かしてくださりありがとうございます。
感謝、感謝申し上げます。

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