人生とは-姉との思い出-

長姉との思い出は思い出せるだけでも大変多く、それだけ縁が深かったということと理解している。
先ず思い出すことは5、6才の頃だったと思うが当時三人娘と呼ばれていた(美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみ)のコンサートに連れて行ってくれたこと。この頃はまだ家も裕福?だっようで姉は私立学園の学友と誘い合って歌を聴きに行くというよりも「ひばりちゃんに会いに行く」「会いたい」という感覚だったと思う。普通なら学友だけで楽しみたかっただろうに、私の面倒を見なければ親から許可が出なかったのだと思う。いうなれば姉は私のお守り役。
私はいつも「お姉ちゃん、お姉ちゃん」となついていたので手はかからい妹だったようだ。

次に思い出すのは、私が小学二年生の時。姉が熱を出し苦しんでいて何とかしてあげたくて、布団から右手を出し、腫れている部位を冷やしてあげたこと。あとで知ったことだが病名は「肺門リンパ腺炎」。
それが遠因なのかどうかは分からないが、体調を崩すことが多かったようで通院から入、退院の繰り返し。
この頃は関節リウマチと診断されていて。手術を何度か受けたがその度に関節が動かなくなり、苦痛度も増していく。
主治医が替わると『あなたはあなたが生きているのではなく、薬が(で)生きているのです。この状態はよくありません。少しでも薬を減らすようにしましょう。』と。姉はショックを受けていたが、治療法も分からない時代だから医師に従うしかない。薬は匙加減で良くも悪くもなる。しかし、ステロイドの副作用は大変なもの。

  また、神経痛、リウマチには温泉病院が良いということで栃木県島原温泉病院や遠くは島根県にある玉造病院等々に転院させられていたこともあったが、島根はあまりに遠すぎて見舞いにも行けない。理由は分からないが退院することになって、誰が迎えに行くのか父に訊くと交通費が高くて行けないから、ひとりで帰ってくるよう伝えてあるという。
私は驚いて「それじゃ、お姉ちゃんがかわいうだよ。荷物だってあるし、あんなに遠いところからひとりじゃ無理よ。何とか迎えに行ってあげてよー。」と涙が出た。
確かに姉は片道運賃だけたが、迎えに行く方は往復だからひとりよりも三倍かかる。それを思うと父も行ってやりたくても行けないほど厳しかったのだろう。
そこで閃いたのが学割運賃。
「父さん、私に行かせて。私はまだ高校生だから学割が効くし安く行けるから私が行く。その方が父さんも安心でしょ。お姉ちゃんだって少しは安心して退院できるよね。お願い。」と。
そして、ひとり出雲へ向かう。京都から山陰本線へ。しかも夜行列車でガタゴトガタゴト一人旅。それでも病院で姉と会えた時には思わずにっこりで緊張感からも解放された。

その内、埼玉や神奈川など都内近県で2-3時間もあれば見舞いに行けるような所に入院できるようになった
それでも薬を取り違えたり、麻酔薬の分量を間違えたとかで心臓が止まるということが何度か起きた。姉は益々動けなくなっていく。

こんなことでは気持ちが塞がるばかり。私はなんとか喜んでもらえることはないかと考える。
そして病院の裏門から外へ出てを散歩をしようと閃く。看護婦さんに相談し、姉を車椅子に乗せてもらい、いざ出発。裏門に続く道は人もおらず、とても静か。
そして、ゆっくりゆっくり車椅子を押していく。「空がきれいだねぇ」「病室と違って外の空気は美味しいね」等とおしゃべりしながら進んでいくと、庭にテーブルが置いてあってラーメンを食べさせてくれるお店があった。
「お姉ちゃん、ラーメン食べようか?外で食べられるなんて奇跡に近いよね」 (⌒∇⌒)
ラーメン屋さんも食べやすいよう協力してくれた。量は食べられなくても爽やかな雰囲気に姉の緊張も解きほぐされたようで目も輝き、生気を取り戻していくのが感じられた。
そして、帰りはスーパーに立ち寄り、買い物をして正面玄関から病室へと戻った。

また長期入院が規則でできなくなると転院しなければならなくなる。しかも病院から病院は駄目で一度退院の形をとることを要求される。両親はとても面倒を見切れないという。
そして一週間、我が家で過ごそうよと準備を進める。家庭的な雰囲気の中で姉はどれほど救われただろうか・・・

そして、いよいよの時。
私と夫は車を拾って急ぎ病院へ向かう。途中でタクシーの上についているライトが音を立ててガラガラと私の真横にぶら下がってきた。不吉な予感が走り「お姉ちゃん…大丈夫かしら???」と夫と顔を見合わせる。
運転手さんは急停車し、ぶら下がったマークを取り外し「すみません」と。

  病室に着くと姉は弱弱しく「うーん、うーん」とかすかに呼吸をし私たちを確認した。
「お姉ちゃん、遅くなってごめんね。○○ちゃんも一緒だからね。・・・」
「忙しいのに・・・」と姉は夫に礼をいう。

父も先に着いていて何やら医師の説明を受けてきたようで
姉の様子を見ながら「父さんはやることがあるのでひと足先に家に帰るから、あとはしっかり見守ってくれ。」。
そして、姉に「がんばれよ。」と言葉少なに病室を後にした。
 
そして、主治医に呼ばれ診察室に行くと「ご姉妹して同じ症状でお気の毒ですね。」と私にそう言うと、私の分も薬を出してくれた。

病室に戻るとしばらくして主治医が様子を見に来てくれた。
医師は姉に話しかけたり様子を見ていたが、看護婦さんに何か指示を出し注射器を一本持って来させた。
そして、じっと姉を見ていたが点滴液の中へ少し注入し、姉の反応をみている。私も夫も黙って見守る。
医師は何を思ったか、注射器に残していた薬液を全部点滴液に注入した。そして、私に「よく見ててくださいね」と言う。私は何も考えず「はい、この点滴液がポタ、ポタって落ちていればいいんですよね。分かりました。」と答えたが、先生はぎょっとした顔で病室を出て行った。私は「?」と思ったが点滴を見ていた。そして、わずか数分後に点滴は止まった。

私は慌てて「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と姉に呼び掛けるが反応しない。大変だとばかりに看護婦さんに伝えると医師が戻ってきた。
「あっ、先生!姉が大変です!何とかしてください!」「お姉ちゃん、しっかりして!」
医師は何も言わず、看護婦さんに指示を出すと、また注射器が一本持って来られた。それを手に取り、姉を見ながら心臓にブスッと突き刺した。すると、注射器に姉の真っ赤な血液が逆流した。それを見た瞬間「あぁ、先生もういいです!姉をこれ以上苦しめないで、身体にある管という管、全部抜いて解放してあげてください。頭の重りも取ってあげてください」先生はほっとしたようですぐに抜いてくれた。
「お姉ちゃん、ごめんね。辛かったでしょ。苦しかったよね。」私はごめんねしか言えなかった。

そして、看護婦さんが身を整えてくれ、地下にある霊安室へと運ばれた。そして、翌朝まで姉と私たち夫婦の三人で過ごした。
翌朝には、裏口に寝台車が迎えに来て、看護婦さんたちに見送られながら、私は姉の隣に、夫は助手席に座り病院を後にする。

そして、要所要所で「お姉ちゃん、今病院を出て家へ帰るのよ。」「今、川越街道に入ったよ。」等々、姉が迷子にならないよう話しかけた。姉はまるで生きているかのように血色もよく、胸のあたりを見ると呼吸をしているかのようだった。「お姉ちゃん、もうすぐ家に着くからね。長い事、お疲れさまでした。」
私を守り育て、学ばせてくれ、いつも可愛がってくれてありがとうございました。
                                                               ---つづくーーー


私を生かし、活かしてくださりありがとうございます。
感謝、感謝です。(ー人ー)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?