京都・街の湧水4

⑫出町青龍妙音弁財天の龍水

三角州の右岸に

 賀茂川と高野川が合流する三角州のそば。出町柳で河原町通りから下鴨神社に行く鴨川・出町橋西詰めにある。賀茂川と高野川の合流点のやや上流の右岸沿いだ。五山送り火の夜、大文字が良く見える場所のごく近くにある小さな神社。手水場の小さな龍の口から湧水が出ている。

妙音弁財天の手水場
龍の口から地下水が出ている
妙音弁財天のいわれ書き

 京都の寺院には龍があちこちにいる。大寺の法堂(はっとう)天井画はどこも生き生きと龍が描かれている。また京都で龍は賀茂川の象徴。手水場に水はだいたい龍がいる。

地下30㍍から

 手水場の水は地下約30㍍からポンプアップ。「保健所の水質検査は受けているが、生水を飲んで下痢など異常があっても保証しません」としているが、下鴨神社や出町柳の商店街を訪れるたびに立ち寄り、備え付けのひしゃくで何度も飲んでいて、これまで何の異常もなかった。

出町弁財天の入り口にある石柱

大光明寺の飛び地

 正式名称は「青龍妙音弁財天」。相国寺の塔頭・大光明寺の飛地境内だという。京都市上京区青竜町266の3にある。京都七福神の一つ。通称、出町妙音堂とか「妙音堂」、「妙音弁財天」、「伏見御所の弁財天」といわれている。

妙音弁財天の本堂

 寺伝によると、本尊は青龍妙音弁財天画像。空海が描いたともいわれる。鎌倉時代の1306(嘉元4)年、西園寺寧子(やすこ)が、後伏見天皇上皇の後宮に入った際に持参した念持仏とされている。寧子は北朝初代の光厳天皇の生母。南北朝時代には光厳天皇ら北朝代々の天皇らに崇敬され、伏見離宮内に祀られてきた。江戸時代の徳川第8代将軍吉宗が治世の享保年間とか、その後の第11代将軍・家斉の治世、町人文化が開花したとされる文化年間に伏見邸の出町北鴨口への移転に伴い遷座した。
 社伝によると伏見家19代の時、社殿が再建された。明治政府が東京に遷都後、宮家も東京に移住し妙音堂は一時、東京に遷座した。1901(明治34)年、地元信徒が懇願して、旧地に近い現在地に移されたという。

⑬醒ヶ井

名水・左女牛井の水脈

 醒ヶ井(さめがい)は京都市下京区柏町17-19にある和菓子の老舗「亀屋良長本店」敷地内のわき、堀川通りと並行する醒ヶ井通りにある。球形の手水鉢に竹筒から勢いよく水が出ている。京都で名水といわれる水と同じく、やわらかで口あたりが良い。かつて源氏の館にあったと井戸とされ、京の三名水といわれた左女牛井(さめがい)と同じ水脈という。

亀屋良長本店わきの醒ヶ井

 同社のホームページによると江戸時代の1803(享和3)年、「亀屋良安」で番頭だった初代の文平が良質の水を求めて、左女牛井と同じ水脈のこの地に店舗を構えて創業した。6代目が1964(昭和39)年に店舗ビルを建設。7代目が1991(平成3)年に現在のビルに建て替えたという。
 醒ヶ井の井戸そのものは初代の時代から店舗の敷地内にあったとみられ、6代目か7代目のビル建設の際に地下80㍍までボーリングして現在の井戸になったとみられる。一年中、水が出ていてだれでも無料とあって連日、ペットボトルで水をくみに来る人後をたたない。
 「亀屋良長」のすべての和菓子は醒ヶ井の水を使って作っているという。それだけ安心して飲める水だ。創業から作られている「鳥羽玉」は黒砂糖とこし餡(あん)を練り固め寒天でくるんだあんこ玉。しつこくない甘さでさっぱり味が売り物の銘菓。亀屋良長店舗の喫茶店で鳥羽玉を食べながら醒ヶ井の水を飲むのも京都観光の1つだ。

堀川通り沿い西本願寺と東急ホテルの間にある植え込み内の左女牛井跡

 かつての左女牛井はいつしか水枯れとなり、第二次大戦終戦の1945(昭和20)年,堀川通りの拡幅工事で消滅した。地元の醒泉小学校百周年記念事業で1969(昭和44)年に井戸跡に記念碑が設けられた。記念碑は西本願寺の聞法(もんぼう)会館と東急ホテルの間にあるマンションわき、堀川通りの歩道わき植え込みの中に建つ。この附近は井戸にちなんで佐女牛井町となった。
 醒ヶ井の由来となった、かつての左女牛井があった場所は源頼義(988~1075)が築いた源氏六条堀川邸内の井戸だったと伝えられる。室町時代中期の茶人で「わび茶」の創始者とされる村田珠光(1423~1502)が足利幕府の将軍足利義政(1436~1490)に献茶した際にこの水をくんだと伝承されている。

⑭西陣・聖天様の染殿井

 真言宗・御寺泉湧寺派の寺院・雨宝院の染殿井。大聖歓喜寺とか通称で西陣聖天宮、西陣の聖天様と呼ばれる。ここの井戸が染殿井。古くから首途(かどで)神社の桜井、上立売通りを挟んで雨宝院の南側にある本隆寺の千代の井と並んで京の名水・西陣五水の1つに数えられてきた。
 桜井、千代の井は既に水が枯れてしまったが、五水の井戸のうち唯一、社寺の井戸では染殿井が現存する。桜井から染殿井まで智恵光院通り沿いにあり、茶道の裏千家で使われている井戸水も同じ水脈と推察されているという。

蛇口もある染殿井の手水場

 雨宝院によると、染殿井は浅井戸。水枯れは一度もなく、かなりの水量がある。京都盆地にあるとされる巨大な地下タンクの水とは異なる浅井戸という。京都保健所の水質検査では水質基準をすべてクリアできず、生水は「飲用不可」。しかし、災害時の緊急井戸に指定されており、いざという時は煮沸すれば飲用できるという。手水場には蛇口が備えられている。

覆い屋のある染殿井

 聖天様には大聖歓喜天や空海(弘法大師)、十一面観音にもお参りする人が朝からひっきりなしに訪れる。お茶用にペットボトルで水をくむ人や染め物に使うと言って水をくむ人もいる。雨宝院を訪れるたびに染殿井を生水で飲んでいるが一度も腹痛など水当たりが起きたことがない。水は柔らかく、口あたりが良い。
 雨宝院は京都市上京区智恵光院通上立売通上ル聖天町9の3にある。寺伝によると、832(天長9)年、空海がを嵯峨天皇の病気平癒のため本堂に大聖歓喜天を安置したのが起原。皇城鎮護の寺として大伽藍を誇ったが、1467年から10年間続いたという応仁の乱で堂宇は荒廃。その後、天正年間(1573~1593)に再興した。現在の建物は1788(天明8)年、京都の中心市街地のほとんどが焼失したという天明の大火で堂宇が焼けた後に再興された。

 ⑮岩上神社の清水

元は雨宝院の塔頭

 上立売通り沿い,雨宝院のすぐ近くにある。神仏習合の世だった江戸時代まで雨宝院に所属する「岩上寺」だった。薩長藩閥の明治維新で寺院の多くが所有地没収などのいじめにあった。岩上寺も雨宝院から切り離されて廃寺に。大正時代に地元織者業者によって敷地内に再興され、岩上神社となったという。

岩上神社の御神体

 岩神の周囲には結界を示す紙垂(しで)を付けたしめ縄が張られ、小さな社が設けられている。すぐ近くで拝める。その大岩のそばに井戸がある。深井戸で電動ポンプでくみ上げている。脇に蛇口があり、ひねると井戸水が出る。飲用可能とかの特別は張り出しはなく、井戸にも特別な名前もない。井戸の深さが違うため雨宝院の水とは異なるが清水はなめらかだ。

蛇口のある手水場

蛇口から水をくめる手水場

岩神の磐座

 岩上は神が降臨する磐座(いわくら)、「岩神」の意だと思う。高さは約1㍍。大人2、3人が手つないで抱えるほどの大きさの岩が御神体。おどろおどろした怪石や巨石は神々の依り代(よりしろ)、霊石の神籬(ひもろぎ)とされてきた。

岩上神社いわれ書き

 岩上神社のいわれ書きによると、『二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうわもんいん)、後陽成天皇の女御の一人で後水尾天皇の母の屋敷の池の畔に遷されると、ほえたり、すすり泣いたり、子供に化けたりと怪異な現象が起きたという。子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石)」と呼ばれたこともあったという。
 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院という真言宗の僧を召したところ、彼はその石をもらい受け、現在地に移して祀(まつ)ったと いう。その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。以降、授乳、子育て の信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれている。
 寺は江戸時代の1730(享保15)年の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、1788(天明8)年の「天明の大火」で荒廃した。

授乳の神様

 神社は授乳の神様だけに子育ての神様でもあり、井戸水をくみ来る人が多くいる。

岩上神社の全景

 (つづく)(一照)



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