京都・街の湧水5


⑯大黒寺の金運清水


大黒寺の金運水。2カ所の竹筒から水が出ている
 

 大黒寺の井戸は2001(平成13)年に掘られた。古寺ではごく新しいが、古くから名水・伏水(ふしみ)のわく土地柄を生かした伏見らしい取り組みだ。だれもがあやかりたいし、ありがたがる「金運清水」と名付けられた。本尊・大黒天などに供える霊験あらたかな水といわれている。伏見の数ある醸造元と同じで、まろやかな口あたり。

勢いよく出ている金運水

 大黒寺の正門が閉じられていても寺に隣接する保育園の扉が開いているから、近所の人たちがペットボトルを手にひっきりなしに水くみに訪れ、「金運」を祈る。

本堂真向かいの不動明王像でも金運水が出ている

 大黒寺は、京都市伏見区鷹匠町4  にある。空海(弘法大師)が開いたとも伝えられる真言宗東寺派の寺。もとは長福寺と称した。本尊聖観音立像と出世大黒天立像は空海が創建したときに安置したと伝えられ、1592(文禄元)年に伏見城を設けた豊臣秀吉らの信仰があったという。
 伏見は京と大阪を結ぶ水運交通の要所だった。桃山丘陵の最南端にあり、南に巨椋(おぐら)池が広がっていた。寺は御香宮の西にあり、やはり桃山丘陵の森にはぐくまれた地下水が豊富な場所。

大黒寺の門。右手の保育園から境内に入れる

 秀吉は国内制覇後、京に入り聚楽第=1586(天正14)に築城、1595(文禄14)年に廃城=を設けたが、秀吉の姉の長男で秀吉の養嗣子として第2代関白となった豊臣秀次=1568(永禄11)年に生まれ、1595(文禄4)年に切腹=に聚楽第を譲った。
 秀吉は隠居後の住まいとして当初、伏見の指月(しづき)に屋敷構えの城を設けた。2年後に入城し1594(文禄5)年に完成した。しかし1596(文禄5)年の慶長伏見大地震で倒壊した。その後、指月から北東に約1㌔離れた桃山丘陵の木幡山に築城を始め、1597(慶長2)に完成した。ところが、翌年に秀吉は城内で亡くなった。
 その後、豊臣政権で5大老の1人だった徳川家康が1601(慶長6)年に入城。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで家康の家臣が立てこもったが西軍の攻撃で焼け落城した。
 家康は1602(慶長7)年に再建した。だが、徳川幕府の一国一城令で、江戸城を拠点とした徳川家は自ら伏見城を1623(元和9)に廃城とした。伏見城跡は1964(昭和39)年に遊園地となり模擬天守が設けられた。

大黒寺のいわれ書き

 寺伝によると1615(元和元)年、薩摩藩主島津義弘が、薩摩藩邸からも近いこの寺を武運長久の祈祷所にしようと伏見奉行に懇願した。寺名は島津義弘の守り本尊「出世大黒天」にちなみ「大黒寺」とされた。本尊は大黒天となった。当時から一般には「薩摩寺」の通称で呼ばれていたという。以来、薩摩藩ゆかりの寺となった。
 幕末には志士たちの密儀がたびたび寺内で行われていたという。幕末に西郷隆盛らが国事を論じたという一室があるほか、明治維新の志士の遺墨等を所蔵する。幕末の1862(文久2)年の寺田屋事件では薩摩藩・攘夷派の9人が殺害された。9人は犠牲者としてこの地に葬られており、遺品や書・歌などが今でも寺内に保管されている。
 徳川幕府は外様雄藩の財政が豊かになることを恐れ、大名に参勤交代を命じた。薩摩藩にはとりわけ厳しく1753(宝暦3)年、薩摩藩に木曽川治水のため、木曽川三川(木曽川、長良川、揖斐川)下流域の分流工事を命じた。
 薩摩藩は家老の平田靱負(ゆきえ)を総奉行に藩士や足軽ら約千人を派遣。工事は約1年3カ月かかった。工事費は多くてもせいぜい15万両とみられた。しかし、長良川から揖斐(いび)川に注ぐ大傳(おぐれ)川の洗堰(あらいぜき)設置が難工事で約40万両とも300万両ともいわれる巨費がかかり、藩財政は窮迫した。
 藩士の自害など80人以上の犠牲者がでたことや巨費を投じることになった責任をとって平田靱負は1755(宝暦)5年、幕府の工事見分の2カ月後に切腹した。51歳だった。薩摩藩は犠牲者が出たことなど一切、領内の藩士や領民に知らせなかった。薩摩藩正史の「島津国史」でも平田は病死とされている。
 河川治水史上、「宝暦の濃尾治水事件」と呼ばれており、まだ謎だらけ。平田の墓所はその後、大黒寺に移され、平田の銅像が岐阜県養老町に建てられた。
 寺の屋根瓦には、藩主島津家の家紋である丸に十字があしらわれている。秘仏大黒天は、金張の厨子(ずし)の中の小さな仏で甲子(きのえね)の60年に一度開帳される。薩摩藩での領民の糧食を助けたのはサツマイモだった。

⑰金札宮・白菊井


金札宮の白菊井

 金札宮の境内に伏見七名水の1つ、白菊井があったという。伏見に白菊井の名称がつく、井戸伏見の醸造元・山本本家の井戸を含めて少なくとも2カ所ある。金札宮の白菊井は60数年前に水が枯れた。
 宮司は水の復活を期して2016年ごろ、宮入り口近くで井戸掘りをはじめ、地下85㍍までボーリングしたらきれいな水が出た。白菊井の清水の復活だった。備え付けの柄杓(ひしゃく)で飲んだ。やわらかく、口当たりが良い。

正面から見た金札宮

 金札宮があるのは京都市伏見区鷹匠町8。縁起の良い社名だ。つい寄って金や札が懐に入るようにお願いしたくなる。
 社伝によると旧久米村の総鎮守で伏見でも創建が古い古社の1つ。神話で天照が岩屋に隠れた際に登場する天太玉(あめのふとだま)にちなむ社という。天太玉は老翁と化して白菊を植え楽しんでいた。ある時、日照り続きで稲が枯れた際、老翁が愛好していた白菊を振るとたちまちに清水が湧き出した。金札宮はこの清水が神格化されたと伝えられる。

社殿近くにあるクロガネモチの古木

 一帯は応仁の乱や鳥羽伏見の戦いの戦禍にあった。宮のある鷹匠通りには戦禍を避けて古い社寺が集まっている。社殿の前に縁起が良いとされる古木クロガネモチの霊木がある。恐らく、京都市内で最も大きな老木だと思う。

⑱御香宮の御香水

「静神」の井戸から

 御香宮(ごこうのみや)の御香水は石組みの井筒に「静神」と彫られた井戸から湧き出ていた。御香水は社殿の右手、「招霊」の樹木とされるオガタマがそばにある。井戸は社殿の右手にある。明治時代に井戸水が枯れたため、1982(昭和57)年に地下150㍍まで掘り下げて復元した。
 井筒に「鑑」の旧字体「」を使い、「静神」の刻字がある。「静神」で「神静かに鑑(かんが)みる」とか「静かに神を鑑(かんが)みる」と読むという。「静神」の井戸の後ろに「御香水」の石碑が立つ。1985(昭和60)年に国認定の「名水百選」となった。

井筒に「静鍳神」と彫られた御香水のわく井戸
一年中湧き出る地下150㍍からの御香水
御香水のわきにあるオガタマの霊木

 地下深くからポンプアップされた水の水くみ場は社殿前の右手にある。水くみ場の右わきにも湧水があるが、「不純物が混じっている心配がある」とかで飲用不可。御香水は1年中、湧き出ていてペットボトルでくみに来る人が後を絶たない。長い行列ができないように、水くみは1回6㍑までと制限されている。

御香水の右隣にある飲用不可の湧水


多くの参拝者が祈る御香宮の社殿

 1868(慶応4)年に始まった伏見鳥羽の戦では幕府軍が伏見奉行所を拠点にしたことから、御香宮は官軍・薩摩藩の屯所(とんしょ)となった。幸いにして戦火は免れた。薩摩藩軍勢は近くにある大黒寺に寝泊まりした。徳川家ゆかりの神社が明治維新で官軍の精鋭・薩摩軍の拠点となる数奇な巡り合わせもあった。

豪壮な本殿

 本殿は徳川家康の命令で京で徳川幕府の初代所司代となった坂倉勝重を普請奉行として1605(慶長10)年に建立された。 大型の五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)、 向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全ての極彩色で飾った。
 桃山時代の大型の社殿として価値が高く、1985(昭和60)年に国の重要文化財に指定された。桃山時代の社寺の建物は秀吉好みから豪壮華麗で、母や妻寧々らを愛した秀吉の心模様や趣向を反映してか、仏像の姿形もやさしさがあふれて美しい。
 1990(平成2)年に大修理があり、はげ落ちた色も極彩色に復元された。また京都府指定文化財の拝殿は1625(寛永2)に和歌山城を拠点にした初代紀州藩主・徳川頼宣が寄進した。
 正面は軒唐破風(のきからはふ)で、手の込んだ彫刻によって埋められている。特に五三桐の蟇股や大瓶束(たいへいづか)によって左右に区切られている彫刻は、向かって右は『鯉(こい)の瀧(たき)のぼり』、 左はこれに応じて仙人が鯉に跨(またが)って瀧の中ほどまで昇っている光景。 豪壮華麗な入母屋造り。1997(平成9)年に半解体修理が行われ、極彩色が復元された。

伏見城の大手門を移築した表門

 表門は伏見城の大手門の移築で国の重要文化財。1622(元和8)年、 初代水戸藩主・頼房が大手門を拝領して寄進した。雄大な木割、雄渾(ゆうこん)な蟇股、どっしりと落ち着いた豪壮な構えだ。正面を飾る中国二十四孝を彫った蟇股で、 向かって右から、孝養の楊香(ようこう)、敦巨(かっきょ)、唐夫人、孟宗の物語の順にならんでいる 。桃山時代の建築装飾の代表例とされている。
 また社務所内にある書院の石庭は江戸時代初め伏見奉行だった小堀遠州ゆかりの庭。         
 御香宮・弁天社前の池の石橋はかつて伏見の七名水の1つとされた常盤井の井筒。常盤井は御香宮のそば、伏見区桃山常盤町にあった。しかし、1957(昭和32)年、国道24号線の拡張工事で井戸そのものがなくなり、井筒だけが残った。
 常盤井からはいつもきれいな水が湧き出て清く不変なので常盤井といわれた。「平治物語」にちなんで常盤御前が牛若(源義経)を連れて大和に落ちのびる途中、常磐井で足を洗ったことから常盤の名称が付いたという伝説もある。

⑲乃木神社の勝水

勝運の御神水

 乃木神社の勝水はいわれ書きによると、かつての伏見城の名水と水源が同じ名水。乃木神社では創建当初から1年中湧き出し、縁起の良い勝運の御神水「勝水」として崇められていた。
 ある時期には武運長久の御神水として、参拝者はこれで手を洗い、口を注いでお参りし、また水筒などに詰めて家に持ち帰って、神棚に供えて家運の隆盛、健康長寿を祈願したという。しかし、その後の周辺開発により枯渇するようになり、往時を知る人たちから懐かしむ声が上がっていた。

 2006年に始まった地下80数㍍から取水する「勝水」


「勝水」のいわれ書き
60数年ぶりに復活した「勝水」

勝ちまくりの水

「全てに勝ちま栗」と縁起の良い水

  湧水の復活で参拝に訪れた人が、新しい手水鉢と「勝栗像」を祀る祠を寄進した。「勝粟」は昔、戦場に出る武士がこれを食べて出陣したという故事にならっている。乃木大将の大好物でもあった。そこで、参拝する人々の身と心、行為のすべてが勝運に結びつくという「『全(すべ)てに勝ちま栗』の祠(ほこら)」 と名付けられた。

乃木神社の本殿。「勝水」は左手にある

 神社があるのは京都市伏見区桃山町板倉周防32。神社に行くのに便利な公共交通機関はJR奈良線の桃山駅。明治天皇の陵墓がある桃山御陵の南隣にある。神社の主祭神は明治時代の代表的な陸軍軍人の乃木希典大将。明治天皇の崩御とともに63歳で割腹して殉死した。

桃山御陵の森にはぐくまれた水

 もともと社域は桃山御陵の一角だった。明治天皇の霊をお守りするように神社が設けられた。明治天皇の信任が厚かった学習院院長の乃木大将らしい祀られ方だ。

常緑広葉樹の茂る桃山御陵の森

 桃山御陵は常緑広葉樹が茂り、水源涵養の役割を果たしている。桃山丘陵の森で育まれた水が勝水だ。自然豊かな御陵の森には野鳥が多く生息。野鳥は神社の森にも飛来する。

社域にある学習院院長のころの乃木大将の胸像
乃木神社のいわれ書き
乃木神社の楼門
桃山御陵の入り口にある石碑

 乃木大将は長州藩出身。明治維新の志士たちを輩出した松下村塾主宰の吉田松陰の叔父・玉木文之進に師事した。明治政府では陸軍軍人として活躍。日露戦争ではロシアが支配した旅順港を奪い取ろうと旅順港のロシア軍艦を壊滅させるため、大将の第3軍司令官として難攻不落とされた旅順の標高203㍍の丘、通称203高地を正攻法で攻略する指揮を執った。
 多くの日本軍人が戦死したため、世間的にとやかくいわれたが、自らの次男も戦死したことや私心なく清廉潔白な性格で倹約、質素な暮らしぶりから、攻略指揮はやむなしとされ、悪口を言う人はいなくなった。(一照)(つづく)

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