糺の森・湧水探訪1

下鴨神社の古井戸1

 

 

糺の森

 北野天満宮の古井戸に続いて賀茂御祖(かもみおや)神社=下鴨神社を取り上げ、私見をまじえて同社の森・糺(ただす)の森と森の湧水を3回に分けて紹介。別項で下鴨神社のいわれを補足する。
 糺の森を初めて訪れたのは、京都を台風が直撃した30年ほど前。台風が通り過ぎた直後の8月29日早朝だった。午前6時前で人はだれもいなかった。
 森は枝葉が強い風でちぎれ、馬場や参道など砂地のところは大雨に洗われて雨水の流れが刻まれていた。森のあちこちから水が湧き出していた。森の中は空気が澄み切り、森閑としていた。深山幽谷のような神がかった霊気感が漂っていた。
 その後、何度となく京都を訪れ、糺の森を歩いた。参道の入り口に高級マンションができて、社叢林の雰囲気は幾分変わったが、森の空気感は同じだった。あちこちに湧水があるのが特段に気に入った。

 

高野川(右)と賀茂川(左)の合流点にある中洲の森が下鴨神社・糺の森


合流点にある小公園にある糺の森の案内板

 

天然更新、斧鉞(ふえつ)の森

 比叡山の谷や、東山36峰の第2峰・御生(みあれ)山=御蔭山=の湧水を源流とする高野川と北山山系の雲畑から流れ、鞍馬山や貴船山の沢水、湧水を集めた貴船川も入る賀茂川の合流地点・三角デルタ上に森はある。 合流点から下流は鴨川と名称を変える。
 合流点の三角デルタにある森はほぼ樹木の生育任せにした天然更新。参詣者らに危害が及ぶ枝枯れ、主幹の腐りによる倒木の恐れ以外はほとんど人の手で伐採は行われない。人の手で斧(斧)や鉞(まさかり)がはいらない、ほぼ原生林に近い天然更新の斧鉞(ふえつ)の森となってきた。
 大きな樹木が倒壊した後に、朽ちた樹木の上とか脇に落ちた種子が発芽して幼木が生長。老木となって自然に倒壊する。苔やキノコなどを養分に小植物が育ち、樹木も成長する森の輪廻だ。

参道と並行する馬場の両脇に広がる糺の森

広大な鎮守の杜

 社叢林はまた鎮守の杜といわれる。境内には森の中や社殿の近くに摂社、末社があちこちにある。平安京遷都後、糺の森はかつて広さ約495万平方㍍もあったという。高野川源流域にある境外社の摂社・御生山を含めた社域は広大だったが、江戸時代と明治時代初めの上知令(上地令ともいう。社寺所有地没収命令)で境内地を没収されてしまった。
 だが、規模はかなり縮小したものの境外の摂社・末社を含めない森は現在も広さ12万4000平方㍍ある。広大な平地林でほとんど天然更新任せの森は極めて珍しい、国の指定史跡であり、世界自然遺産に認定されたのも、かつての山城(山背)国の原生林の面影を残しているとされる斧鉞の森だからだ。

幼木(白い札印)が植林された森

 社叢林は、樹林が薪炭用に採取でき、林床を含めた植物も、森で生きる動物の採捕もできる里山と違う。社叢林はできる限り自然のまま手つかずに保全され、里山的な利用はされない。糺の語源はデルタ地帯を示す只洲とか直澄(ただす)ともいわれる。直澄は清い水の湧き出るところという意味だという。森は山城(山背)国の古い森のありようを今に伝えといわれると、「そうか」と思うしかない。デルタ地帯の中州なので水辺植生の河畔林が大きな特徴かと思っていたが、河畔林の様相はあまりなかった。

 

下鴨神社社殿に入る楼門(正面)の手前にはカシ類などの常緑広葉樹が茂る

常緑広葉樹の森

糺の森は古代からの植生としてニレ科の樹木が多いとされている。30年ほど前に訪れた時はニレ科の大樹があったような気がしたが、2021年に森を歩いてニレ科の樹木があまりないと感じた。森は大鳥居から参道に進むと、落葉広葉樹が目立ち、森の中が明るい。楼門前の南口鳥居の周辺、奈良の小川辺りになるとカシ類などの常緑広葉樹が多く、森の中は葉が茂って薄暗い。
 9000年~6000年余前に地球が温暖化して海水面がかなり上昇した縄文時代の海進時、日本列島は亜熱帯、温帯気候となり、それまでの氷河期時代の森林植生が大きく変化した。特に西日本ではタブやシイ、カシ類の常緑広葉樹が急激に増えた。

祭祀遺跡近くにある老樹の御神木

 森にはもっと常緑広葉樹があってもいいはずなのに少ない。2018年の台風被害で大木約250本が倒壊したという。砂礫なので根が知中深くはれなかったのが原因とされている。樹木は高さに匹敵するぐらい地中深くに根を伸ばして張るとされているが、砂礫質では違うことを知った。森の地下水の水位が低下しているのと関係しているのかもしれない。
 森にはスダジイの老樹があるが、タブやスダジイ、カシ類は老樹になると主幹が腐食するなど折れやすく、参拝者に危険なため伐採され、代わって秋を彩る紅葉・黄葉するカエデなどの落葉広葉樹が植栽された可能が大きいと思われる。砂礫層で樹木が育ちにくい土壌も落葉樹が多い理由とされている。
 式年遷宮が21年ごとに行われる古社なので、遷宮用の建築材としてスギ、ヒノキがもっと植林されて多くあると思っていたら案外少ない。近世、特に商品経済が活発になりかけた江戸時代中期以降、また物資窮乏の第二次世界大戦中、社叢林でも林床を含めて里山並みに社域での林野資源の利用が進んでいた可能性がある。
 糺の森財団が樹木の植生を調べたデータがある。幹回り1㍍以上の大径木の本数を1991(平成3)年▽2002(平成14)年で比較したデータでは、ムクノキやケヤキ、エノキ、アラカシ、シイ、イチョウ、スギが増えているのが目立っている。クスノキについては生長が比較的早いことや、第二次世界大戦中に火薬の原料となる樟脳(しょうのう)を取るため盛んに植林が行われているため、古社の森とはいえ自然植生なのか、あまり当てにはならない。ムクノキは秋に実をつけ、小鳥がついばんで種子をあちこちに落とすので実生から生長したとみていい。

里山的利用の可能性

 昭和時代初めごろや第二次世界大戦中、大戦直後の窮乏、困窮時、いかに神域の斧鉞の森とはいえ里山と同じように、神社や近隣の家々で使う日常の薪炭用の伐採があったとみるのが一般的だ。
 森は1467年から約10年間続いた応仁の乱の兵火で三分の二ぐらいが焼失したと伝えられている。1934(昭和9)年、室戸台風が関西地方を直撃した。糺の森も強風で多くの樹木が損壊、倒木の被害に遭い、老木と古木が少なくなってしまったという。長い歴史があれば、光芒や浮き沈みがあるのは当然で、森の植生も曲折の変遷をたどった。
 森に多くのエノキがあったならば、幼虫がエノキの葉を食べて育つ国蝶オオムラサキやゴマダラチョウ、ヒオドシチョウがもっと観察されていいのに目が行き届かないのかほとんど見られない。エノキの大木は鴨川の土手にもかなりある。土手は毎年、落ち葉がきれいに片付けられて地面に葉がほとんどないため、オオムラサキなどのチョウ類は越冬できない。また双葉葵や湿地を好むキチジョウソウ(吉祥草)が自生していたというが探しても見当たらない、ここらの植生の変遷とチョウ類など昆虫の生息環境を専門家に調査してもらいたいものだ。

 

神体山と神体林

 下鴨神社と密接な関係にある御生山(みあれやま)。比叡山の南麓にある東山36峰の山だ。山そのものが禁足の神体山。大きな岩や奇岩のある頂上が天に上る祖先の霊魂が宿る天地の結界となるという祖霊信仰、精霊信仰、自然崇拝の考え方が、旧石器時代や縄文時代からこの国のいにしえ人にあった。昇る朝日、沈む夕日に祈り、陽光の崇高な一瞬の景観を拝む太陽信仰も重なって現代までも心根のなかにすぐっている。
 神体山としては富士山を筆頭に新潟の弥彦山、茨城の筑波山、鳥取の伯耆大山(ほうきだいせん)、石川の加賀白山などが山岳信仰の山々が代表だ。低山でも、奈良県桜井市の三輪山が有名で、京都でも下鴨神社の御生山(御蔭山)、上賀茂神社の神山(こうやま)などがある。
 他にも列島各地に多くある、山のふもとや中腹に社殿がある神社のほとんどは大きな岩や奇岩がある天地結界の頂上に奥社をまつる。祖霊信仰と日の出、日の入りを拝む太陽信仰が重なった様式で頂上に祀る社が決まったといっていい。


大神神社の拝殿。本殿は拝殿の後ろにある神体山の三輪山

 

禁足地

 禁足の山といえば、代表的なのが奈良県桜井市の三輪山。本殿がなく、なだらかな円錐形の山・三輪山が本殿となる。三輪山そのものが神聖な神体山で、神奈備(かんなび)の山だ。ふもとにある大和国一之宮の大神(おおみわ)神社は拝殿から山を拝む形となる。古くから禁足地とされた。薪炭採取は禁止され、今でも入山登拝は許可制となっている。登拝しても山中での撮影も飲食も禁止されている。
 冬至のころ、神武天皇を祀る橿原市の橿原神宮の方面から三輪山を臨むと伊勢神宮(三重県伊勢市)のある方向から太陽が昇る。大神神社の摂社・檜原神社は伊勢に祀られて落ち着くまで各地を転々とした伊勢神宮跡の元宮のうち最初の元宮とされているのも不思議な縁だ。また摂社に狭井(さい)神社があり、井戸からは森がはぐくんだ御神水の湧水が出ている。
 糺の森が「神体林」とするなら森そのものが禁足地であり、里山的な利用はできなかったはず。文献などの資史料がないので分からない。森の植生の一部には里山的な利用の跡が見えるが、神体林の禁足地だとすると里山的な利用はかなり制限されていたはずで、専門家から植生を見て里山的な利用の有無を調べてほしいと思った。

西国札所・長命寺の神々


竹内宿禰の依り代とされる岩(左)=近江八幡の長命寺

 列島のいにしえ人は自然と祖霊を信仰し、森そのものや森に覆われた土地、山や巨石、奇岩、また海に突き出た奇岩、岩礁、滝など特徴的な自然を神籬(ひもろぎ)とか磐座(いわくら)、依り代(よりしろ)と呼んで自然を神の依りつく場として信仰してきた。
 神仏習合の痕跡が色濃く残る近江八幡市にある西国札所の長命寺では奇岩や巨岩、枝ぶりや主幹が特徴的な巨樹が神の依り代として残されている。奄美地域では海に突き出た奇岩を「立神」と呼んで厚く信仰する。

糺の森の神々


河合神社真向かいにある井上社。社の両脇に井戸水があふれる手水場がある

 糺の森は、神体山になぞえれば“神体林”といえる。森のあちこちから湧水がある。水を神としてあがめた“神体水”であり、下鴨神社の御神体は水そのものと言っていい。河合神社の真向かいにある三井社の御神体は御生神社の主祭神・賀茂建角身(かもたてつのみ)と妻の伊賀古夜姫(いかこやひめ)、夫妻の娘・玉依媛(たまよりひめ)の3神。この3神こそ下鴨神社の主祭神そのものではないかと思う。水の神だ。水の神はまた農耕、糧食の神でもある。
 

相模国では

 相模国(神奈川県)一之宮の寒川神社も本殿の裏に池があり、相模川左岸に近いこともあって相模川伏流水が流れているらしく、かつてはこんこんと水がわいていた。周辺は古代、水を必要不可欠とする稲作農耕が盛んな地だった。相模川に支流の中津川、小鮎川が合流する地点の海老名市の相模川左岸際にある有鹿(あるか)神社もかつては境内から水が湧き出ていた。奥社のある相模原市の国指定史跡・勝坂遺跡の段丘下には湧水がある。稲作の神で水が神様なのだ。
 箱根町の箱根神社は芦ノ湖に面してある。相模川右岸際のある厚木市の依知神社は相模川にあった大岩。ほとんどが水か岩だった。東丹沢山系の大山にある阿夫利神社は本殿の下から水が湧き出ていた。岩と水を神としていた。大山そのものが円錐形のコニーデ型の神体山で、頂上に磐座があり、そこに縄文遺跡があった。水は生命神であり、山―森―水―川―水田とつながる農耕神だった。

 後付けの社は不要

 思うに、どこの神社も格式にこだわらず、後世に付会(ふかい)した、とってつけたような祭神を外すべきだと思う。神社は正真の御祭神と、御祭神とかかわりの深い摂社・末社だけを祀ってすっ切りした方がいいのではないか。当該神社とほとんどかかわりのない、もってつけたような御祭神は不要だと思う。どこもとってつけたように有名な神々を後付けする社が多過ぎるような気がする。
 日本は列島の形成の太古からあちこちの火山が噴火を繰り返す火の国、山の国、岩の国であった。巨石や岩の塊の磐座が神の依りつく場として、祖霊が上る天と地を結ぶ結界としての山を自然崇拝してきた民族の精神的象徴として、岩とか山を御神体とする神社が形作られてきた。
 渡来系の流行の神々を勧請したりするなど何も権威づけることなどしなくても、ありがたさに軽重はない。天変地異や病魔を恐れ神の仕業として恐れ敬い、神仏に祈りを捧げ、日々、安穏で健康な生活を祈った神仏習合も素朴な感情、素直な心模様のなかで形成されてきた。
 もともとこの国の神道はもっと素朴なものだったのではないか。だから、仏教をすんなり受け入れ、神仏習合にもなじめたと思う。このところ、日本人起源説の一つとしてユダヤからの渡来説が唱えられている。日出るところの東の果てを求めて文物とともに100人~1000人程度の渡来系の人々が来ても、果たして一神教の地域で生まれ育った人が、多神教の地、あちこちに八百万の神々がいて自然崇拝の宗教世界に溶け込み、順応できる精神世界を築けるかはなはだ疑問に感じる。(つづく)

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