京都・街の湧水2

④藤森神社の不二の水


 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)の霊水「不二の水」。神社は京都市伏見区深草鳥井崎町609にある。地勢的に考察すると、東山山系の伏見稲荷の稲荷山から続いて南に伸びる桃山丘陵で蓄えられた地下水が西に流れ、土地のくぼんだ状態の地域にある藤森神社の境内にも流れ込む。

不二の水専用のくみ場。水を入れに来る人が後を絶たない
社殿脇に設けられた不二の水のくみ場
不二の水のいわれ書き


2カ所から水が出る

  神社の井戸水は「不二の水」といわれる。境内の社殿前と社殿わきに水場が2カ所ある。社殿前はポンプで水をくみ上げる古井戸があり、手水場となっている。ここで水を入れようとすると、近くの人がいて「社殿わきにありますよ」と教えてくれる。ここから社殿わきの水くみ場に水が引き込まれ、あふれ出している。ペットボトルを持って水をくみに来る近所の人が後を絶たない。水は口に含むと柔らかくて甘い感じがする。

社殿前の不二の水の手水場
ポンプアップされた不二の水の手水場

ポンプアップで

 地下での水位低下の原因は不明。周辺の水を大量に使う工場はなく、大きなビル群もない。藤森神社の東には桃山丘陵があり宇治川が西流し、西側には鴨川と桂川が南流する。伏見の地は地形的に水に囲まれているだけに水が豊富だ。あちこちに水路がある。
 社伝によると、三韓征伐から帰った神功皇后が203年、深草の里の藤森に戦さ旗の纛旗(とうき)を立て兵具を納め、祭祀したのが発祥としている。本殿は1712(正徳2)年に中御門天皇から下賜された宮中賢所(内侍所)。現存する賢所としては最も古く、東殿・中央・西殿の三座から後世される。東殿に周辺地域一帯の「地主神」と考えられる神、西殿に怨霊や厄神をなだめる神を祀(まつ)る。

藤森神社の社殿

 

伏見城の一部を利用

 南と西の参道入口の両側にある石垣は、伏見城取り壊しの際に城壁の一部を奉納されたといい、伏見城城壁建造時に刻まれた大名の印が確認できるという。
 駆馬や菖蒲からの尚武・勝負の連想、武神が多く祀られていること、また明治時代から第二次世界大戦終了まで周辺が軍用地であったことから、馬と武運の神社として信仰を集めた。現在は馬と勝負事の神社として知られ、競馬関係者・ファンの信仰を集め、競走馬の絵馬が奉納されている。神社の森は東隣にある京都教育大学の豊かな樹木群に連なっており、一体化した森のようになっている。
 藤森神社の氏子の居住範囲は藤森神社周辺(宮本下ノ郷)から鴨川の東側を北へ、伏見稲荷大社周辺(深草郷)、東福寺周辺(東福寺上ノ郷)を含みJR琵琶湖線近くまで広がっている。このため伏見稲荷大社の氏子が多く居住するのは本体の稲荷社の周辺ではなく鴨川より西の京都駅の南北の区域となっているという。「もともと藤森神社があった土地に後から伏見稲荷が来た」という説があり、神輿の伏見稲荷境内への巡幸もこの説の根拠の一つとなっている。

⑤松尾大社の亀の井

松尾山の水

 松尾大社は桂川の右岸、京都市西京区嵐山宮町3にある。桂川の渡月橋を渡って下ると、十三参りや電気の神様で知られ、ドラマのロケ地にもなる法輪寺がある。松尾大社の門前を通り越すと安産のご利益が高いと言われる月読神社があり、若い女性に人気の鈴虫寺、苔寺で知られる西芳寺がある。
この嵐山一帯は古代から機(はた)織りや酒造りなどの技術者集団だったとされる秦氏が開拓した地といわれ、古い社寺が連なる。松尾大社も秦氏の創建とみられている。社殿裏の松尾山が神体山。山頂には神が依(よ)る磐座(いわくら)があり、この山が水をはぐくんでいる。神社境内から山懐の岩場が見える。

カメの口から水が出る「亀の井」
松尾山から湧き出した水が滝のように岩盤をほとばしる。亀の井の上にある

 社殿裏にむき出しの岩があり、山頂に続いている。社殿の右側に亀の口から水が出ている「亀の井」の手水場があり、手水場の裏手に山から湧き出た水が滝のようにほとばしる岩盤がある。

酒づくりに適した水

 松尾大社は701(大宝元)年の建立という古社。「亀の井」を加えて醸造すると酒が腐らないと伝えられる。酒造りの神様として知られ、国内各地の醸造所が酒樽を奉納して、良い酒づくりを祈願する。
 奈良県桜井市の三輪山にある大神神社も酒造りの神様をあがめられているが、醸造所にはなぜか松尾大社の方が人気がある。京都の地の利かもしれない。

⑥市比賣(いちひめ)神社の天之真名井

一願成就の水


 市比賣(いちひめ)神社は京都市下京区本塩竃町河原町五条下ル一筋目西入ルにある。小さな社だが、鴨川に並行した河原町通り沿いなので場所は比較的分かりやすい。天之真名井(あまのまない)は平安時代、皇室に子供が生まれると、産湯に使われたというご神水が、湧き出ている

1年中途切れることなく、秀吉の時代、天正年間から水が出ている天之真名井
絵馬を掛けて水を飲むと願いがかなうという天之真名井
天之真名井の水をくめる蛇口

 

女人守護

 絵馬を掛け、「天之真名井」を飲んで手を合わせると、一つの願い事がかなうと伝えられる一願成就の水、女人守護の水として信仰されている。

正面から見た市比賣神社

 社伝によると、市比賣神社は平安遷都の翌年795(延暦14)年、藤原冬嗣が垣武天皇の勅命により、東の左京と西の右京に常設された官営市場を守護する神社として創建された。元は堀川七条にあった。中世には空也上人がここに市屋道場を開創。一遍上人も境内で踊り念仏を遊行した。
1591(天正19)年に現在地へ移転した。現在も京都中央市場の守護神となっている。現在の地に移されたのは、豊臣秀吉の時代。また、1927(昭和2)年に、日本初の公設市場として京都中央卸市場が開設された際、その構内に分社の「市比賣神社」が創建された。
 天之真名井の水は清和天皇から後鳥羽天皇まで27代の間は、皇室、公家の崇敬が厚く、皇子や子女の誕生ごとに「天之真名井」の水を産湯に加えられたと伝えられている。現在も名水として茶会等に用いられる。
 また、皇族・公家が生後50日目に五十日餅(いかのもち)を授かる。お食い初め発祥の神社といわれ、今も旧家では餅を授かる風習がある。母神が童神を抱いた神像は、慈愛に満ちた珍しい姿で平安時代、花山天皇の作という。
 
祭神として市寸嶋比賣之命(いちきしまひめのみこと)・多紀理比賣之命(たきりひめのみこと)・多岐都比賣之命(たきつひめのみこと)・神大市比賣之命(かみおおいちひめのみこと)・下照比賣之命(したてるひめのみこと)の五女神を祀っている。歴代皇后の崇敬篤く、女人守護の神社で特に女性厄除けに御利益があるという。
 

⑦今熊野観音寺の五智水


 今熊野観音寺は京都市東山区泉湧寺山内町32にある。京都でも古寺では珍しく、独自命名の飲用水を持つ。空海(弘法大師)が錫杖(しゃくじょう)で地面をついたら水が湧き出たと伝えられ、空海命名の由緒を持つ「五智水」。本堂の真ん前に覆い屋を持つ手水場がある。 大師信仰と相まって五智水も頭痛の悩みを持つ人や心の癒しを求める人らに人気の水場だ。

湧寺参道から今熊野観音寺に入る結界の朱塗り橋

 寺は今熊野山(標高185㍍)のふもとにある。比叡山から伏見稲荷の稲荷山まで続く36峰のうち今熊野山は比叡山から数えて32番目の峰で、阿弥陀ケ峰と泉湧寺のある泉山の間にある。泉山は宮内庁管轄で入山禁止。カシ類の多い今熊野山はうっそうとして昼なお暗い箇所もあるが散策できる。五智水は今熊野山にはぐくまれた水だ。住職に聞いたら「もちろん飲めます」話した。

空海が錫杖をついて水が出たと伝えられる五智水の井戸

 同寺のホームページや寺伝によると、真言宗泉涌寺派の寺。807(大同2)年、唐(古代中国)で真言密教を学んで帰国した空海(774-835)が熊野権現の霊示を受けてこの地に庵を結んだ。812(弘仁3)年、空海は嵯峨天皇から官財を賜わり諸堂を造営した。
 神仏習合の時代だった。平安末期の1160(永暦元)年、後白河上皇(1127-1192)が「新那智山」の山号で今熊野神社を造営。今熊野観音寺の十一面観音菩薩像を神の本地仏とした。西国33カ所観音霊場の15番札所。本尊の十一面観音菩薩像は弘法大師(空海)の作と伝えられる。
 頭痛持ちだったといわれる後白河上皇が熊野詣で代わりに通った寺で、十一面観音菩薩像は頭痛封じの観音様として知られる。以来、京の人たちは頭痛封じの観音様として尊崇するようになったという。寺には智証大師(円珍)作と伝えられる不動明王像、運慶作と伝えられる毘沙門天像もある。

今熊野観音寺の本堂。真正面に五智水の覆い屋がある

京の都に熊野が

 何で京都に熊野権現があるのかという疑問を解こう。寺伝などを参考に自説もまじえて、京都の熊野信仰を簡単に追った。
 古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落(ふだらく)浄土の出立地としての信仰の中心だった。熊野灘に面した那智の浜にある補陀落寺から一人小舟に乗って捨て身で浄土を目指す「補陀落渡海」が行われた。小舟とはいっても入滅覚悟の棺桶同然の舟。そこまでして浄土を求めた。熊野は浄土に最も近い場所とされ、熊野信仰の一つとなった。
 熊野本宮大社は神武天皇が大和に入るとき、一行を先導したとされる八咫烏(やたがらす)の地として朝廷の信仰が厚かった。後白河上皇は極楽浄土入りを目指してか熊野に27回も詣でた。京の都から遠く離れた熊野に自らの足でだ。後白河上皇をはじめ多くの皇族、朝廷の高官らが熊野詣でを繰り返した。
 空海が東寺で真言密教の秘法を修法していたとき、東山の山中に光明が差した。行ってみると山中に白髪の一老翁がいて、「熊野権現」の化身だった。翁は「ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ」と語りかけ、「永くこの地の守護神になる」と告げて姿を消した。
空海は熊野権現のお告げのままに一堂を建立し、自ら一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻んだという。
 京の今熊野観音寺の地にも熊野信仰と、その本地仏としての観音信仰が栄えた。後白河上皇のころには世情も不安定であり、熊野詣でを断念することもあった。代わりに今熊野観音寺を紀州熊野の観音霊場になぞらえて通ったという。泉湧寺参道は当時、「観音寺大路」と呼ばれた。
 

空海が掘り当てたという井戸

 空海が、観世音をまつる霊地を選ぶために錫杖(しゃくじょう)をもって岩根をうがつと霊泉が湧き出た。空海はこの清水を「五智水」と名付けたという。空海が訪れた地で錫杖をついて水が出たという伝説は各地にあるが、京都で今も昔の名称が使われる現役の井戸はここだけ。
  阿弥陀ケ峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)と呼び、北西の一帯を字を書き換えて鳥辺野(とりべの)と呼んだ。両方を合わせて鳥部野(とりべの)と呼んだ。今熊野という呼ばれる一帯の「鳥戸野」の地は、古くから高貴な人々の葬地であり、観音寺が管掌した。一方の鳥辺野は庶民の葬地だった。寺域には今も鳥戸野陵がある。藤原一族で最も栄華を極めた藤原道長(996-1027)をはじめとした貴族の火葬塚があり、これらの葬儀や法要が今熊野観音寺で執り行われたという。
 

清少納言ゆかりの地

 また、「枕草子」の作者として知られる清少納言は、父の清原元輔の邸宅が現在の今熊野観音寺境内地付近にあったことから、今熊野観音寺の近くで育ったとみられている。清少納言は一条天皇の皇后・定子に仕えた。定子は亡くなると今熊野観音寺近くに造営された鳥戸野陵の葬られた。清少納言も寵遇(ちょうぐう)を受けた定子を慕い、自分が生まれ育った観音寺近くの父の邸宅のほとりに住んで晩年を過ごしたとみられている。

空海伝説の五智水の井戸

(つづく)



 


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