下鴨神社のいわれ1止

糺の森・別項1止


賀茂御祖

 正式名称は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。通称・下鴨神社。上賀茂神社とともに古くから朝廷の崇敬を受けた。平安京に遷都後はより崇敬が厚く、807(大同2)年には最高位の神階・正一位を受けた。927(延長5)年に編纂の延喜式神名帳第9、10巻に名神大社として社名が載る式内社。上賀茂神社と並んで伊勢神宮に次ぐ社格という。楼門を入ると舞殿など各種の歴史的建造物が数多くある。

下鴨神社の社殿に入る参道の楼門


     
 
 建造物のうち国宝2棟、重要文化財53棟、重要社殿30棟と豪勢だ。社殿のもっとも古い記録として「鴨社造営記」に、「紀元前90(崇神天皇7)年に瑞垣を修造した」との記述があるという。式年遷宮の制度が始まったのは1036(長元9)年で、以降21年ごとに社殿を造替する遷宮が行われている。遷宮は平安時代の建築様式を後世に残す技術の継承に不可欠。ヒノキは若木を植林して21年では建築材に利用できるほどの太さに育たない。ふしのないヒノキ材の確保には難儀するようで、遷宮も資金がかかる。

糺の森にある平安時代の祭祀遺構

鴨族の祖

 東山36峰の第2峰・御蔭(みかげ)山=御生(みあれ)山の御生神社に祀る賀茂建角身命が御蔭山に降臨したのが起原とされている。御蔭山にある御蔭神社は下鴨神社の境内外摂社の一つ。賀茂建角身命は下鴨神社の主祭神で、上賀茂神社の賀茂別雷命を産んだ玉依媛の父とされる。つまり、玉依媛は賀茂別雷命の母だ。玉依媛も下鴨神社の主祭神として祀られる。
 下鴨神社と上賀茂神社は密接不可分な一心同体の関係で、どちらの創建が古いかの起源は神話の怪奇な世界なので詮索しないほうがいいと思う。どちらも創建から2000年以上経っているとされ、これだけ古い起源ならば、古さ比べをしてもあまり意味がない。両社とも賀茂社なのだ。鴨(賀茂)族がこの地に定着して、祖霊を祀ったのが両神社の起源といっていい。

下鴨神社の拝殿

 鴨(賀茂)族の発祥地として、大和(奈良県)葛城か山城かなどの諸説がある。鴨、賀茂、加茂という呼称は国内に約300カ所あるといわれている。奈良御所市の葛城山系にある高鴨神社、東大阪市にある鴨高田神社、島根県安来市にある賀茂神社、岡山県にも賀茂神社、鴨神社がある。鴨、賀茂の地名、河川名も多い。
 鴨族は渡来系の天孫族とか海人族などの議論もあるが、ここでは立ち入る必要性もない。2000年以上住んでいれば、まるっきり列島の原住民ではないかという考えで、発祥や起源の議論もあまり現実的ではないと考える。

八咫烏

 下鴨神社は3本足の八咫烏(やたからす)を社のシンボルとしている。上賀茂神社も当然八咫烏、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)も同じく八咫烏がシンボル。玉依媛の父・賀茂建角身命の化身が八咫烏とかいわれる。鴨族が八咫烏を通じて熊野本宮とかかわりがあるというのは興味深い。
 鳥類のなかで唯一、朝日と夕日に向かって飛ぶのがカラスで、古代人はカラスを太陽のシンボルとみた。八咫烏=太陽なのだ。日が沈みかけるころ、ねぐらの巣に戻るカラスが夕日に向かって飛ぶ姿を多く目にしてきた。
 太陽を信仰した古代の人は、カラスを神の使いとみなした。太陽信仰のシンボルである。神武天皇の東征に際して熊野から大和の橿原まで道案内したとされる八咫烏。見知らぬ土地での不慣れな道すがら、不審がられて足止めさせようという在地の人たちがいて、いざこざや小競り合いがあってもふしぎでない。東征というと征服、征伐を含めて武力で支配勢力を拡大すると受け止められるが、単に「東を目指した」というもっと穏やかな意味合いだったのではないかと思う。
 八咫烏といえば熊野本宮大社のシンボルでもある。サッカー日本代表のユニフォームにも八咫烏がデザインされている。
 また、カラスは人の霊魂を宿すとも言われ、神聖な鳥扱いされてきた。古代から衆庶の遺体は埋葬、火葬の習慣がなく、山すそなどに放置されてきた。野仏が唯一の弔いだった。放置された亡骸(なきがら)は時の経過とともに風化する風葬か、鳥がついばむ鳥葬だった。その鳥葬の主役がカラスだった。衆庶はカラスを忌み嫌う一方で霊魂を宿す鳥、太陽に向かって飛ぶ鳥として恐れおののき神聖視してきた。これが太陽信仰と重なって八咫烏が生まれたと思う。

双葉葵

 下鴨神社の神紋は双葉葵。糺の森に自生していたというが森の中でまだ見たことがない。水位の低下で林床が乾燥化して衰微したという。御生山も双葉葵の自生地だ。5月の葵祭りの際、斎王代の行列の人々の頭や肩に桂の小枝に双葉葵の葉をかざした飾りがある。上賀茂神社では双葉葵を栽培している。葵祭りの前、御生神社でも双葉葵の葉を髪にかざした祭りがあるので、葵祭の起源は御生祭りにあるとみていい。
 上賀茂、下鴨両社の祭礼・賀茂祭は朝廷じきじきに執り行う勅祭とされた。賀茂祭は中断後、江戸時代に復興。桂の小枝に葵の葉を絡ませて髪や肩に飾るようになり、葵祭と呼ばれるようになったという。
斎王代は葵祭・賀茂祭のヒロイン。平安時代は天皇の娘さん・皇女が務めたが鎌倉時代に途絶えてしまった。下鴨神社に810(弘仁元)年に斎王の居場所として斎院が設けられ、皇女が賀茂社に奉仕した。斎王代が市民から選ばれ復活するようになったのは1956(昭和31)年から。斎王代といえば、上賀茂神社の枝垂桜「斎王櫻」は京都の枝垂れでも一二の見事さだ。
 斎王代に選ばれるのにはいろいろな条件があると聞いた。呉服問屋とか銘菓店とか京都の老舗、伝統のある名家の子女が選ばれる。賀茂祭、葵祭りに参加できる人も先祖から上賀茂、下鴨神社に関係した家柄とされる。祇園祭で八坂神社の大神輿3基の担ぎ手も代々の氏子か氏子の紹介者に限るとされている。ここいらが古都・京都らしい一方で、また京都人以外の人からすれば煩わしいことでもある。

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