京都・街の湧水7

24 若一神社の開運出世水

深さ15㍍から湧出

 若一(にゃくいち)神社の開運出世水は社域の2カ所にある。浅い井戸で深さ15㍍から清水が湧出する。井戸水の水温でだいたい深さが分かる。深く掘り下げで京都盆地にあるという地下タンクからくみ上げる深場の水は夏場冷たくで冬場温い。水温14度~16度程度と四季を問わず一定だ。浅場の井戸水は外気の影響を受けるため、四季を通じて水温が一定というわけにはいかない。
 若一神社は西大路通りと八条通りの交差点わき、平清盛の別邸・西八条殿跡にある。住所は京都市下京区七条御所ノ内本町98。

西大通りに面した鳥居を入ってすぐ右手にある開運出世水

 平安時代後期、最初の武家政権を打ち立てた清盛は熱烈な熊野信仰者で熊野詣でを22回重ねた。神社の言い伝えがある。熊野詣での折、西八条殿の一角にご神体が隠れているとの夢告があった。
 1166(仁安元)年に夢告通りに掘ったら熊野十二所権現の若王子(にゃくおうじ)が現れて水が湧き出た。清盛はここ西八条殿の敷地に若王子と水を祀(まつ)る社を設け、「若一」と名付けたという。清盛が太政大臣にまで上り詰めたことから、湧水は「開運出世水」といわれた。

2本目の開運出世水。蛇口があるので水をくむのに便利

 1166(仁安元)年に清盛の夢告通りに掘った井戸が鳥居のすぐ近くにある。神社の正式な手水場。龍の口から水がほとばしる。

開運出世水が2本も


 社殿のわきにも新しく設けた2本目の井戸から出る水がある。かつて隣にあった写真屋が立ち退いた後、同じ社域となり、新しく井戸を掘ったという。2本の井戸を持つぜいたくさだ。だれでもペットボトルに入れて持ち帰れるように井戸のわきに蛇口がある。
 平安京遷都の大路だった千本通りから西はかつて一帯はきれいな流水が必要なセリ栽培の田が広がっていた。神社の北西地域も昭和時代初期ごろまでセリ田だったという。水が豊かだっただけに豆腐屋もたくさんあった。ここらの料理屋は今も湧水を使っているという。

梅小路公園の一角にある清盛邸の古井戸らしき跡

 平安時代後期、清盛は鴨川左岸の東にある六波羅に拠点を設けた。もう一つの拠点となる別邸が西八条殿。現在の梅小路公園の一角からJR線の線路敷きまで屋敷の敷地が広がっていた。

祇王も、安徳天皇も

 高倉天皇と清盛の娘・徳子(後の建礼門院)との間に誕生し、わずか満1歳2カ月で天皇となった清盛の孫、安徳天皇(1178~1185)は西八条殿で育ち、清盛が寵愛(ちょうあい)した芸人、白拍子の祇王(ぎおう)もここに住んだといわれている。

若一神社の正面。右手に開運出世水がある

 西八条殿は現在の大宮通り西側にある梅小路公園西側の三分の一から西大路通りのさらに西側まで広がっていた。頼盛や重盛、宗盛ら平家一族がここに邸宅を構えて集まった。若一神社は西八条殿の鎮守社となった。しかし、1181(養和元)年、清盛が64歳でなくなると、屋敷が放火された。1183(寿永2)年には木曽義仲の京入りで平家一族は屋敷に自ら火を放ち都落ちした。

同じ水脈の水薬師堂

 寺の周囲にセリ田が広がっていて、かつて湧水があったのは京都市下京区西七条石井町54洛陽12薬師の1つ、真言宗の水薬師寺同じだった。住職によると、本堂の裏、西側に大きな池が広がり、池の中から薬師像来像が見つかった。902(延喜2)年のことだった。
 当時の醍醐(だいご)天皇から崇敬された真言宗・醍醐寺派開祖で醍醐寺派修験道の祖とされる理源大師に命じて諸堂宇を建立され、塩通山医王院水薬師寺の勅号を賜ったという。

色を塗り直した扁額がかかる水薬師寺の本堂

石井(いわい)の水

 この時、池のわきに安芸(広島)の弁財天を勧請(かんじょう)して弁天堂が設けられた。弁財天堂の真下に豊富な湧水の井戸があり、「石井」(いわい)と呼ばれたという。石井の清泉は清盛が熱病を治すため水を浴びて快癒(かいゆ)したという霊験談が伝わっている。このこともあって石井は清盛井とも言われた。石井の水脈は若一神社の井戸水と同じ水脈と推測されている。
 水薬師寺は1333(元弘3)年の元弘の乱の兵火で堂宇ことごとく焼失、廃寺となって弁財天堂も井戸もなくなってしまった。再建は17世紀前半だった。江戸時代初め、京所司代の板倉勝重の息子で、勝重の後を継いで京所司代に就いた重宗の尽力で現在の本堂が再建された。本尊の薬師如来像のほか脇侍(わきじ)の日光、月光両菩薩像、十二神将像も安置されたという。
 惜しまれるのは石井が現在ないこと。境内を掘れば水が出るとされている。水薬師寺の寺域に七条幼稚園があり、園児が外に出る心配があるので門扉はいつも閉められていて、幼稚園に電話して門を開けてもらう必要がある。

25 六孫王神社の誕生水


 六孫王神社の誕生水の手水場は二カ所ある。1つは井戸のわき、2つ目は社務所の右手。2カ所とも同じ水源だ。どちらも水が出ているときもあれば、片方だけ水が出ている場合がある。

地下15㍍ほど掘り下げる

 宮司によると、国鉄在来線(東海道本線)の拡幅工事で社域の3分の2ほどが買収された。日本古来の神と伝来した仏が同質とされた神仏習合の時代、神宮寺として社の隣接地にあった源実朝の妻・本覚尼が住んだ大通寺はこの工事で移転した。
 子どものころ(昭和時代半ばぐらい)、京都駅は現在の場所よりもっと西寄りにあった。神社の周囲にはあちこちに浅井戸があり、水があふれていた。
 東海道新幹線の建設でさらに京都七名水の一つに数えられた誕生水は水枯れを起こした。大通寺の境内にあった「兒(ちご)不動堂」の井戸も枯れた。
 このため神社は地下15㍍ほどボーリングして水が湧き出し、誕生水が復活したという。飲用は薦めていないが生水で飲めるという。
 京都の近代化、大都市化で清らかな水が湧き出ていて井戸が涸(か)れてしまった社寺や民家が多くあるという。

六孫王神社・弁天堂から湧く誕生水

 六孫王神社は鎌倉幕府を開いた源頼朝や源義経などにつながる清和源氏発祥のお宮。源満仲(みつなか)が父経基(つねもと)を弔って、かつての経基の屋敷に創建した。現在ある社の本殿は神社としては珍しい切妻造りで、平入りの本殿と拝殿が連結した造り。江戸幕府の肝入りで1701(元禄14)年に設けられた。屋根もこれまた珍しい栩(とち)の樹皮を使った栩葺(ぶ)き。

満仲の産湯に使う

 誕生水は清和源氏の祖、源経基の子ども・満仲の産湯(うぶゆ)に使ったといわれるのが「満仲誕生水弁天堂」の井戸水。拝殿・本殿は東向きで西を向いて拝む形だ。

誕生水弁財天の所在を示す石柱
社殿前の左手にある誕生水の手水場

六孫王神社は京都駅八条口から西方向に歩き東寺の北門を通り過ごして壬生通との交差点のわきにある。所在地は京都市南区壬生川通八条角。北側に高架の新幹線が見える。

壬生川通りに面した鳥居から社殿までまっすぐな参道
六孫王神社いわれ書き

 社伝やいわれ書きによると、963(応和3)年の創建。祭神は経基・六孫王大神(ろくそんのおうおおかみ)、天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)、八万大神(はちまんおおかみ)の3柱。宮司によると「御所から移して創建された」という。六孫王とは源経基のこと。経基は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で、天皇の孫であることから「六孫王」といわれる。
 境内は源経基の邸宅「八条邸」の跡地とされている。経基が961(応和元)年に臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言して、嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前に一宇を造営したのが創建という。邸内の池というのが誕生水の流れ込む神龍池。

神龍池にかかる江戸時代に石組みされた参道の太鼓橋。後ろにあるのは新幹線高架橋
誕生水が流れ込む神龍池
神龍池わきの鯉魚塚

かつて大通寺があった

 

 江戸時代の元禄年間に現在の神社が整備された。明治新政府の廃仏毀釈(はいぶつきっしゃく)で、神社とともにあった編照院(へんじょういん)大通寺は困窮、鉄道建設のため東寺五重塔そば九条大宮の交差点から東に約100㍍進んだ大宮通り沿いの南区西九条比永城町に移転した。

移転先の西九条にある大通寺。源実朝の妻・本覚尼が実朝亡き後に住んだ由緒ある尼寺
 

 大通寺は鎌倉時代、源実朝が暗殺された後、妻の本覚尼が1222(貞応元)年に創建した。神社は大通寺の鎮守社とされた。実朝は頼朝の次男で鎌倉幕府の第3代将軍。鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺された。28歳だった。実朝の死去で、鎌倉幕府の源氏将軍は断たれた。
 鎌倉幕府の執権は北条氏が握る。実朝の母、北条政子が手厚い援護をしたといわれる。寺には創建当時から伝わるとされる善女竜王画像などがあるが、寺そのものが非公開。

京都駅前の八条通りを西に進み。八条通りと壬生川通りの交差点わきにある六孫王神社


 源経基亡き後、源頼政の時代に清盛に譲られて一時は梅小路公園やJR線路敷きを含めた清盛の西八条第(邸宅)の一部となった。経基の墓と神祠は残され、平家の没落後その故地は頼朝に与えられたという。

江戸時代・元禄年間に再興された六孫王神社の社殿

 応仁の乱などの戦乱などにより社殿を失ったが、徳川幕府は1700(元禄13)年から数年かけて社殿を再興した。徳川幕府の滅亡とともに衰微し、明治政府の神仏分離政策で大通寺とも分離した。2022年、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の効果もあって、歴史好きや鎌倉幕府好きなファンがときたま神社を訪れるという。
 大通寺は1911(明治44)年)に境内地が旧国鉄東海道本線の鉄道用地となったために移転を余儀なくされた。神社は1964(昭和39)年に境内が東海道新幹線の用地として再び買収された。

六孫王神社そばにある「兒(ちご)不動堂」。かつて大通寺の境内で、水があふれていた。右に手押しポンプがあるが水は涸(か)れて出ない

 六孫王神社のそばにあり、かつての大通寺境内にあった「兒(ちご)不動堂」の井戸には手押しポンプが残る。地域の人たちによって定期的にお堂の清掃が行われ、花が生けられている。しかし名水の井戸は復活しないまま。
ここらあたりは地下水が豊富なところだった。八条から南の九条の一帯はかつて九条ネギの一大生産地だった。いまは京都駅に近いこともあって住宅密集地となった。

26 来迎院の独鈷水

独鈷で掘り当て

 空海(弘法大師)が、独鈷(どっこ)という仏具で掘り当てたと伝えられる霊水の井戸。特徴的なのは、縦に掘った井戸ではなく洞窟状の横穴の井戸。ドッと湧(わ)き出すのではなく、地中からジワジワと水が浸み出す。これこそ仏に供える閼伽(あか)水の典型だ。柄(え)の長い柄杓(ひしゃく)で水をくみ上げる。

独鈷水。黒い扉を開けると横井戸がある

 横穴の浅井戸で外気の影響を受けやすいが、水温はほぼ一定。来迎院の安井崇兼住職がEmailでの問い合わせにきちんと答えてくれた。「独鈷水は現在も湧き出し続けている。水のくみ出し方は、黒い扉(とびら)を開けてから、右側柱に掛けてある柄の長い柄杓を中に差し入れてくみ上げる。暗くてよく見えないかもしれないが、柄杓の先が水面に触れるのを感じる。下の方に深く入れ過ぎると底に当たって濁ってしまう可能性があるので要注意」という。

独鈷水の石柱がある「閼伽井」

柄杓でくむ

 蛇口をひねると水が出るのではなく、横穴に柄杓を差し入れて、水の感触を探りながらくみ上げるという動作そのものが良い。黒い扉がなにやら神秘的、秘儀的で、扉の開閉の所作に心が躍る。古い伝統が井戸そのものに息づいているようだ。寺ではコロナウイルス感染症の拡大で一時的に柄杓を出さないようにしたが現在は出している。
 独鈷水にまつわる伝承がある。江戸時代初め、後水尾天皇の後を継いだ霊元天皇が寵愛した小少将局(こしょうしょうのつぼね)という女官が亡くなった後、その女官に似せて「幻夢観音像」を造らせて本堂に安置した。

眼病に良い水

 小少将局は子供を産んだ。子どもは体が弱く、目が悪かった。独鈷水で目を洗うと目が見えるようになったという言い伝えがあり、「眼病に良い」「万病に良い」とされている。
 泉湧寺の井戸も独鈷の井戸と同じように地中からジワジワと水が浸みだす。来迎院は同じ泉湧寺塔頭で西国第15番札所の今熊野観音寺と隣り合わせにあり、東山36峰の今熊野山、泉湧寺・月輪陵のある泉山の森が水源となっている。今熊野観音寺にも空海が独鈷で地面を突いたら水が湧き出たという霊水「五智水」がある。
  来迎院のホームページによると、真言宗泉涌寺の塔頭の一つで、空海(弘法大師)の創建とされている。空海が806(大同元)年、唐(中国)に渡ったとき感得した三宝荒神で当初、自分の手で木像荒神坐像を彫ったと伝えられる。仏教の三宝である仏・法・僧を守る日本最古の三宝荒神で、木像護法神立像五体とともに国の重要文化財指定だ。

三宝荒神を祀る本堂。独鈷水は本堂わきにある

最古の三宝荒神

 鎌倉時代の1218(建保5)年、泉涌寺の長老、月翁(「がつおう」「がっとう」)律師が、公家の帰依(きえ)を受けて諸堂を建立して開山したという。応仁の乱(1467~1477年)の戦火で伽藍(がらん)が焼失。秀吉の側近だった前田利家らの尽力により再興された。
 江戸時代の1701(元禄14)年、泉涌寺長老・卓巖和尚が来迎院の住職を務めていたとき、播磨(兵庫県)赤穂藩の殿様、浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城・松の廊下での刃傷(にんじょう)事件を起こした。旗本で将軍名代の高家となった吉良上野介を刀で切りつけた事件だった。第5代徳川将軍・綱吉は怒り、浅野家断絶、内匠頭に切腹のさたを下した。

「ゆな荒神社」の石柱がある来迎院の山門

 

忠臣蔵ゆかりの寺


 筆頭家老の大石良雄(内蔵助)ら赤穂藩の武士は浪人の身となった。大石は親戚で泉湧寺にいた卓巖和尚を頼り来迎院の檀家となって、来迎院の敷地に寓居(ぐうきょ)を構えた。訪れる赤穂の浪士らも迎え入れた。元禄時代に起きた赤穂浪士の討ち入りを題材にした創作の浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの「忠臣蔵」だ。
 口が堅いといわれる京都に大石が居つき、赤穂の浪士たちが身を寄せたこと、第3代将軍・家光の側室で綱吉の生母・桂昌院(お玉)が大奥を仕切っていて京都の社寺をかばったことなどが幕府監視の目のおこぼれがあり、討ち入りの成功に結び付いたとも推察される。

茶室「含翠軒」

 浪人の大石が名水を喜んで建立したのが、来迎院の門を入ってすぐ左手にある茶室「含翠軒(がんすいけん)」。山科にいた大石は、ここまでやってきて主君の仇討(あだうち)の策を練ったともいわれる。茶室の扁額(へんがく)は、大石の直筆で、赤穂浪士の書した絵画や愛用した茶釜なども所蔵されている。この奥に心字池と苔(こけ)がきれいな庭園がある。
 明治維新後は廃仏毀釈で寺は荒廃した。寺は大正時代に修復された。寺には本尊の阿弥陀如来のほか、幻夢観音像も安置される。
 独鈷水の上にあるのが三宝荒神を祀(まつ)る本堂。荒神様をかまどの神とする庶民信仰があり、火の用心やかまどの火が絶えないよう荒神様をお祀りする家々が今でも多くある。荒神信仰は悪事災難を免れ、幸福を招くなどのご利益があるとされている。

来迎院の手前にある谷に架かる結界の太鼓橋

 この荒神さん、「胞衣(ゆな)荒神」という別名を持ち、古くから皇室が安産を祈願してきた。現在も、安産の神として信仰されている。胞衣は通常「えな」と言い、胎盤やへその緒の意味。寺では「ゆな」と言っている。
 また荒神さんのそばには七福神の布袋尊が祀られている。毎年1月の成人の日には泉涌寺とその塔頭寺院で行われている「泉山七福神めぐり」では、第4番「布袋尊」の札所となっている。

27 松ヶ崎の櫻井


閼伽井

 京都で名泉「桜井」と言えば、西陣5水の一つ、首途(かどで)八幡宮の涸れた古井戸。来迎院の独鈷水を取り上げたので、同じ浅井戸の「閼伽井」として別にもう1カ所の「櫻(さくら、桜)井」を取り上げた。

自然石の石組みで造られた浅井戸の閼伽井・櫻井

 京都市左京区松ヶ崎林山の湧泉寺墓域の境内を入ってすぐ右手に人頭大より二回りもある自然石で浅く囲っただけの古井戸がある。これも「櫻井」という。石組みの浅井戸だ。大きさは推定で横1・5㍍、縦1㍍。深さ1㍍、水深20~30㌢程度。石組みや土中から水が浸みだす「閼伽(あか)井」そのものだ。

落ち葉やごみの混入を防ぐネットをかぶせた櫻井

 地下鉄松ヶ崎駅を降りて歩いて5分くらいの場所。宝ヶ池公園スポーツ広場を通り過ぎて涌泉寺の墓地がある境内の入り口がある。入り口近くの松ヶ崎林山の斜面に張り着くように末刀(まと)岩上神社がある。「櫻井」は神社のすぐ上にある。
 あくまでも個人的な趣向だが、湧水の中でも特に「閼伽井の水」がお気に入り。古代から人々がいかに水を大事にしたか、命の次に水を大切にしたかがしのばれるからだ。静寂な場所にある斜面地のすそにあるこうした古井戸をみると、妙に心が落ち着く。だれが水を利用してきたのか。井戸水をくんだ古人(いにしえびと)、古い時代や干ばつの大騒ぎ、人々の苦労に思いが飛び、想像が膨らむ。

閼伽井からあふれた櫻井が流れる

 櫻井は今も水が沸(わき)続ける。井戸の上にはゴミや枯れ葉が落ちないように緑色のネットをかぶせてあった。井戸にたまったきれいな水が塩ビ管から下水路に流れ落ちている。2023年1月12日朝と翌13日昼過ぎに訪れた。不純物など混じり気はなく澄んだ水だった。水は飲まなかった。厳冬期なのに水はそれほど冷たくなかったが、温くもなかった。

櫻井の説明書き

 清少納言の『枕草子』第168段に京の名水を挙げた「井はほりかねの井・・・少将ノ井、櫻井・・・」とある中の櫻井と伝えられている。松ヶ崎は地下鉄の開業から急速に宅地化が進んだ。平安時代はまだそれほど開けた地ではなかったので、はたして清少納言らがここまで足を運んだかは全く分からない。

干ばつでも涸れず


 この桜井水の湧水、これまでの旱魃(かんばつ)の際にも涸(か)れなかったという。現在は飲料用ではなく、涌泉寺墓参者の供え水として使われている。井の上に「南無妙法蓮華経」の法華題目が彫られた石柱があった。

櫻井に隣接する末刀岩上神社

 櫻井に隣接して末刀(まと)岩上神社がある。28段の石段を登ると御神体の磐座(いわくら)があった。社殿はなく、古代からの磐座信仰を残す古社。磐座の左手にカシの老木が根元から倒れていた。

末刀神社ご神体の磐座。社殿がなく古くからの磐座信仰が残る

磐座信仰

 古社の末刀(まと)社といえば、下鴨神社の御井(みい)そばにある「水ごしらえ場」の磐座が末刀社から運ばれたとされるいわれがある。石質から末刀石上神社からではなく、京都市内で最も標高の高い愛宕山から運んだ磐座の可能性が大きいともいわれている。末刀石上神社の磐座の石質はチャート、水ごしらえ場の磐座は泥岩のようで石質が違った。

法華宗根本学室の石柱がある涌泉寺の入り口

 涌泉寺は1918(大正7)年、松ヶ崎にあった同じ日蓮宗の妙泉寺と本涌寺が合併した日蓮宗の寺院。両寺名を合わせて寺名を付けた。涌泉寺のある松ヶ崎堀町53の地はかつての本涌寺の寺域で、妙泉寺の寺域は現在、松ヶ崎小学校地となっている。

法華宗僧侶の学問所だった旧本涌寺檀林の講堂とされる涌泉寺の本堂

檀林講堂の本堂

 松ヶ崎林山の西隣に五山送り火の「妙」の字が浮かぶ松ヶ崎西山がある。涌泉寺は五山送り火の「妙法」の文字を灯す寺として知られる。毎年8月16日の送り火の夜、松ヶ崎集落の人たちによって「法」の字が東山に、「妙」の字が西山に灯される。松ヶ崎は「妙法」の地だった。送り火の当日、「妙」の字を見る人たちで松ヶ崎駅はごった返す。

涌泉寺参道の古色を帯びた石組み

 五山送り火の前夜と当日の8月16日の両日には、寺の境内で「松ヶ崎題目踊り」と「さし踊り」が披露される。「松ヶ崎題目踊り」は鎌倉末期、京都で初めて法華宗(日蓮宗)を広めた日蓮の弟子・日像が布教した際、村民が説法に感激してお題目を唱えながら踊ったとされている。松ヶ崎集落は鎌倉時代、村あげて法華宗に心を寄せた。

最古の盆踊りか

 大太鼓五基を打ち、男性組と女性組が向かい合ってお題目を掛け合い、「なーむう、みょう」ととなえながら踊る。「松ケ崎題目踊り・さし踊り」は日本最古の盆踊りともいわれている。

涌泉寺いわれ書き

 
 妙泉寺は京都の法華宗寺院として最も古い寺院の一つだった。本涌寺は近世初頭に法華宗僧侶の養成のために設けた学問所、松ヶ崎檀林の寺号。涌泉寺はこの松ヶ崎檀林の旧跡にある。本堂は往時の檀林の講堂がそのまま転用されたといい、法華宗檀林の講堂の遺構としては、全国的に見ても最古とされている。
 涌泉寺は櫻井に行くのと同じ地下鉄松ヶ崎駅東口の北山通りに出て、ここの信号を含めて東に4つ目の信号を左に曲がり、松ヶ崎小校舎と校庭の間の道を上ったところにある。(一照)(つづく)

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