京都・街の湧水6

⑳深草・茶わんこの水

 東山連山の36峰目、伏見稲荷のある稲荷山から南に続く桃山丘陵。最南端が宇治川で切れる。伏見はかつて伏水(ふしみ)といわれ、丘陵の森がはぐくんだ地下の畜養水と宇治川及び伏見と京都との水運の利便を図って開削された宇治川派流の伏流水が合わさった水の宝庫だった。

桃山丘陵のすそ野

 茶椀子(ちゃわんこ)の水がわく井戸は桃山丘陵のなだらかなすそ野にあり、丘陵が畜養した水が直接的にわき出るとみられている。水をくむ手押しポンプを押すと水がドッと出る。
 飲用不可とされているが、試しに一口飲んでみた。鉄分の濃い味がして口の中が渋柿をかじったようにいがらっぽくなった。渋成分が多いのだ。柄杓(ひしゃく)の底に鉄分が付着して薄い茶色に染まっていた。井戸水がずっと流れ続ける下の小石は鉄分の影響か赤銅色になっていた。

鉄分が多い

 茶椀子(ちゃわんこ)の水の井戸があるのは京都市伏見区深草野出町27の1。京阪電車の龍谷大前深草駅や京阪・JR稲荷駅から緩い登り坂で両線路をまたいで徒歩10~15分くらいの場所だ。宝塔寺へ向かう道路沿いの地蔵堂わきに井戸がある。
 緩やかな傾斜地のすそ野は宅地開発が進んだ影響で飲用不可になったのかもしれない。

桃山断層が幸い

 茶椀子の井戸より下方の南北に名水がある。北には御香宮の「御香水」、南には藤森神社の「不二の水」がわく。一帯は名水の宝庫だ。深草・伏見地域は粘土層の上に砂礫層があって水が浸み込みやすく、桃山丘陵に降った雨が地中に浸み込んで「桃山断層」に沿った砂礫層がずれた場所で湧き出るといわれている。

住民が清掃

 茶椀子の井戸がある場所はゴミ一つなく、きれいに掃除されている。2014(平成26))年に、地域の人たちが地蔵堂の祠(ほこら)を含めて周辺を整備したという。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての歌人で「千載(せんざい)和歌集」の選者である藤原俊成(しゅんぜい)の和歌「夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里」と彫った石碑がある。深草は鶉(ウズラ)が多く生息していたといわれ、俊成はこれを詠(よ)んだ。

 茶椀子の水のいわれ書きによると、都に住む茶人の使いの者がいつものように茶の湯に用いる宇治川の水をくんで帰る途中、この近くまできて水をこぼしてしまった。使いの者はこの地にわく水を持ち帰り、知らぬ顔をしていたが、主人はいつもの水と違うことを見破った。問い詰められた使いの者は一部始終を話したところ、叱(しか)られるどころか、宇治川の水よりも良いとほめられたという。

21北向不動の洗心水

 北向不動の洗心井、解穢の水はかつて浅井戸で伏流水が湧き出た。「保健所の水質検査でも水道水よりも良い水とされた」という。往時はカルシウム。マグネシウムの含有量が1㍑あたり50㍉㌘という軟水だった。

 

枯れた浅井戸を掘り直す

 住職によると、近くに高速道路が建設され、浅井戸は水が枯れた。20年ほど前のことだ。寺はやむなく井戸を深さ15㍍ほど掘り直した。再び水が出たが、マグネシウム含有量が多く、水質基準を満たさなかった。飲用不可とある。飲んでみた。口当たりがよく、まろやかだった。

お龍洗心井も

 この洗心井戸の水を本堂の東側に引っ張って「お龍洗心井」を設けた。蛇口があり、ペットボトルに入れられるようになっているが、洗心井と同じ水だ。「煮沸して飲む」と水を持ち帰る人もいる。

  お龍洗心井と隣り合って、行者が滝に打たれて修行できる場所がある。滝行の水も解穢水が使われている。

天台宗の単立寺院で一般に「北向(きたむき)不動」の名で親しまれている。住職の話では、創建から江戸時代までは空海の真言宗だったが、明治時代に入って最澄の天台宗に変わったという。寺伝によると、寺はかつて12世紀から14世紀ごろにかけて代々の上皇が院政をしいた鳥羽離宮の一角にあった。

かつて鳥羽離宮の一角

 1130(大治5)年、鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮の一角に創建し、勅願寺とした。開山は真言宗中興の祖とされる興教(こうきょう)大師。大師は不動明王を王城鎮護のため平安京に向け北向の本堂に安置し、鳥羽上皇から北向山不動院の名を賜った。応仁の乱や戊辰戦争の兵火に遭い、離宮は荒廃した。

 今月16日午後2時から大護摩をたく「一願成就の護摩たき」があった。本堂で不動明王に願いを聞いていただけるというありがたい行事。檀家のみなさまが参加し、参加者におしるこがふるまわれた。
北向不動の北東に鳥羽天皇の安楽寿院陵、西に白河天皇の成菩提院陵が、東に近衛天皇の安楽寿院南陵がある。
正式名称は北向山不動院。場所は京都市伏見区竹田上菩提院町。京都市営地下鉄・近鉄奈良線の竹田駅から歩いて10分ぐらい。

22伏見・清和の井

料亭の井戸

 伏見・墨染通にある料亭「清和荘」玄関の右手にある「清和の井」から水がほとばしっていた。休みなく出ている井戸だ。

 2023年1月2日、正月三が日の料亭お休みのときに尋ねた。「清和の井の写真を撮らせてくだい」と伺った。突然だったのに、気持ちよくご主人らしき人に勝手口を開けていただいた。

「料理にも使っていますから。地下100㍍ほどぐらいですかね」と教えてくれた。

料亭の料理に使う水

 実際は地下70㍍からポンプアップしているという。清和荘はすべての料理に、このわき水を使っている。同社ホームページでは、清和の井の水を使うことによって『天然利尻昆布や本枯れ節だけにとどまらず、潮(うしお)汁や精進出汁にも「命」を与え、近郊の契約農家から届く「京の伝統野菜」を始め、京都の魚介類や全国から運ばれる新鮮な食材が出汁によって一体となり、豊かな香りとともに清和荘の料理を生み出す』とアピールしている。

 同社のホームページによると、創業家の「竹中家」は1800年代中ごろ、墨染で農家を営んでいた。1908(明治41)年に祇園で高級食材店「八百伊」を創業。その後、深草で缶詰製造業を起こし、1939(昭和14)年に深草新門丈町に移転し本家もこの隣に移った。

当主は3代目

 1956(昭和31)年に現在地(伏見区深草越後屋敷町8)の居宅を改造して料理旅館を開業。現在は3代目が調理場に入っていると記している。現在、祇園新橋にある「辰巳稲荷」は初代が信仰していた名残という。


 門を入ってすぐ左手に茶室がある。料亭のすべての個室から美しい日本庭園「池泉回遊式庭園」を見ることができる。清和荘は夏の期間、この水を利用して「流しそうめん」も提供している。

23伏見・酒蔵「山本本家」の白菊井

コロナ感染症防止で休止


 伏見の酒蔵・「山本本家」直営の居酒屋&鳥料理店「鳥せい」本店わきにある「白菊井の水くみ場」は、コロナウイルス感染症のまん延防止のため、「3年前から」水の供給をストップした。2023年1月4日に訪れた時も水は止まり、手水鉢もふたをかぶせてあった。「山本本家の方の井戸は水が出ています」と説明された。

 もともと「白菊井の水」は山本本家が醸造する清酒「神聖」の仕込み水。いったんタンクに貯留し、地域との共生を期して「鳥せい本店」敷地内に引水して水くみ場を設けた。

みんなに水を分け与え

 水が出るすぐ上にボタンがあり、ボタンを押すと一定量の水が出る。口あたりの良い水を求めて、多くの人が行列をつくって水をくみにくる。1人1回10㍑までの制限つき。近所に迷惑がかからないよう夜間の取水は控えるよう注意書きがある。

 白菊水は御香宮の御香水と同じ水脈とされている。白菊水のいわれ書きによると、「白菊を愛(め)でる仙人が、この地に日照りが続き、稲が枯れるようなとき、私の愛でた白菊の露の一雫(ひとしずく)より清水が湧(わ)き出す」との伝説にちなむという。湧水が豊富なこの一帯は伏見にある蔵元22軒の多くが立地する。
 同じ「白菊の井」の水が伏見区役所近くの「金札宮」にある。いわれも同じ。こうした事例は国内各地で素材が水に限らず、どこにもあることなので「本家」とか「宗家」とか「創業家」など、ここの場合は古い歴史があることなのでどちらが先か本元かを詮索(せんさく)してもさほど意味がないことだと思う。

白菊の露のごとく

 山本本家は 江戸時代前期、1677(延宝5)年に伏見区上油掛町に創業。1868(慶応4)年に薩長軍を主とする官軍と徳川幕府軍が戦った「鳥羽伏見の戦い」の砲火で伏見一帯は酒蔵が全焼するなど壊滅状態となった。山本本家はこの年すぐに立ち直って再興した。これまでに「神聖」を主に「松の翠」「明けごころ」などを醸造してきた。

 「松の翠」は1980(昭和55)年に発売された。茶道家元・表千家が茶事で使う唯一の清酒。やや辛口で後味のすっきりさが特徴とされ、京懐石に最適な純米大吟醸という。
 また、酒蔵一棟を改良して、山本本家の酒を味わえるように、直営「鳥せい」を1976(昭和51)年に開店し、白菊水の水くみ場も設置した。
(一照)(つづく)

 

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