休漁

干潟漁の休漁


 干潟、浅海での漁の休みは2つのタイプがあった。
 

シケ


 1つは言わずと知れた風が強い時や雨模様の時化(シケ)。風雨が強まると舟が浸水したり、風に流される。運が悪いと転覆、遭難に遭った。「板っこ一枚、下は地獄」-文字通り海、漁で生きる者は自然の力に自分の命運をかけた。生きるも死ぬも運任せの一面があった。
 内房の漁師たちはいつも朝から晩まで庭先や浜辺に出ては西の空を見つめた。海を挟んで向う岸は丹沢山系があり、その左端の奥に富士山がそびえていた。丹沢山系の東端には大山があった。秋の空は天気占いがあたった。魚のウロコのようなイワシ雲が現れると3、4日して天候が崩れた。
 天気が悪くなる前兆として、大山に雲がかかり出すと古老は「雨が降る」と予測した。大山は「雨降山」「阿夫利山」(あぶりやま)と言った。富士山が朝から晴天で良く見える日は、午後から必ず強い西風が吹いた。小雨が降り続いた日、震度1、2程度の地震があると、漁師たちは「雨が止む」と予言した。予言通りすぐに小雨がやんだ。高校生のころ、この天気占いにはすごく感心した。地球の磁場と気圧の関係があるのかもしれないと思ったりした。古老は観天望気に博識だった。
 時化は急にやってくる。晩秋から厳冬期にかけて、晴れの穏やかな日でも突然、東京方面の空が黒い雲で覆われて、突風の北風が吹き荒れる時がある。悪い時は強い雨も降る。天気予報でも報じられないし、予告の前兆はない。黒い雲が見えたら漁は中止して急いで帰るしかない。そのまま漁を続けていると命取りになりかねない。
 早朝から風雨模様だったら当然その日は時化。船だまりの揚げ場にはシケを知らせる「赤旗」が竹竿に掲げられた。沖合の底引き網漁は当然出漁できなかった。朝方、上天気で出漁してから天候が悪化するのが一番の難儀だった。
 小雨の時は朝から出漁する時もあった。雨降りの日は特に天候の変化に気を遣った。干潟漁なのに、天候の悪化がなんで難儀かというと、上げ潮の満潮時前後にする漁があるからだった。掛け網の刺し網はこの満潮前に仕掛けた。仕掛けてから網を揚げるまでにやや間があった。少しの時間だったが、この少しが油断大敵だった。
 風雨には少なからず前兆とか予兆があった。漁師なら「並みの勘」をしていれば、前兆は分かった。風雨が強くなって帰るのが厳しくなりそうだという勘が働いたら、網を揚げずに急いで帰るのが当たり前の所作だった。この勘も漁師の腕の良し悪しの一つに入った。
 若いころ、房総半島突端の野島岬にある白浜漁港からカツオ釣りに出漁したことがあった。漁場は大島との境の黒潮の流れが速いところ。船の中央付近「胴の間」や船尾の「艫(とも)」から孟宗竹を横に伸ばし、テグスの先に大きなルアーを付けて快速で走る。この日は出漁した時は上天気だったが、漁場に到着したら急に天候が荒れ出した。風が強まり、大波が発生した。
 船は木の葉のように揺れて風と波に翻弄され、大波の間に入ると前が全く見えなかった。胴の間の両舷(げん)と艫(とも)に竿系4本を下げた状態で帰りを急いだものの、竿は大波で4本ともバキッという音を立てて折れてしまった。船倉に入って横になったが、揺れがひどく転がって寝るどころではなかった。やっとの思いで漁港に帰ると船酔いがひどく頭がクルクルと回っていた。外洋のシケは怖いと思った。
 アサリ採取は漁の途中で雨が降っても続行したが、雨水に弱い魚貝類や底生生物は即座に中止した。ゴカイ類などは汽水域に生息しているのに真水に弱く、雨降り時は採取しなかった。エサ掘りは雨が降ると中止した。アサリは水質汚濁にも雨にも強かった。

「潮間」


 干潟漁で休みのパターンのもう一つは「潮間(しょま)」。漁師は言葉を端折(はしょ)って短めにする。「潮」や「塩」は「しょ」と端折った。漁の最中や大時化の時、船上は大きな声でも聞こえないことがしばしばある。この言葉の伝達を考慮して、言葉を短く発音して何を言っているのか伝達できるようにしたのだと思う。「潮」は「しょ」、「潮時」(しょとき)とか「貝」や舟を操る「櫂」(かい)は「け」と言った。
 潮との干満の差、いわゆる。大潮、小潮のこと。干満の差は月の引力によって月と地球の位置関係によってひきおこされ、日に2回、干満の差が起きる。満月と新月の時大潮となり、上弦・下弦の月の時は小潮となる。大潮は干満の差が大きい潮時。小潮は干満の差が少ない潮時。この小潮の時に最も干満の差が小さい潮を「長潮」と言った。満潮と干潮の差が中くらいを「中潮」と言い、小潮から大潮に向かって干満の差が次第に大きくなるころの潮を「若潮」と言った。
 大潮のころは干満の差が大きいこともあってプランクトンが動き、このプランクトンをエサにする小魚、小魚を追う大型魚と各種魚類の動き、採餌(さいじ)行動が活性化する。漁にも釣りにも潮時は重要だ。
 干出干潟が沖合300~1000㍍にまで広がっていた内房の内湾では小潮時には干出してもせいぜい最大で50㍍ぐらいだった。干潟漁は沖合漁業に比べて潮時に大きく左右される。大潮の引き潮(漁師は下げ潮という)時、アサリ採取などの干潟漁は主に干潟が干出するか海水が膝ぐらいまで引いた時に行われるからだ。小潮など潮時が悪い時は「潮間」といって漁は休みだった。採捕する魚介類や底生生物によっては大潮以外は漁がないものもあった。
 例えば、外洋でススキやタイなど大型魚の釣り餌となった「アカムシ」の採取は、干潟の干出が大きな条件だった。砂地と砂泥地を農耕用のマンガで掘り下げる作業は水深10㌢程度でも土手を気づいて海底を掘り下げたが。掘っている最中に干潟は完全に干出した。生息場所に粗塩を振って採取するマテガイや、毛筆で追い立て誘い出して採取するアナジャコは干潟が完全に干出しないとできない漁だった。マテガイ、アナジャコとも生息数が少なく、専門に取る漁師もいたが、ほとんど子どもの遊びだった。(一照)(つづく)

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