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花粉と歴史ロマン40 幻のコケスギラン①

はじめに
 
表紙写真は、檜枝岐村ミニ尾瀬公園から、燧ヶ岳(海抜2356m)を撮ったものです。雪の残る山肌の尾根沿いに針葉樹、雪の残る斜面に落葉樹が分布しています。手前は雪融けのブナ林、新緑の季節を迎えていました(5月12日)。
 亜高山地帯には、針葉樹と落葉樹の混在した森林が分布しますが、過去の寒冷期に年平均が8℃低下した時代を想定すると、気温帯が約1,500m降下しますので山地帯上部の森林が地上の世界に現れることになります。
 現在、2300m付近までオオシラビソ(モミ属)コメツガ(ツガ属)が落葉樹と混交するが亜寒帯林を形成しています。この亜寒帯林に覆われていた時代があった!ことを示すことができるのが、花粉分析です。

1 亜寒帯林に覆われていた1万年前頃

 中村純先生の名著「花粉分析」(1967年9月15日、第1刷発行、古今書院)は、光学顕微鏡像でも花粉膜の断面や表面の微細構造が捉えており、正確さを追求された先生の姿が思い出されます。写真だけではなく、索引も用語別(参考文献リスト・人名・植物・一般)に整理されており、他に類を見ない丁寧さで編集されていました。
 口絵写真に取り上げられた中に、氷期の落とし子とも言えるコケスギランが登場していました。コケスギランは小型のシダ植物で、胞子の形に特徴があり識別可能なものでした。
 ただし、当時はシダ植物の胞子に関する図鑑が無かったので中村先生の写真だけが頼りでした。いつか、低地では消えた幻の「亜寒帯林」の証となるコケスギランの宝探しが目標となりました。

1979年10月22日
 大学院生となった頃、太平洋側平野部を調査対象とした。東北本線の弟分のような常磐線は、仙台から南下する間もなく広瀬川、名取川を渡り、岩沼駅を過ぎると川幅の広い阿武隈川を渡り東北本線から分かれる。県境を過ぎると福島の空気が入ってくる。奥羽山脈と比べ標高が低く、車窓から見える山陵は柔らかにつながり親しみを持てた。新地駅で降り、徒歩、いくつかの候補地を目指す。
 調査といっても、まず現地に立つこと、そこで何ができるのか?稲刈りの終わった水田で考えていた。犬に吠えられながら、野帳に何も書けない無力感に包まれた。それでも、研究を開始したことに満足できた。次回は、水田の地質を検土壌で調べよう。
 いくつか地図上で候補地を決めながら、途中、阿武隈山地内に玉野溜池を発見した。

国土地理院地図 標高図より引用 図中点線部分右端の凹地に玉野溜池がありました。

 相馬に向かう国道115号線の盆地の中に見つけた湿地での試掘、検土壌でサンプリング試料の適否を確かめる。調査は生物教室の四駆の自動車が利用でき、また職員の方(園丁さんと呼ばれていました)や院生仲間の協力もあって、恵まれた環境にありました。ただし、炭素年代測定などの経費は主要な研究テーマ以外には支出が困難で、論文化のブレーキの一つになっていました。1979年に検出していたコケスギランの胞子を含む堆積物の調査は、眠ることになり、協力していただいた皆様には無礼が続きました。その後、2010年に、2回目の調査でも古い時代の堆積物に遭遇し、その後、他の地点でも幻の亜寒帯林が実感されました。

 私が遭遇した亜寒帯植生との遭遇は、以下の3箇所です。地点名・(年代)・(論文の公表年)

福島県 玉野溜池 (約4〜3万年前)(2010年)
栃木県 南那須町 (約2〜1.5万年前)(2002年)
長崎県 壱岐市 (約1.7〜1.2万年前)(2022年)

2 玉野溜池とコケスギランの胞子

青葉山生物棟6Fの学生部屋で、冷房が無かった!なんと半袖下着

 正確なイメージが不明なまま、顕微鏡を覗いていた時、見慣れた落葉広葉樹の花粉世界の中に大型のモミ属やトウヒ属、ツガ属とともに、コケスギランが出現しました。

4集粒のものが単粒状態で検出されました。コケスギラン亜属の小胞子には単棘状の突起が特徴で
ただし、
「先端の形状には尖っているもの、先端が切られたもの、分枝したものなど多様なもの」
(那須・瀬戸 1986)があることが記されていました。
この写真ではやや不明ですが、棘の特徴から単棘状型とみなしました。

  コケスギランの胞子(小胞子)が多産(約12%)した層位(深さ180cm)は、樹木花粉が約60%、草本は8%程度、シダ胞子が約33%の構成比で分析されました。五葉性マツ属ツガ属を主とする針葉樹とコナラ亜属を主とする落葉広葉樹が混在する森林が想定されました。約30年の時を経て、年代測定を依頼した結果、深さ157cmの炭素年代が約3.3万年前でしたので、コケスギランを検出した層準はそれよりも古い年代になります。
 2009年に、幻のコケスギランを求めて再度、サンプリングに出かけた時、地点は異なりましたが深さ240cmで約4万年前と出ましたので、この付近にはMIS3(酸素同位体ステージ:約6万年前〜約4万年前)の堆積物があることがわかりました。この年代(MIS3)の次の時代(MIS2)が、最終寒冷期を含み、約1万年前に現在の温暖期(MIS1)に入りますので、MIS3の後半は寒冷期に向かう直前の冷涼な気候と考えられます。
 ただし、2回目のコケスギランは検出されずに終わりました(残念!)。

モミ属(大)とマツ属(小)の花粉化石:玉野溜め池
五葉性マツ属とブナの花粉化石(玉野溜め池)

3 MIS3(マリン・アイソトープ・ステージ3)の前と後

   MISとは? Marine Oxgen Isotope Stageの略です。海洋酸素同位体ステージとして、酸素が寒暖の指標になっていて、偶数寒冷期奇数温暖期を示します。
 ここでは酸素の同位体が使われています。重い酸素(18)と軽い酸素(16)からなる2種類の水分子の地球規模での移動が関係します。水は海と陸で循環するのですが、寒冷期に遠くの陸に運ばれた軽い水分子は、氷になって閉じ込められるため、海洋に戻りません。地球規模の気候変動によって海水中の2種類の水分子の比率が変わります。
 海洋底は陸地からの堆積物の影響が及びにくく、海水中の生物の死骸が底に蓄積します。その長期間でありながら比較的薄い堆積物の酸素の同位体比(18と16)を調べることによって、過去の気候環境が復元できるのです。
 現在から過去に遡って数字が増えてゆきます。現在は、MIS1(温暖期)ですが、直前にMIS 2(最終氷期を含む)がありました。玉野溜池の堆積物はMIS3なので、温暖期なのですが、寒冷期に向かう移行期になります。

 2回目の調査では、コケスギランの検出はできませんでしたが、約3万年前前後の気候変動に理解が進みました。「幻のコケスギラン その2、3」に続きます。


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