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花粉と歴史ロマン  海外調査へ

1 夢の実現を前にして

 野外研究に関わる者にとって、海外調査は憧れであったが、学生時代に経験することはできなかった。大学院終了後、2年目に高校の教員となり先輩教員に揉まれながらも充実した4年目の春、次年度に短大への道が開かれました。高校の教員時代に、M先生から勧められていた論文を含めて審査対象となり短大の専任講師に採用されました。1985年、就職先の短大(初等教育科)では理科教育担当として、幸いにも花粉分析をおこなう理科室と研究室など設備が整いました。
 当時の教員の待遇は恵まれており、週の担当講義数(4ないし5程度)、研究費とは別に研究室用図書費など、給与面も含めて、国立大学に勤めた友人と話をしても遜色はなかった。ただし、研究機関では無かったためか海外調査への誘いはありませんでした。
 一方、1980年代後半までは経済的にバブリーな時代でもあり、短大への進学希望者も多く、経営基盤に余裕があり教員の海外研修の制度も整備され、その第1号として1992年に派遣されることになりました(この経緯は別に示します)。
 英国留学の実績(欧州の花粉形態を学んだこと)が評価されたのか、ロシアのバイカル湖の湖底堆積物の分析につながりました。

2 Horie先生との出会い
 
1988~1991 年当時、ソ連がロシアに移行し、国際的な研究協力を求める動きが日本にも出ていました。バイカル湖の湖底堆積物の解析を目的とした研究計画(京大名誉教授Horie先生)にも、花粉分析が含まれており、数十年にわたって研究に従事できる若手の30代の研究者が求められていました(厚い堆積物の分析には時間がかかるので)。Horie先生から、M先生経由で間接的に声がかかりました。
 Horie先生は、琵琶湖湖底堆積物の解析で実績を重ねられており、世界各地の構造湖を研究されており、ドイツ(ポツダム)に本拠をおいた研究組織を運営されていました。

 1995年1月18日(水)、私は既に40歳を過ぎていたが、面接をかねて成田のANAホテルに呼ばれ、様々なお話を伺った。先生は食事中でも何ら気にせずに、自由に話をするようにとのことだった(大胆!)。その後、バイカル湖湖底堆積物の分析依頼が私を含めた3名に来ました。5gにもみたない少量のサンプル250個の分析に着手することになりました。分析は私と先輩のKuroさん、後輩のMoriさんだった。Moriさんの頑張りもあり、期限内に分析を終了させ、不十分な結果ではあったが、Horie先生との共著論文になりました(世界の古代型遺存湖底深層掘削の国際共同研究計画に関する立案と検討No.9 1995)。

 勤務先では考えられない国際的な研究者との交流が始まりました。
バイカル湖の調査が終わってからも、自宅にも夜間、Horie先生から国際電話がかかり、オーストリアのDr.Bortenshularger 博士とともに立山に同行することを依頼され出かけました。(バイカル湖調査の後の話が先になりますが、以下、)

2−3 1997年10月16日深夜

 富山駅前のホテルで合流し、翌日の立山は、自家用車の乗り入れが制限されているため、Horie先生が手配されたバスに、富山大の先生お二人と、Horie先生ら、博士と乗り込み、10月17日、立山室堂の視察に同行しました。その際、4段に分かれた「称名滝」を見下ろす滝見台から、滝口に氷塊を想像していたと話されていた姿が印象的でした。
 これに先立つ、8月のバイカル湖調査の際に、イルクーツクの地学研究所群のロガチョフ教授に挨拶するようにと指示を受け、現地での面会は、秘書の部屋から、控えの部屋で面会の順番待ち、そして入室、その段取りには驚かされましたが、帰りに紫色の鉱物標本をお土産にいただきました(鉱物名いまだに不明です。)。

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バイカル湖の自然がデザインされています。後日、その彼がHorie先生に呼ばれて京都に来られ、会議終了後に地下鉄で乗り合わせた際、デパートの降車駅を聞かれた時(日本のウィスキーを求めて)、少し照れていた様子、酒好きの無邪気さを共感した次第です。以下、バイカル湖の調査に戻ります。

3 1997年と1998年は、 バイカル湖の東と西北部

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バイカル湖は、瀬戸内海と同程度の面積を持つ世界最大の淡水湖です。・記事中の地図は全てGoogle mapを利用しました。

 表紙写真:コケモモ取りの老夫婦、犬を連れて、穏やかな人々
 日本の高層湿原と同様に湿原内に微高地があり、犬が座っています。老夫婦は、日本人は背が低いものと思っていました。戦時中の日本人と出会っていたのかも知れません。手製のコケモモ取りの器具は、まるで熊手でした。

4 1977年 バイカル湖へ

 1997年 バイカル湖周辺の湿地の堆積物を対象とした研究計画が組織され、私にも声がかかり、これが、初めての海外調査となりました。
バイカル湖南部から東側の8/26~9/18の旅でした。行程はバルグジン川の河口に半島状に突き出たスビトイノース付近まで北上し、折り返すもので、ブリヤート共和国(ウラン・ウデが首都)の牧歌的な地域でした。

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夕陽を追いかけるように西に向かい、バイカル湖を横断してイルクーツクへ

左:新潟空港から4時間半でバイカル湖(東岸にコトケリ湖)、中央:湖水学研究所、右:バイカル湖南端 石炭積み出し港、ダーチャ(農園付き住居)、右手後方にハマルダバン山脈(いずれも1997年)

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森林地帯を背景とした牧畜と農業の世界

上段左:シベリア鉄道の踏切、右:民家裏庭に墓?、下段:欧州赤松の積み出し、いずれも1997年

この調査に続いて2002年まで計4回の調査に加わりました。以下、はその後の調査の概要です。
1998年 バイカル湖、水中翼船にて北部セベロバイカルスクまで行き、BAM鉄道にて途中駅タクシモにて下車し、かつての愛車いすずロデオビッグ・ホーンにて、西方チャラを終点として折り返した調査行でした。一段と乾燥した地域で、農業地帯の牧歌的な雰囲気はなく、やや殺伐とした地帯の調査行となりました。

2000年イルクーツクから、国内線でノボシビリスクまで移動し、その後、ドイツ製の調査用自動車(ベルリン自由大学のプレートが車内あった)にて、西方のカザフスタンに迫るチェイニー湖まで、シベリア中央部、穀倉地帯?を中心とする湿地調査でした。

2002年イルクーツクから、国内線でハバロフスクさらに東部の、ニコラエスクアムールに乗り継ぎ、オホーツク海に面するチリャ、など、アムール川河口部の調査でした。ウラジオストック経由で日本に帰国した。

5 1997はじめてのシベリア(バイカルスクまで)

1997年8月26日(火曜日)〜9月18日(水曜日)までの、思い出です。

 まだ、メールが普及していなかった頃です。Fax.が最速の連絡手段でした。Horie先生からのFax.を短大で受信確認し、新潟に向かいました。14:08分発あさひ316号、16:30分新潟着、ホテルサンルート新潟からHorie先生に返信し、その後、仲間と日本の味を堪能する(「鯛屋」で夕食、6,000円也)。その後、少し飲んだ後、ホテルでミーティング。2回目の方もいて、事前準備がしっかりできています(個人装備として、トイレットペーパー???便座消毒綿????、セーター?!!、フィルム用X線カバー、レトルトご飯)。

 当時のロシアは、地方都市では、たとえホテルであっても、お風呂やベッドがないこと?!!もありました。

 8/28  イルクーツク市内の観光(トロリーバスで、2000ルーブル、ビール1杯が30,000ルーブルなので、)。1ルーブルは1/100円程度でした。地下鉄もある大都市でした。

 8/29 朝食後、10:10に 12人乗りマイクロバス(ラトビア号)で出発、が、しかし、10:40 故障14:40 修理終了後、15:00昼食(シェレホフ町)、目的地ははるか先のバイカルスクのソルザンの町です。修理に4時間かかってしまった。原因は?旧式の車であったこともありますが、そもそも、日本から提供されていた自動車が、使えなかったことでした。

 その理由は?ロシア側リーダーの所属先にありました、彼は、イルクーツクではなく、さらに西方のノボシビリスクの研究所に所属していたためでした。「事前の打ち合わせはできていなかったのでしょうか?」などと考えてはいけません!

”This is Russian Reality!”  に慣れること!!

 結局、目的地のバイカルスク付近に到着したのは夕方7時になり、調査を始めたものの7時50分頃、雨となり観察中止になりました。

途中の5:30 バイカル湖南端のクルトュクで、ブリヤートの人々の出店を見る。オームリ(サケ科の淡水魚の燻製、コケモモの実、マツの実、キノコなど)の、卵はイクラと発音されていました。

湿地の調査、もちろんゴム長靴

 この湿原には、戦場ヶ原で初めて見たヒメシャクナゲに出会いました。10cm足らずですが、立派な樹木です。また、ホロムイソウもあったのですが、もう少し注意深く観察したり写真を撮っていれば、と、今更ですが、悔やみます。

 ヒメシャクナゲの学名は、Andromeda polifoliaです。属名は、「ギリシア語の女性名詞、ギリシア神話の美女でペルセウスに救われたAndromedaに因む」。とあり、種小名は「シソ科のTeucrium poliumのような葉の」、とあり、何やら、伝統的な解熱剤の成分を含む植物のようです。学名については深追いせずに、次に進みます。スネズナーヤ川ツーリストキャンプ場で宿泊 オームリを食しました。

8/30  翌日もボルショイ湿原での植生調査、バイカルスクに戻りホテルで標本整理。8/31  バイカルスク近郊の登山(11:20登山開始、17:30モレーン観察、22:00登山口に戻る(日が長いので夜が遅い?)。運転手のアンドレさん、呆れてました。9/1 標本の整理の後、タバチニエ湖へ、堆積物採取、堆積物中にノジュールとメモあり。

ハマルダバン山脈
ナキウサギ ピントがぶれてしまいました。

ハマルダバン山脈、標高1,140m付近にモレーン(山岳地の氷河の痕跡)

6 バイカルスクからセレンギンスクへ

 Google mapのおかげで、日本語地名を頼りに、振り返ります。

9/1.   8:30起床、同室になったMo氏が日本茶を入れてくれました。既に日本が遠く感じます。バイカルスク市内の見物、ソニーのプレイステーションの看板がありました。 バイカルスクから20km足らずで、ブリヤート共和国に入る。

 さらに、セレンギンスクまでの道のりは、標高2,000mを超える峰が続くハマルダバン山脈とバイカル湖に挟まれた、平坦な舗装道路だったと思う。沿道は針葉樹は少なくカバノキ、マツ、ヤナギ、ナナカマドが続き、イルクーツクから241km付近のバブシュキンをへて、堆積物採取を行いながら、22:40分 セレンギンスク到着。

 セレンギンスクに向かう途中、ロシア側責任者セルゲイ氏の、2輪荷車の右がわタイヤがパンクする。が、しかし、彼はペットボトルの水をタイヤにかけ、猛スピードで走り出す。Special techniqueだと言う。

いよいよ出発!

セレンギンスクの街はレストランがあり、酒の提供はもちろん、40人程度を収容できる本格的なものでした。

が、しかし、私たちが宿泊したホテルは、洗面所のお湯は出るものの、風呂なし便座なし。レストランで見かけた若い都会的な女性たちとの不調和は?日本の田舎の素朴な人々の暮らしは、ここにはない。

9/2  7:30起床、9:00朝食時、Newsで英国妃、ダイアナさんの交通事故(8/30)を知る。セレンギンスク出発時、タイヤの修理のため、16:00 出発。河口デルタにて、流路が複雑に分岐して定まらないデルタ地帯を、丘から望む。斜面は放牧地になっているが、柵は無い!!!。河口はカキツバタの大群落(花の時期はどのようになるのでしょう?)。それにしても大群で襲ってくる蚊蚊。

セレンガ川河口のカキツバタの群落とのことでした。多分

9/3  昨夜、ホテルでモンゴル人のマラソン選手(ガゾリンと聞こえました)と交流する。怪我の治療のため陸路モスクワの病院まで行くそうだ。記念に彼の鉛筆画をいただいた。セレンギンスクの夜空は、驚くほどたくさんの星、星座の知識があればと、今さらながら残念でした。

モンゴルのマラソン選手から頂いたウランバートルのスケッチかな?

セレンギンスクから、セレンガ川をフェリーで渡り、コトケリ湖 地質学キャンプ所へ(ガリーナさんの熱烈大歓迎を受ける)

朝食と歓迎の夕べ

 ガリーナさんが、用意してくれた朝食には、日本では「サジー」の名で流通しているグミ科ヒッポファエ属(Hippophae L.)のジュースがありました。私のノートには(味噌風味のアプリコットジュース?)とありました。

約1万年前、欧州の大陸氷河が後退を始めた頃、先駆的な植物の1種として生育地を広げてきました。その花粉が当時の堆積物に含まれているのです。

 この他に、当時の寒冷な植物相を示す代表的な3種が、ハンニチバナ属(Helianthemum)、既に海を渡った花粉で紹介したマオウ属(Ephedra)、そしてチョウノスケソウ属(Dryas)です。

マオウ属の花粉とグミ属の花粉(SEM像)

37:マオウ属の花粉、40:ハンニチバナ属の花粉、そしてグミ属の花粉です。羊の顔のように見えますが、花粉の側面(赤道観)のSEM画像です。

 いずれも、パイオニア植物と呼ばれる、厳しい環境に適応力のある植物ですが、このジュースの材料となったサジーは、窒素固定細菌との共生関係を持ち、荒地の養分の少ない環境にも耐えられます。その関係からか、ビタミン類が豊富で食品化されているそうです。ただし、日本に自生がないことから、和名がありません。

 なお、学名について(Reder's Digest,Trees and Shrubs)には、ギリシア語由来で「馬を艶やかにする」(私の意訳)、効用が古くから知られていたようです。先駆的である強さは、明るい環境に支えられますが、やがて他の植物が侵入してくると、日照が不足し置き換えられてゆきます。

 9/4 , 9/5, 9/6, 9/7とコトケリ湖周辺で、堆積物採取。9/5のガリーナさんが用意してくれた夕食には、ヒポファエア(グミ科植物)のジャムジュース、上の写真の黄色い液体、赤かぶのみじん切りにマヨネーズ、ジャガイモの煮物、ナンに似たパン、夕食後にサウナ風呂、Hippophae rhamnoides(ヒポファエア)は、日本ではサジーとして流通しているようです。

ヤナギランの花咲く野辺で

 9/10 沿道の開かれた土地にヤナギランを多く見ました。山火事後に大群生を作るそうです。The sheer beauty of wild flower needs no emphasis.(英国留学先のDr. Peter Moore先生の言葉)。荒れた土地に咲き乱れる姿、ほっとしました。

スビトイノーズ 砂州でつながる(tombolo)

9/9 ウストバルグジンで試料採取の1日を終え、夕食、小さなレストランに、我々6人が入店、大慌ての女性が電子レンジで料理を温め大満足した。

が、しかし、その晩の午前0時、Moさんを除く5人がトイレに並ぶ、一様に苦しい顔。我々が一度に押しかけたため、調理時間が不足したためでは?と隊長のTakaさん。

7 折り返し地点:スビトイノーズ(サンタクロースの鼻?)

 スビトイノーズの山々は8合目まで積雪。9/10 ブリヤートの村クルブリックの森林管理宿泊所?に宿泊、村全体が木造でした。9/11 ウストバルグジン、9/12 セレンギンスク、9/13 バイカルスク、9/14 イルクーツクに戻る。帰国準備のかたわら、9/16 ロガチョフ氏に面会(既述した通りです)。帰路、シベリア鉄道に沿っての道、防風林か、カバノキとマツが二列に続く。

 自動車が故障した時、分厚い本を見ながら、何時間でもエンジンの構造を確認しつつ修理するロシア人研究者、どんな品物でも真剣に選ぶ彼の姿、物と向き合うこと、堆積物はたかが泥炭、されど泥炭、これに真剣に向き合って採取する隊長のTakaさん、連動して働くみなさん。

 帰国前に、サンプルの荷造りをするTakaさんに、「このサンプル、お金に換算したらいくらかな?」と聞くと、「700万円かな」「700万円あれば、もう一度来れるから」と、冷静な返事。酸性の泥炭を扱いながらMoさんと荷造り。

 出発の日(8/26)に、新潟駅構内で海外傷害保険(1,6000円)をかけ、それなりに覚悟をして臨んだ調査、余裕を失いかけた自分ではあったが、あくまでも冷静なTaka隊長に、改めて敬服しつつ終了。

厳しい環境の中で、物と自然に誠実に向き合い、助け合うことを当然として、安易に「スゥパシーバ(ありがとう)」を使わない国、そんな印象の中で、橋の無い代わりのフェリーは無料で運航されており、船着場には地元の産物の販売を多く見かけました。終わりに、夕陽とともに帰宅する牛の写真をご覧ください。

夕陽の中、湿地の放牧地から自宅に戻る牛たち

9/17  憧れの新潟へ 千代鮨(寿司屋さん)へ。みなさん、お疲れ様でした。



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