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九十九里海岸平野 地名考 3「神宮寺」
銚子に向かう国道126号線、並行する総武本線とともに旭市に入ると、干潟駅への交差点、ここを過ぎると左手に、鎌数伊勢大神宮が見えてきます。「なんで、伊勢大神宮が、ここに?」と、境内の案内板を見ると、干拓事業の代表とも言える「干潟八万石」との関連を知りました。干拓事業は、寛文9年(1670年)起工、翌年完成です。
「神宮寺」地域にはどのような特徴が掴めるのか、現代の眼から「干潟八万石」を探ってみましょう。
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下総丘陵に北半分が囲まれた「椿の海」の南部は、砂丘列(薄く見える黄緑)によって限られており、
九十九里海岸平野の形成から取り残されていたように見えますね。
1 干潟八万石
以下、干潟八万石(椿海)と「神宮寺」の位置を示します。下の図には、赤丸大で「鎌数伊勢大神宮」、その下に赤丸小で、南蔵院に隣接する「惶根(かしこね)神社」です。伊勢大神宮の解説内容とこの地域の地理を概観しましょう!
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明治期の湿地(黄)の分布です。この地域から銚子にかけて、沼沢地(青)が少ない。北方の「椿の海」から新川が太平洋に注いでいます。新川の流路は、湿地を避けるように見えます。さて、「干潟八万石干拓事業」の対象となった、椿海の排水路網をご覧ください。湿地帯の中にイチョウの葉のように分布し、新川に合流しています。
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江戸時代(寛文8年)の土木技術によって、干拓の可能性を示すことは困難だったと思いますが、水田化事業の可能性を最初に申し出たのは、杉山三右衛門でした。はじめ江戸の町人とされていましたが、後に川名登先生の論説で新たな知見が得られました。以下、紹介された引用の孫引きです。
江戸前期,下総国東部(千葉県)の湖水椿海干拓を最初に考えた人物。これまで江戸町人とされていたが,実は徳川氏の旗本で書院番番士,元和1(1615)年の大坂陣に参戦したが敵前逃亡したため士分を剥奪,追放され,椿海湖岸の正賢寺に隠栖,湖上で釣をしていて干拓を思いついたといわれ,幕府に出願したが許可されなかった。この干拓は,のちに白井次郎右衛門,辻内刑部左衛門らによって再願,開始された。
<参考文献>川名登「真説椿新田開発記」(『海上町史研究』12号)
以前お会いしたことのある川名登先生に、ここでつながるとは!直接、お話しできる時代もあったのですが、改めて、先生から、町人として片づけられていた人物の実像を知ることができました。感謝いたします。
さて、鎌数伊勢大神宮の名称です。なぜここに「伊勢」が?は、この神社のHPに解説されていました。以下に引用します。
干拓事業が盛んに行われていた頃、農民たちからの強い反発と工事の失敗や事故が度重なり頭を抱えた辻内刑部左衛門はご神徳を得るために伊勢桑名藩主松平定重を通じ伊勢神宮御師である梅谷左近太夫長重に工事の無事を祈願しました。
寛文10年11月21日(1670年)に矢指が浦の永井浜(匝瑳市吉崎浜)から九十九里浜へと椿海を流し、寛文11年に待望の大干潟が生まれ18の村ができた。この干拓された地を干潟八万石と言います。こうして椿海の干拓の大業が成されたことから、鎌数の地に伊勢皇大神宮より御分霊をおうつしして祀ったのが鎌数伊勢大神宮の前身だと伝えられています。
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干拓以前、周辺には農民や漁師たちが生活していたこと、彼らの反対により、工事が中止されたとあります。さらに、その後、湖の東岸の後草から太平洋沿岸の三川までの経路に変更されましたが、岩盤にあたり挫折したとあります。次いで矢指が浦の永井浜への排水に成功したと記されています。
地理院地図の断面機能を使用して、新川沿いの傾斜を示しました。なんと!この地域は内陸から海岸までの間に、微高地が広がっています。九十九里海岸平野では、砂浜の配列に従った高低の繰り返しが見られることが多いのですが、神宮寺地域は例外的な場といえます。内陸から海への排水が難しそうです。
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どうやら、現在の「新川」流路は近代になってから、らしい。
干拓前は農民。漁民の反対に遭い中断しており、① 後草から三川への流路が計画されたが、岩盤により中断、② 矢指が浦を経て九十九里浜への排水にて完了、③ 「新川」吉崎浜ルートで完成か、
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流路とは別に気になったことがあります。この干拓事業を申し出た杉山三右衛門さんは、1615年以降に、正賢寺に隠栖していました。杉山さんの申し出から30年を経て、江戸の町人、白井次郎右衛門が幕府の大工頭、辻内刑部左衛門の名義で出願しましたが、許されなかった。そこで、辻内さんは、江戸白銀台瑞聖寺の僧鉄牛と連絡をとり、事業を再開させるのですが、この鉄牛さんの経歴が気になりました。それは、江戸時代に入ってからの仏教界の中で、隠元禅師が新たに一派として起こした黄檗宗の僧だったからです。また、鉄牛が退隠していた福聚寺は、比較的近い東庄町小南にあるのです。
人々を救う技術能力が新たな宗派の独立の背景だと思えるのです。また、敵前逃亡という汚名を着せられた武士が、新田開発を申し出るほどの精神力を身につけていたことは、戦闘能力とは異なる武士が必要とされる時代を予感させるものだったと思います。さらに、人々の暮らしを豊かにするために尽力した武士と僧、互いに影響しあっていたかもしれません。
「この干拓は、いうまでもなく町人請負新田であった。干拓を成功に導いた僧鉄牛(石見の人)は、晩年福聚寺に退隠し、元禄13年(1700年)73歳で没した。
鉄牛さんの、経歴を少し調べました。江戸に来る以前から、社会事業に参加されていました。
教禅一致の立場に立って教化につとめ、宇治黄檗山萬福寺の造営に尽くし、京都洛西葉室山浄住寺を中興、相模小田原藩主稲葉正則の招きで紹太寺[2]、江戸弘福寺などの開山となる。鉄眼道光の『大蔵経』の開版に協力し、下総匝瑳郡の椿海の干拓などの社会事業にも力を入れた。椿海の干拓の功績により幕府から土地を寄進され、その地に福聚寺(千葉県東庄町)を建立した[3]。
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杉山さんの生年は、わかりませんが、鉄牛さんの生まれが1627年だとすると、杉山さんが1615年に大坂の陣に参戦していたことから、1600年頃の生まれだと思います。親と子のような年の差です。鉄牛さんは杉山さんのことを知っていて、この地を退隠先に選んだのかもしれません。
2 鎌数伊勢大神宮以前
鎌数伊勢大神宮は、規模の大きな寺院ですが、1671年の創建から歴史はそれほど古くありません。地名の成立年代は様々だと思いますが、海岸沿いの寺院や社寺から「神宮寺」地区の成立を考えてみます。
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16社ありました。その内、金刀比羅神社、厳島神社、琴平神社など関西系の名称の社が多そうです。さて、古そうな雰囲気が漂う「惶根(かしこね)神社を訪ねました。鳥居が重なる奥に「惶根(かしこね)神社」があり、本殿の横に「金毘羅大権現」を御本尊とする文治三年(1188年)創建の小さな社がありました。
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以下、この神社の案内です。
祭神:素戔嗚(スサノオ)の命
林弥左衛門の土産神と伝えられてきた。
境内には琴平大権現第六神社が合祀されている。
当社の祭礼は近郷に知られ非常に高い格式と、その盛大の故によく知られた特色のある祭礼である。かつては当番の家では一月二十五日の御神酒始めから、二月四日まで家族の女性子供はすべて別居させ、町内男衆に全家屋を開放して行われていた。当家主人は、一年の間毎月一日、十五日は、お参りが義務付けられ、たとえ親戚に不幸があっても当主は参列せず一年間精進して祭礼に備えていた。現在は簡素化され、拝殿で一日で実施されているが、謡曲の稽古は今も続けられている。社殿は文治三年(西暦一一八八年)今より八百二十余年前に建立され、修理修繕を繰り返してまいったが、老朽著しく、この度の改築工事となった。御芳志は地元町内の皆様、地区外の皆様に、深いご理解とご協力を賜り、三百七十余件を数え、更には役員の献身的な協力によって、竣工のはこびとなり誠にありがたく一同感謝している。これからも神宮寺惶根神社を人々の拠り所として、地域の発展と皆様の平穏無事を念じる次第である。平成二十二年二月吉日
文治3年(1188年)頃、1189年、頼朝の安房・上総・下総などの諸国の地頭に命じて荒地の開墾させる(「千葉の歴史」)。「かしこね」が気になりました。ググると、イザナミ・イザナギの1代前の神々だそうで、「かしこねのみこと」は女神だそうです。女性子供を別居させた上で、地域の男だけが一軒の家に集まる正月行事は、女性神に気を遣ったもののように感じます。また、参道には、西国巡礼の旅を記念する碑が並んでおり、頼朝の所領支配が勧められたこの時代、関西方面から移入してきた男だけの団結を強める目的があったようにも思えます。
神世七代の第六代めの神で、面足尊(おもだるのみこと)は男神、惶根尊(かしこねのみこと)は女神です。男女二柱対偶の神として自然界の陰と陽、相互補完的な力の作用や自然の生成、産霊の力などを神格化したものとされています。他説においては対偶神相互の賛美とする説や、国土が整ったことを意味する説もあります。また、結婚して国を生む伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が神世七代の第七代めであり、その一代前であることから、結婚直前の見目麗しく活力に満ちた男女の神々として、心身ともに整った健康・美容のご利益があると言われています。なお『古事記』では淤母陀琉神(おもだるのかみ)、阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)と記されています。
https://www.inatari.or.jp/inatari/goyuisho.html
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まさか、椿の海に生えていた巨木の子孫かな?
今回も、最後までご覧いただきありがとうございました。これで50作できました。
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