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花粉と歴史ロマン その7 シベリア2回目

0 愛車 いすゞ ロデオ ビッグホーンとの再会

1997年の調査では、ロシア側の自動車の故障に泣かされた。当時、私の愛車、ロデオビッグホーンは既に20万kmを超えており、廃ガス規制の制限から手放すことを決意した。

 ロシア人の研究者(S氏)にとって、いすゞのディーゼル機関の自動車は、メンテナンスのしやすさから、ロシアでは定評があり、白羽の矢が立てられ、結果的には彼が持参したウオッカ(ノボシビリスク市の名産のトロイカ)との交換が成立した(太っ腹なのかな、お互い)。東京駅から富山の伏木港までは、京都から来たTakaさんが運転し、富山でS氏と落合い、冬の日本海をウラジオストクまでフェリー、さらに冬のシベリア(道路の凍結により、悪路が改善されるとか?!!)をイルクーツク、さらにノボシビリスクまで走破しました。以下、彼からの報告を訳します。

貨客船ネジナノーバ号にて富山伏木港からウラジオストクまで

 「ウラジオストクからイルクーツクまでは1週間を費やしました。そのうち1,000kmが悪路であり、2,000kmは走行中に後輪2本のタイヤ完全に破壊されました。2日間を修理に費やしました。深さ1m、氷の厚さ3cmの氷結した多くの小河川と池を横断した。氷を破ろうとしても氷は固く、正面の車軸が曲がり、時々エンジンカバーの上に乗り上げた。不幸にも車の正面のプラスチックパネルが割れてしまった(これは修理が可能です)。2日間の平均時速10km/h、気温はマイナス15℃、積雪は10cmだった。二つの大きな川は大型トラック、アムール川とブレヤ川はフェリーボートで渡った。清算してみると鉄路と比べて半分の経費で済みました。

何らかの故障、この雪道でどのように脱出したのか?

この行程(時々道がない)は、自動車にとって過酷すぎます。そして、ポーレンさんが私に提供してくれた自動車が道なきロシアとの戦いに力を発揮してくれたことを誇りに思います。イルクーツクからノボシビリスクまでの陸路は問題なく22時間で走破しました。」

私の元愛車と 暗闇の中での再会、物に向き合う、彼の行動は、自動車を単に大事にする以上に、十分な性能を引き出すこと、そのための努力を惜しまず、その性能を信頼し、とことん使うことに価値を置いていたように思いました。日本海を渡り、冬のシベリアの大地を走破した。かつての愛車です。

1 1998年8/18~9/10:バイカル湖北東部の調査

 8/18(火)東京駅15:24発 あさひ357 新潟行き、17:3着、サンルート新潟で参加者と合流し、日本食を腹に詰めてから、熟睡。ただし、今回の調査の厳しさが、なんとなく伝えられたためか(キャンプ泊4回)、海外旅行保険に加入(23日間18550円:忍び寄る不安を予知していたのかな?)。

8/19(水)空港では、さらに2名と合流し、AEROFROAT SU872   16:00発イルクーツク行き、機内には厚生省の遺骨収集団、文化交流に参加の高校生、その他観光客でほぼ満席(平和な時代であること、のありがたさ)。24:45アカデミスカヤホテル(常宿?)、就寝。8/20(木)日程の説明の中、明日早朝の出発予定未定となる(不安の始まり)。

当初、バイカル湖北端のセベロバイカルから、目的地のチャラまで列車(BAM鉄道)の予定であったが、途中の橋が壊れているとの情報(不安第2弾)により、途中のタキシモで自動車を待機させているとのこと、研究所では、ブリヤート自治共和国への入国のビザ申請書類ができていた。セベロバイカルスクまで、は、高速船とのこと、アンガラ川(バイカル湖から唯一の流出する川)を遡り、リストビャンカで高速船に乗り換える12時間の船旅です。

8/21(金)5:45起床、7:20ホテル出発、リストビャンカまでの船が出航するポートバイカルは霧が深く船が出ないという。
9:30になって晴れ間が広がり、10:00出航した。11:20リストビャンカで乗り換え、ここから12時間、ならば、船内の売店にも食料があるものと思っていた。

リストビャンカ

が、しかし、売店ではインスタントラーメンのみとキュウリ丸かじりの昼食、隣席右のコースチャ少年は、昨年、ドイツ、イギリスへの交換留学を経験している。将来はモスクワ大学に進学し、ビジネスマンとして貧しい子供たちの力になりたいという(立派!!)。隣席左には、5日前に結婚したばかりの若いカップル、新婦の故郷へ行くらしい。隣人たちはビニル袋から食料を出している。

 私たちは、じっと空腹を味わいつつ、21:40着、が、しかし、予定していた列車の切符が買えず、この夜は駅舎内の簡易ホテル、このホテル、駅の閉鎖時間に合わせるため外で食事できず、駅前のマガジン(売店)で、定番メニュー(パン、オームリの燻製、サラミソーセージ、キュウリ、トマト)が始まった(不安が現実に)。

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バイカル湖西岸の風景か?

 この絵は、植物分類の専門家のTakeさんが、現地で調達した古新聞の中に紛れていたものです。夕陽だとするとバイカル湖の西岸の風景です。無植生の湖岸が描写されていました。東側に比べ、降水量が一段と少なそうだ。

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バイカル湖西岸の植生

2 1998年のシベリア(タクシモからチャラ)

 この行程は、厳しかった。道路状況、現地の人々の暮らしぶり、異常な暑さ乾燥蚊やアブの襲来、ホテルの設備の無さ(悪さではありません)、体調及び精神の衰弱(大袈裟にも思えますが、)など、日本の暮らしからの断絶を、嫌になる程味わいました。その、過程をたどりながら、考えたこと、記述します。さあ、8月19日から毎日のトピックとシベリアの自然の凄まじさを紹介しましょう。

イルクーツク空港には放射線量(17MCR/h)が電光掲示されていた。Svに換算すると0.17μSv.全く問題ない数値でした。1985年の原発事故の経験が活かされていると思います。通貨ルーブルの下落が始まっていました(1ドルが6.7r)、とは言え、2022年10月現在は(1ドル637r)なので、この時から100倍も下落しているのですね。

8月20日 隣国?ブリヤート自治共和国への入国ビザが必要でした。これが無いと、安全が確保されないとのこと。

8月21日 バイカル湖から流出する川は、アンガラ川が唯一で、この川を遡ります。イルクーツク市内のポートバイカルから、高速船の出港するリストビャンカまで、川幅が少しづつ狭くなってゆく。21:40バイカル湖北端の町、セベロバイカルスクに着く。駅舎ホテル泊(宿泊費は1000円程度ということでしたが、ベッドの狭いこと)

8月22日 10:45 市内の工事中の埃っぽいレストランで朝食、昼過ぎまでホテル、その後、バイカル湖で泳ぐ(時に溺れかかる)。17:30タキシモまでBAM鉄道の夜行列車、時代がかったロシア音楽の中、出発。途中、21:00 UOAM駅で停車、外に出て小用と食料の買い物(ジャガイモの煮物4r、ピクルス1kg 6r)23:00就寝。

寝台車、部屋は3段2列、最上段は荷物置き場、通路挟んで反対側にも3段1列、広軌道なのか

8/23(日)3:00起床、下車の準備、タクシモ 4:30着、ドライバーのアントン(兵役を終えたばかりの読書好きの若者)が出迎えてくれました。暗闇のキャンプ地で、夢に見た「いすゞビッグホーン」との再会、サイドミラーが無くなり、規格の異なるフロントグラス、傷だらけでも逞しく見えました。
キャンプ地へVWのバンで移動、いすゞビッグホーンとの再会。6:30日の出、朝食中、蚊(Biting  Midge)の多いことに気づく!テント泊

3 チャラまではBAM鉄道に沿っての予定だった

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ユーラスツアーズHPより、シベリア鉄道とBAM鉄道

https://www.euras.co.jp/tour/siberian-railway4.shtml 緑がBAM鉄道

かつての愛車とBAM

 防虫ネットを被り、スペアタイヤ2本をビッグホーンの屋根に取り付ける。MUYA村で燃料と修理部品の調達、MUYA川を渡る?渡れるか?

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自分の持ち物だった愛車が、能力の限り奮闘中です。
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Tactical Pilotage Chart 5July 1988

 この地図の中央の数字は、この区画中の最高高度(この場合、8,100feet)を示します。上方の二重線はBAM鉄道、一重線が、今回の一部破損したかつての鉄路と思います。川幅約600mを渡ることになりました。何が起こるかわからない。ドライバー以外は全員、降りて見守ります。

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運転手はロシア側リーダー S氏

帰りもこの橋を渡らなければ、なりません。私の物だった車が、私以上の知識と技術を持った男の手に渡り、活躍している姿、「所有」とは異なる、物との「関与」の履歴を実感、なかなか複雑な感じでした。

4 チャラからの帰路は陸路のみ

チャラにたどり着くまでの、道路は川に沿って点在する旧河道が湖や湿地化した場所の堆積物と植生の調査でした。下の衛星写真(Google earth)にも三日月湖がわかります。

淡水の世界、莫大な数の蚊の生息地、夜は満天の星
透明度の高い湖 礫が底に溜まっており、運転手のA君が拾い集めていた。
なぜ?と聞くと、イルクーツクの友達に水槽に入れるの石をプレゼント!!
1998年チャラの駅舎です。駅前ホテルで半日休息、手洗いのジーンズが部屋干しで乾きました。

8/24(月曜日)18:20 駅前ホテルに到着するまでの道は、砂の道です。かつての周氷河地域に風で運ばれた砂が堆積し、風成の丘陵を作ります。そこに定着を図るカラマツは、成長して大きくなると、根が支えきれず、崩れ落ちてゆきます。
 一方、湿地は季節凍土地帯にあって、冬はモチロン凍りますが、夏、地表付近は融けて緩みます。すると、高木は支えられず倒れかかります。

砂質土壌の丘陵斜面を落ちるカラ松、欧州アカマツの薄い森林土壌
酔っ払いの木 倒れかかるカラマツ
乾燥した大地の中を行くBAM鉄道、沿線の道路では飲み水の補給ができず、腎臓が不調になる。
背後の山肌は斜面崩壊が至る所で起きています。

8/25 (火)ホテルにて、体調の回復を図る。8/26(水)午後から調査に同行。
8/27(木)この日から帰路になる。8/28(金)体調戻る。標高950mまで登山。
圏谷(カール)の谷を登る。モレーンの岩影は風を防いでいるためか、地衣類が繁茂するとのこと。ロシア人リーダーS氏によれば、標高1600m付近にヤナギやハイマツ(比較的安定した場所は完全に伏せたもの)、ガレ場では直立する。山腹の土壌が比較的安定したところにカラマツとシベリアマツ、下生えは地衣類がマット状に覆い、その中にツルコケモモ、スグリ、ヒカゲノカズラ、矮性カバノキ。

中央にナキウサギ

この夜までキャンプ。(蚊の襲来を避けて車内泊)8/29(土)クワンダ村病院ホテル泊(使える部屋は2室のみ)、8/30調査終了後、20:50初めての対向車(日本車デリカ)、カーラジオにてニッポン放送受信(巨人対阪神 9回表 2:4)。23:00タクシモアの町で夕食(列車を改造したレストラン)、翌日、腹痛!。

欧州アカマツとレストランとかつての愛車、この夜はタクシモア駅の宿直室を利用
駅構内は暖房があり、8人用のベッドとトイレがついいていた。このレストランはタクシモアからセベロバイカルまでの700kmの沿道で1軒のみ、ペリメニ、ソーセージとマッシュポテト、そばご飯とソーセージ、サラダ、飲み物、料理はアジア系の黒髪のロシア人女性、翌日の朝食もここで、

5 砂質土壌や季節凍土、湿原の中で、命の限り生きること、

 動くことのできない植物にとって、自分の生活と命を育む自然は、時に自分を破壊する作用も持っています。山火事です。土砂崩れ、洪水もあります。

山火事が起きても消せません。消す設備が無いのです。いずれも人の火の不始末らしい。

8/31(月)セベロモイスクの街に入る。自動車(VW)の故障、燃料の補給、街のレストランで食事。ただし、何かおかしい。親しみを装い近づいてきた。食事後、外に出ると駐車場中の車のサイドミラーが壊され、タイヤの空気が抜かれていた。宿泊先も無い。人を攻撃するものは蚊だけでなく、人もいました。
トンネル工事関係者が一時的に集められたような街。共同トイレ、長屋住まいをしている若夫婦の部屋の1室を借り、5人が寝袋を並べる。紅茶を出してくれた(ありがとう)。あとの二人は見張りを兼ねて自動車の中。

湿原の中の樹木 マツとカバノキ(1987年撮影) 湿原周囲の樹木よりも樹高が低い。カバノキは矮性化した種(黄葉しています)、イソツツジなどがありました。
上段左より 地衣類とツルコケモモ、フシグロセンノウ 、下段左より、湿地にエゾリンドウ、
松林の林床のマイズルソウ、キジムシロ

2回のシベリアバイカル湖周辺の調査から、さまざまな経験を味わい、バイカル湖の変換ミスから出た言葉;「礼句倍加わる」と「冷苦場怒る
9/1(火)午後から、風が西から吹き始め、昼までの暑さと蚊を追いやってくれた。それでも、夜はイルカナ湖畔でキャンプ、蚊を避けて車内泊を選択。
9/2(水)22:30セベロバイカルスクの街に戻る。利用できるホテルが無い!と思いきや、23:00S氏が、極上のロッジを発見!!25:00ベッドで就寝!!!
9/3(木)熟睡、11:00調査出発、18:30ロッジに戻る。ロッジ泊
9/4(金)湖岸付近の湿原の調査、17:30 が遠くから聞こえてきたが、18:30別の湿原の探索、19:30帰路、ビッグホーンのファンベルト切れる。20:25「何してんだ?」「ファンベルトが切れて困ってるんだ」「持ってるよ、使いな!」と私の耳に、届いた短い会話、「ありがとう」を言わなくても通じ合う互助の社会を感じたのですが、果たして、どうだったのか?22:30夕食、25:30就寝(ロッジ連泊)

9/5(土)高速船でイルクーツクへ、20:30各人の部屋へ、25:00就寝
9/6(日)帰国準備、9/7(月)帰国準備(税関手続き)18:30セベロバイカルスクからS氏陸路で帰還。S氏らと夕食、24:45終了、帰路25:00街路灯消える。
9/8(月)S氏、別の調査に、ビッグホーンで出発(さらば!)9/9(水)6:00起床、気温2℃まだ薄暗い。7:00ホテルロビー集合、空港へ、飛行機飛ばず。戻る。
9/10(木)この日は9℃、空港へ、飛ぶだろうか?11:00出国手荷物検査の開始、14:20新潟へ離陸。

6 さらば、バイカル

セベロバイカルスク近郊のバイカルスコの岬

1997,1998のバイカル湖調査は終わった。この後、2000更に西シベリア、2002極東アムール川河口と続きました。大陸の雄大な風景の中に身を置く経験を重ねたことから、四季のうつろいなど、微かな変化に気付かされる日本の自然の美を感じます。

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