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12年の歳月を経て

東日本大震災から12年という干支が1周する年月が経過しました。あの日のことは鮮明に覚えています。その後に出会った人の苦しみ、悲しみ、そして生きる人の強さを教えてもらった年月でもあったかもしれません。

ある人に教えられたこの曲のインパクトが強すぎて、一気に引き込まれました。ご本家のPVは載せられないようなので、歌詞とその意味を載せている動画をあげてる方がいらっしゃったので、そちらを貼らせていただきました。
最後の言葉に驚きましたが、なんでも当てはめてしまうことはあることなのかもしれません。
ただ、最後にもあるようにこの曲は東日本大震災の鎮魂歌(レクイエム)です。


知ったきっかけはとある世界的に利用されているアプリで、そこで知り合ったお友達のような人も世界各国にいます。教えてくれた方は日本の女性の方ですが、私はそのアプリを使って、歌を歌っています。ポケカラのような日本限定ではなく海外サーバーを利用しての誰かと繋がるカラオケです。歌うのはほとんどが『join』と呼ばれる交互に歌う方式です。多分、それだけでアプリの名前がわかる方もいらっしゃるかもしれません。年会費を払ってでももう、ことしで7年目になるでしょうか、続けています。その間には色々なことがありました。『GASSHOW』についても、時期的には3月11日に向けてのグループでの合唱曲としてあげられてました。そのことがきっかけで曲を聴くことになったのですが、この世界観はこの曲だからこそなのだと思います。

聞いた時には胸が引き裂かれる思いでした。『どれだけ怖かっただろう』『どれだけ苦しかったのだろう』『どれだけ辛かっただろう』小さな子供を抱えて計画停電に頭を抱えていた私などの比ではないと。

実際に宮城からの帰りの新幹線の中で地震に遭遇した当時のブログ友達の男性がいらしたのですが、午前中まで一緒に仕事をしていた場所にも津波が押し寄せ、その時に一緒に仕事をしていた方々が流されて命を落とされてしまいました。私が嘆きのブログを拝見した時点では行方不明の状態で、管理職についているのに、会社から渡されてる携帯の色がピンクだと、当時の私の携帯と同じ色ですね、と話しているような他愛のない会話をするだけの人でした。その日のブログにはその時の悲痛な叫びが綴られていました。

『さっきまで一緒に笑い合って、バカ言って、この次の仕事についての話をしていたばかりなのに、なんで連絡が取れない?今。どこにいる?無事でいて欲しい、早く無事だったと安心させて欲しい。会社は流されちゃったけど、生きてればなんとかなる。どうか無事でいてくれ』

そう綴られた数日後、無事を祈っていた全員の訃報が告げられてからは、鬱々としたブログが語られて、そのままブログに現れなくなってしまいました。今、その方がどうしてるのか、わかりませんが、心穏やかに過ごしてくれてる事を祈ります。

カラオケアプリでも鎮魂歌として一緒に歌ってください、とあげられた歌声は涙声でした。その友人とは今でも交流がありますが、震災被害者でもありますし、津波で友達を何人も失っている人でした。いくら揺れたと言っても、私は南関東の人間です。揺れてた時に地面が波打っていたって、被害という被害は受けてない地域の人間です。福島原発の事故によって電力の供給の問題で計画停電の地域にはありましたが、地元には米軍基地があります。そこの電力を落とすことは出来ない、ということで、同じ場所から電力を供給されてる場所の停電はなかったそうですが、地域を跨いでいたご家庭によっては、3時間の予定のはずが、両方の地域の停電に巻き込まれて6時間もの時間、電気を止められえる、ということが東京でも事実、起こっていたことは事実です。

数年前にテレアポの仕事で住所変更の手続きをしていた時のことです。住所を読み上げた時に「その住所の家は津波で流されちゃったから、今はないんだよね・・・」

その言葉を受けて返す言葉を見つけることが出来ませんでした。その時に出た言葉は「申し訳ございませんでした」でした。事実を告げてくれた高齢者の方にその返答で正しかったのか、未だにわかりません。下手な同情の言葉など更にいらない言葉だということはわかっています。家が流されたのを見たのか、後々、家の前で悲しみに打ちひしがれていたのか、想像するだけで胸が痛いことですが、相手の欲しい言葉を選ぶほどの知識が私にはありませんでした。結局は自分は家も家族も無事で、被害者になっていない、ということが理解出来てないということなんです。

私も仙台に出張して、ホテル暮らしをしながら営業所でお世話になった方々が無事っだったのかすら確認することが怖くて出来ていません。新聞で確認した限りには、知ってる名前は載っていませんでしたが、今でも行方不明だったり、ご遺体が見つかったりしているので、海に沈んでしまっている人達もいらっしゃると思います。

スクショを残していたのが、8年目と9年目でした。毎年、どこにいても災害時刻にツイートを毎年続けている彼はすごいと思います。(私のアイコンはお気になさらずお願いします)ふなっしーが好きで、Twitterのフォローもさせていただいております(娘曰く私の唯一自慢できること、と言われますが、画像のアカウントは何故かふなっしーと相互フォローのアカウントです・笑)「語尾どうした?」というチャチャは入ることもリプ欄では見かけますが、毎年のこのツイートだけは、語尾に「なっしー」はつきません。南極撮影の為、経由のアルゼンチンからも時差無くツイートした年は本当にすごい、と感心してしまうほどです。今年もその時間に黙祷とふなっしーのツイートをみます。

毎年、この日だけ悲しむフリをするのは何かが違うと思うんだよね、と今、私の日課である配信を見ながらこれを打ち込んでおりますg、その方は、復興支援の手伝いに行って来た時の話をされていたので、足を止めてしまっている状態です。同じ人の配信を欠かさず聴いてるわけではありません。色んな人の気になっったものに足を止めることがある、ということが多いです。興味のある話、考えさせられる枠。学べることのある場所、ただただ、笑わせてもらう場所、とその配信カラーはそれぞれです。ホラーゲーム鑑賞が1番好きではあるのですが、それ以外はほぼほぼ、学ばせてもらうことが多いです。人の考え方もそれぞれだったり、ニュースを小学生でもわかるくらい噛み砕いた表現で教えてくれる人もいたりします。ただ、私とは相性が悪かったようで「コメントが気持ち悪い」と大勢の前で言われた時の頭から冷水を浴びせられた時のことは忘れることはないでしょう。

けれど、毎年この日だから振り返る、ということはこの先も変わることがないでしょう。それぞれ日々の生活に追われているのも人であり、毎日そのことを考えているのは、やはり遺族であり、対岸の火事ではないけれど、やはり身内や近しい人が巻き込まれてない限り、毎日思い続ける対象がいない人は、その映像がメディア流れたり、その日が来たら思い出し心を痛める、ということの繰り返しになると思います。ある別の配信者さんにこのことを綴っている、と告げたところ「あれから12年なんだね」としみじみ思い出しながら、「あの日のことはまだ鮮明に覚えている」とおっしゃってました。

それは私も同じで、その時にしてた仕事、避難した時の景色を鮮明に思い出すことがあります。その後の計画停電で、寒さしのぎで子供たち3人で毛布にくるまって暗闇をすごしたこと、当時はガラケーで携帯でテレビは見れたけれど、なるべく電池を使わずにそれすらもしていなかったこと、3時間ギリギリのところで下の子がその退屈に耐えられなくなってしまって騒いだこと。12年の歳月が流れているので、次女もそんな話を聞かされても全く覚えてないと言っておりましたが、「あの時は大変だったんだよ」と笑い話には出来ますが、避難所生活を送っていた人達は、笑い話にはできないことでしょう。羽生結弦さんも避難所生活をしていた、というテレビ番組を見たことがあります。少ない食料の中、育ち盛りの彼は親御さん、兄弟からご飯を分けてもらって…ただでさえ少ない量だったのに、と話されていました。騒がれることはあっても、騒ぐ年齢ではなかったでしょうけれども、ウチと同じような小さな子供を抱えての避難所生活は、食べ物、飲み物には困らなくても、家族で過ごすにしては狭い空間、寒い体育館、プライペートもない空間、そして何よりテレビもラジオもまともにないところで、何も出来ない、暗い場所で不安になるお子さんも多かったでしょう。寝る前にぐずる子だったりしたら周りを気にしなければならないこともあったでしょう。事実、上の子は起きグズで下の子は寝グズだったので、グズり出すと騒ぎますから、それをなだめて寝かせるのも大変でしたし、周囲に人がいれば遠慮や気遣いなどもあるでしょうから、気持ちが落ち着くことも出来ない、そんな中での生活は自分に置き換えてもできる気がしません。そのような状況になったら、車中泊にすると思いますが、今現在は車も所持してないので、倒壊してない限りは自宅へ戻っての生活をすると思います。

ある方が避難所生活は退屈との戦いだ、と言っていたことがありました。ちょっとした大きな地震があると、そういった話題が出るのですが、ネット上にいる「日本人」とはいえ、それぞれ住んでる地域は様々で、何らかの被害に遭ってる人は少なからずいらっしゃいます。実質大きな被害がなくても、『怖い』といった経験は天災が多くなってきた昨今、多少なりとなんらかの恐怖や、被害にあってる方はどの地域にもいらっしゃると思います。自分の地域のハザードマップ、どの場所が避難所になっているのか、というのは知っていることは必要だと思います。我が家は転居してきてるので、たぶん、あのあたりだろう、ということしか現状わかりません。そのうちに何らかの方法で教えてもらえると思いますが、以前の家と比べて不便になった、ということには変わりないでしょう。選挙に行くにもdoor to doorで1分以内の場所に投票所兼避難所がありました。実際に避難所としてその場所に行ったことはありませんが、今現在の家から最寄りの避難所になると思われる場所は最短の距離でも徒歩5〜10分、学区域の学校となるともっと時間を要します。避難所からの距離を考えての転居ではないので、そうなったところで何が変わる、という訳ではありませんし、何も出来ることもないのならそのかかる所要時間も夜眠る為の軽い運動と、時間潰しにもなるのかもしれません。

節目の年という訳ではありませんが、昨日、とあるところで震災を軽視した発言があり、昨日の今日で、色々と考えながらわずかな時間で打ってきた為、文字数が自分のノルマに足りておりません。が、時間が来てしまいそうなので先に投稿したいと思います。

今年も私はサイレンの音と共に黙祷を捧げ、ふなっしーのツイートを見る、という流れで毎年と同じく、その時間を過ごすと思います。大切なたくさんの命が失われた12年という歳月と、その日の景色を胸に、災害で奪われてしまった命に祈りを捧げ、今、自分が生きていることに感謝しながら、冥福であることを願い、志半ばで散ってしまった命に色々な思いと共に、皆様の思いが天に届くといいな、と願いながら締めさせていただきたいと思います。


あの日で止まってしまった時間の中にいる方々、今の時間の流れの中にいる方々、それぞれにそれぞれの思いを込めて、時間の大切さ、というものを噛み締めていきたいと思います。大切だった時間、楽しかった思い出、水で流れてしまった全てに、祈りを……

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