NOと言うこと

歳をとるごとにだんだん人にNOと言えなくなる。

ある日は友人から、またある日には家族から言われた「優しいね」。ぼくはその言葉を聞くたびに心底死にたくなる。ぼくはやさしくなんかない。そうやって言われるたびに自分の醜さと人から向けられる好意のギャップに耐えられなくなるんだ。

ぼくはNOと言わない。それは自分でも気づいている。むしろ意識的にそうしている。人を否定しない。マイルールと言ってもいいかもしれない。それくらい人に嫌だとか駄目だとか伝えることに抵抗がある。そして、ぼくはその理由も知っている。

小さい頃から、心の弱い人間だった。浅ましくて、傲慢でどうしようもない人間。こんな自分が嫌で嫌で堪らない。この体を脱ぎ捨てて、夏の夜風に当たれるならどれだけ楽に息ができるだろうと何度も考えたことがある。でも何度そんな夜を過ごしても、臆病なぼくにはあの世を訪ねる勇気なんてなくて、自分にはまだやることがあるんだと信じて疑わずこの世にへばりついている。白いスニーカーで踏みつけたガムみたいに。結局のところ自分が可愛くて仕方がない、傷つきたくないだけなんだ。自分に対して常に嫌悪を抱くことで誰かからぼくを否定されても、ひどいショックを受けないようにしている。何の予防線も緩和剤もなけりゃぼくなんて人間は真正面に嫌いと言われれば即、死んでいる。

人にNOと言わない理由もここにある。
単純に嫌われるのが怖い。ここまで引っ張ってそれかよと笑われてしまうかもしれない。いいよ、笑っておくれよ。そうじゃなきゃ惨めなだけの負け犬になっちまうだろ。嫌だとかやめてとか、きみのそういうところが嫌いだとか、自分の気持ちを言ってしまったら、みんなみんないなくなってしまうんじゃないかって思うんだ。ぼくにとって人から敵意を向けられることほど恐ろしくて冷たいものはなくて、それから、ぼくはその眼を、ひとりの寂しさと辱められるような感覚を知っている。人は嫌な記憶は簡単に忘れられないものだね。もう、無意味に傷つきたくないんだよ。ぼくは。

人からの優しいねを、うまく受け取れないように、ぼくには同じくらい愛されるということが難しい。というより、愛されていいわけがないと、これまた逃げ道を作っている。本当に誰からも愛されない日が来た時のために。でも、そんな時くらいはぼくだけでもぼくを愛してやりたいものだな。

でもね、世の中はやっぱり夢みたいにチグハグでおかしくって、ある程度我儘で自分の気持ちをまっすぐに伝える人の方が好かれるらしい。もうそんな愛され方覚えてないのになあ。馬鹿げている!ほんとに。報われない努力を美徳としてきた精神はこの現実世界では何の役にも立たないお荷物だということになってしまった。それでも可哀想だなんて言わないよ。10年前のぼくは今も泣いているから。


しかしそれでも。自分を守るためにした行動が、誰かにとって優しいと思われていることがあるということは間違い無くて、それを真っ向から否定するのも何だか違うなと思うのです。だからぼくと同じように人からの好意や愛を素直に受け取れないあなたがいたとしたら。

あなたはやさしい人だよ。脆くて臆病で狡くて、それでいてやっぱりやさしいんだよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?