フランツ演じる話(本番より前のメモ)

落ちこんだ。落ちこんでる。
歴史的に落ちこんでる。

学びにつなげたいから、できるだけ文章にしようと思う。

本番を明後日に控え、私はこの数ヶ月、ミュージカル『エリザベート』において、フランツ・ヨーゼフを演じる準備をしている。フランツはタイトルロールであるエリザベートの夫であり、実質最後のオーストリア皇帝である。
私にとってのフランツは、幼き日にみた宝塚歌劇月組版エリザベートの霧矢大夢である。東宝版も一度劇場で観たことがあるけれど、基本的には宝塚で上演された様々なバージョンで記憶されている。

この公演に参加することになってから、私が向き合いたかったことは、ジェンダーにまつわる問題だ。
とりわけ、自分自身が男役を演じるということに、なんらかの決着をつけたかった。
演劇作品で、男性を演じるのはこれが5回目だ。なのにこんなにも悩んでいるのは、男性を演じることと男役を演じることには差があると感じているからだ。
ここで指す男役というのは、主に宝塚歌劇の男役像に由来する。
今回上演するエリザベートは、宝塚版だけでなく東宝版・ウィーン版、ひいては世界中で上演された様々なバージョンを参照し、脚本や楽曲などを再編している。参加するメンバーそれぞれが持つエリザベート像を持ち寄り、ミックスしているのだ。
もし私が、東宝版・ウィーン版の鑑賞体験をメインにイメージを蓄えていたら、あるいは、何も知らなかったら、こんなにもパーソナルな領域まで悩みが侵食しなかったように思う。
昨年度末からちびちびと、ジュディス・バトラーの著作『ジェンダー・トラブル』を読み進めている。とてもざっくりの説明を試みると、ジェンダーというものは生まれもったものではなく、行為遂行的に形成されたものである、という論考だ(詳しくは専門家の解説を参照願いたい)。
高校生の頃から俳優を始めてもうすぐ10年になろうとしているが、人物を演じることと、ジェンダーの関連性について、まだ自分の中で折り合いがついていない。演じるという行為、、、
プライベートの話になるが。私自身の性自認は女性だけれど、私は女性を好きになることもあるし、女性とデートをすることもある。今思えばとても異性愛規範的だけれど、デートっぽさを演出したいがために、自分が男性的振る舞いをすることもあった。

今まで演じた男性というのは、いわゆるイケメンではなかった。現代日本で、劇的なこともなく普通に暮らしている中年男性がなぜか多かった。かっこよく見せる必要もなく、情けなさと切実さをありのままに表現することに集中した。
また、ひと作品の中で何役も演じる、そのメインの役として、であることがほとんどだった。他の役と兼役する都合上、メイクや髪型などをひとつの役のために固定する必要がなかった。

フランツも、劇的なシーンは比較的少なく、作中淡々と情けない中年男性になるのだが、私の中の #男役 が認知を複雑なものにしていた。
男役の美学を通過しなければ、フランツを演じるところまで到達できないのではないか。男役としての所作や装いを習得しないと鑑賞のノイズになってしまうのではないか、という懸念だ。
宝塚歌劇の世界の男役は、一人前になるまで10年はかかると言われている。数ヶ月の稽古で到達できるわけがない。そして今回作中に登場する女性たちは娘役ではない。技術で到達できないとすれば、普段の身体を知り生かす方法を考えなくてはいけない。

フランツは肖像画がいくつも残っていて、老年になると髪というより髭である(本番の瞬間だけハゲて髭が生えてほしい)。つまり史実に基づいた容姿の再現でもなければ、コスチューム的なビジュアルでもない。

男性であるフランツを演じること
男役としてフランツを演じること
この2つのポイントの違いは、かっこよさが必須かどうかだろう。
物語を運ぶ上で必要な情報と役割を再現すること、それ以前にショーとしての華々しさがあること、では最初に着手しなければならない課題が変わってくる。

しかしながらフランツは、あまり華々しいかっこいい役ではないので、むしろ東宝版の方が存在感や魅力があるように思う。男役の美学を優先するために打ち消される表現もある。男役というのは幻滅されてはいけない。女性が思う理想の男性であらねばならない。しかし作中のフランツは基本情けない。それが愛らしくもない。ただ悲しい。それは彼の人格ではなく、彼が置かれている立場ゆえだが。その表現を実質封じられているフランツは、主要キャストなのに宝塚版ではほぼ透明だ。男役2番手というポジションもあるだろう。

モニャモニャ。
終わらないのでこのへんで。

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