見出し画像

子楚、政、呂不韋、李斯、趙高の人物分析と関係図No.001

お金について考えるに対して、
始皇帝や呂不韋の事を例として挙げたが、
全ては書いていないので続きを一応、
書いておこうと思います。

まず、商人であった呂不韋のお陰で、
王になった子楚の話をしていこう。

呂不韋の策略通り、夏姫に近づき、
彼女の養子として子楚は孝文王
正式な跡継ぎとなったが、彼が趙の
人質であった時に、孝文王は死去した。

孝文王には多くの子供がいた。
趙の人質のままでは、夏姫の養子となった
とは言え、王あっての正式な跡取りな訳で、
夏姫も当然、その力は地に落ちる状況となった。

当時、情報を得る為に、あらゆる有能な人物たちは
情報網を張っていた。呂不韋もその一人であった為、
孝文王が亡くなると、すぐに子楚にそれを告げて、
貧しい恰好をして呂不韋と共に趙を出た。

この際、門番に呂不韋はお金を握らせていたので、
難なく通る事ができた。

子楚は秦に戻り、正式な秦の第30代君主になった。
名前はその際、│荘襄王《そうじょうおう》と変えたが、
子楚の名前で書いていく事にする。

趙に残された妻と後の始皇帝となる政は、趙との取引と
して、秦に戻って来れる事になった。
その時、既に、政は人間不信になっていた。
趙の人質でありながら、幼い頃を過ごした事もあり、
その性格は年を重ねる度に強くなっていった。

人間不信の典型的なタイプと言える。
その歪んだ性格のお陰で、春秋時代に終止符を
打てたのだが、大勢の人を殺す結果は招いた。

人間性的には、自分しか信じず、小役人が仕事とする
ような小さな案件までも、自分でしていた。
この事により、過労死した線も浮かんで来る。

政が王になれたのは、当然、有能な家臣もいたからで
あった。丞相となった李斯に加えて、韓非子の書を
読んだ政はえらく気に入り、李斯に韓非子はいつ頃の
時代の人なのか訪ねた。李斯は韓非と友でもあったので、
今も生きている人だと答えた。

政は直ぐに韓非を招こうとしたが、韓の公子でもあった
韓非は当然、直ぐには来なかった。
そこで政は攻める様子を見せると、韓は韓非を秦に送った。
この韓非子の王としての思想と、李斯により、政は天下を
取ったとも言える。

先ほども言ったが、大昔の事なので、色々分かってない事も
あるが、中でも一番分からないのは│趙高《ちょうこう》という宦官であった。

政は名前を始皇帝と定めてからは、この趙高を一番近くに置いた。
趙高は歴史上でもトップクラスの悪人であった。
政が何故、このような男を信じていたのかは、今も謎である。

色々、私も考えてみたが、どこの線とも結びつかず、有能でも無い
この趙高を一番信頼し、彼を通さないと始皇帝とも話せないまでに
なっていた。それは国で王の次に身分のある丞相となった李斯も
同様であった。

政は非道な人物であった為、暗殺も3度に渡り狙われたが、
いずれも失敗に終わった。

しかし、暗殺せずとも、彼は実際の所、始皇帝になってから、
支配地を巡業中に誰にも気づかれないまま、死んでいた。
趙高しか荷馬車には入れなかったので、彼が気づいて、
それを李斯に相談した。今バレるのはマズいと考えた二人は、
確か、魚か何かを積んだ悪いニオイのする馬車を、始皇帝の
馬車の近くに配置して、バレないようにした。

始皇帝は跡継ぎを長男である│扶蘇《ふそ》にすると
決めていた書物があったが、趙高は李斯に話を持ち掛け、
長男は父である始皇帝の命令により、
万里の長城の警備に当たっていた。

李斯は世継ぎが決まっているなら一安心だと言ったが、
趙高は、もし、あの方が世継ぎになれば我々の立場は地に
落ちると言った。扶蘇様の周りにいる者たちが自分たちの
立場となると言って、誘惑した。

李斯は本来立派な人物であった。
韓非が秦の牢獄に入れられた時も、その身を案じて、
毒薬を密かに手渡しに行った事もあり、人物として
立派な人格者と言えたが、彼は趙高と共に反逆の道を
選んだ。その際、天を見て涙を流したとあるが、
良くない事をした事に変わりは無い。

次男の│胡亥《こがい》は扱いやすく、趙高にとっては
最適な世継ぎだった。趙高は兄である扶蘇に始皇帝の
偽手紙を送り、一人で都に戻るよう伝令を出した。
その際、有能な配下たちは何かおかしいと感じて、
扶蘇を止めたが、始皇帝が死んでいるとは夢にも
思わず、戻った際に殺された。

その趙高の悪行は止まる事無く、有能な人材を次々
殺して行った。実際、政が始皇帝として統一はしたが、
すぐに世が乱れたのは、この趙高のせいだと言って
いいほどのものであった。

李斯も結局、趙高しか二世皇帝の胡亥に会う事は
出来なかった為、胡亥が酒の席で楽しんでいる時を
狙って、李斯に使いを送り、今なら皇帝も会えると
嘘をついて、李斯を追い込んでいった。
そのせいから、李斯は投獄され、拷問を受けて、
やってもいない事の罪をきせられて処刑された。

その後も趙高は次々と邪魔な存在を消していった。

これは馬鹿の語源の話になるが、よく馬鹿正直と
いう言葉があるように、本来、馬鹿というものは
正直だという意味なのである。

趙高は朝の朝礼で、鹿を引いて二世皇帝や朝礼に
来ている重臣たちの前で、
「良い馬を見つけたので、陛下に献上に参りました」
と趙高は言った。
当然、鹿なので、二世皇帝である胡亥は、
「何を言っておる? それは鹿ではないか」と言った。
趙高は並んでいる重臣に対して、
「これは鹿なのか? それとも馬なのか?」と尋ね、
「‥‥‥馬でございます」と言った。
これにより、朝礼では激論となり、
「それは鹿であろうが! 何を言っている!」
と重臣たちは鹿に対して、鹿だという者と馬だと言う者
に分かれたが、趙高は全員の意見を聞いた後、
「陛下。これはただの余興に過ぎませぬ」と言って、
その場での公論は終わった。

趙高は馬だと言った重臣たちは皆殺しにして、
鹿だと言ったものだけ生かした。

これにより、政が築いた天下統一はすぐに崩壊する事に
なっていった。始皇帝の時点から、張良による暗殺未遂や
皇帝の巡業のための道を作る為だけに、重労働を課せられ、
実際は内部的には天下統一は成されていなかった。

書く事は山ほどあるので、今回はこの辺りにしておきますが、
呂不韋の事や、他にも書く事は沢山あります。

ただ、私の熟慮の末の見立てで話しているので、
他にも意見がある人もいるとは思います。
大昔の事なので、実際に起きたであろう事から、
逆説論で推察しての意見を話していますので、
一つの意見としてお読みください。

春秋時代の事も書きたいとも思っていますが、
量が多すぎるので、マガジンに歴史の自己推論を
増やしてそこに入れようかと思います。


夏場で死体は腐り始めていたからだ。
実際、始皇帝となって彼はすぐに死んだ。
人間不信の限度を超えていた為、仕事以外でも問題は
多かった。

まず、実母だとされている母は淫乱の血が流れていて、
政が跡継ぎになった後も、肉体関係は続いていた。
当然、呂不韋だけでは無かったが、呂不韋はバレたら
自分の身が危険な事を知っていたので、何とか手を
打とうと考えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?