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伊達政宗の果てしなき恨みからの教訓

どんなに優秀な人間でも、必ずミスを犯す。
いつの時代でもそれは変わる事は無い。

失敗を活かせる人間は成長し、
失敗を活かせない人間は何かしらの理由をつけて
偽りの目標に向かっていく。

伊達政宗にも人生で最大のミスを犯した事はあった。
それは彼がまだ若すぎたからでもあった。

私的な経験から言えば、軸となる人間性が決まるのは
35歳くらいまでだと私は思っている。
理由として、35歳までにある程度の成長を遂げている
人は、自分という信念が既に根付いている。
35歳まで人生の選択で楽な道を選んできた人間は、
自分自身と向き合い、勝利にも似た感覚の難しい
挑戦のような選択は出来ないからである。

伊達政宗の事は普通に考えても難しいものだ。
母親からは疎まれ、毒殺されかけた。
しかし、父親は戦国時代で生き残るには優しすぎる
性格であった為、実際に勢力を拡大したのは
政宗であった。

政宗への期待は、伊達家でも既に父を越えていて、
戦略などにおいても秀でていた。
父親が隠居して家督を譲ろうとしたが、
政宗はなかば冗談だと思っていた。
しかし、家臣たちは本気であったため、
政宗は若くして当主となった。

政宗には二人の父親がいた。
実父は政宗の教育に当たり、虎哉宗乙こさいそういつ
という僧侶を招き、寺まで立てて政宗を預けた。
この時、片倉小十郎や伊達成重も同じくその地で、
虎哉禅師から教えを受けていた。
後に政宗を支える智の片倉と武の成重となる。

虎哉禅師の名は後に全国に知れ渡るほどになったのは、
政宗の教育者であったからだった。
政宗が虎哉禅師にある時質問をした。
「師に怖いものはあるのですか?」
「勿論あります。仏様が怖いです。若にも怖いものは
あるのですか?」
「私は師が怖いです」
このように、政宗の性格や根性をつけたのは
虎哉禅師であった。

しかし、師が優秀なだけに、若さと賢さのバランスは
崩れていた。その事から政宗は生涯悔いる事に発展した。

彼は相手の心を読むのが得意でもあった。
その為、若くして当主となった時に、
形式的な祝いに来た者たちに苦言を吐いた。
これにより、政宗は敵を増やす事になったのだが、
その祝いに来た者の中に、政宗の弱点は実父であると
考え、誘拐して政宗を制しようとした人物がいた。

政宗は甘く無かったが実父の伊達輝宗だててるむねは、
人望も厚く、良心的な人物であった為、輝宗を通して降伏を
取り計らってもらい、そのお礼として畠山義継は会見を求め
それに応じた輝宗は人質となった。

当初の予定通り国境に待機させていた畠山の自軍と合流
しようと国境まで向かっていたが、このまま人質になれば
自分のせいで政宗は動きが取れなくなると思い、
「政宗の邪魔はさせん!」と言って自分に向けられていた
刀に自ら刃を立てて、自ら死を選んだ。
この後、国境にいた畠山軍は敗れたが、政宗が城に戻ると
父の死を見て、「殺されたのか?」と問いかけた。
「自決でございました」と聞き、政宗の怒りは頂点に登り、
畠山義継の首を目玉をくり抜き晒し者にした。

更に政宗は畠山義継の幼い息子が世継ぎとなった領土に
攻め込もうとしたが、この時、片倉小十郎は進言している。
それは実に理にかなっていたものであった。
母親は当初、最上家が乗っ取る為に伊達家へ嫁いだが、
隙が無かった。
畠山に攻め込み、情勢次第では最上をも敵に回す事になると
片倉小十郎は進言したが、一番自分を愛してくれた父が
自分の為に自死した事への怒りは、
片倉小十郎にそれ以上言うならと刀に手をかけたほどであった。

この時、政宗最大の負け戦となり、多くの武将を失う事になった。
7か国の国が共同戦線を張り、幼い畠山の子である国王丸を助ける
為、大戦になった。

この時、虎哉禅師に「お前は人殺しか! 輝宗様が死んだのは
お前の慢心から生まれたものだ! 更に畠山の元服もしていない
何も知らない幼子までをも手にかけようとするなど、言語道断!
この人殺しめが!」と政宗は叱責された。
この時、政宗は心から悔いて、自分が招いた事だった事を
理解した。輝宗に仕えていた有能な人材も、この時自害している。
遠藤基信、内馬場右衛門、須田伯耆は家老であり、
伊達家を支える上で必要な人材だった。

政宗を理解しようとするのは簡単にはいかない。
何故なら彼は凡人では無いからだ。
凡人とは大した知識も無いのに、理解していると思う人が
多くを占める。ネット上では憶測が流れているが、
過去の人を理解するのは非常に難しいものである。

これは現代でも共通して言える事だが、時代背景が
変わるだけで全く別の世界になるからだ。
別の世界の事を知るには、それ相応の知識や賢さが
必要になる。

私は父が死んだ時、一族とは対立関係にあった。
しかし、愚かな母は、仲介役に私に葬式に出て欲しいと
言ってきた。
私は必ず言ってくる事を知っていた。
それは母の性格を知っていたからであって、
体裁や誰にも見せない本当の顏を知っていたから
絶対に言ってくる事は分かっていた。

遺産も独り占め状態で、何もかもを人にあげて、
私を裏切った母であったが、私は確信していた。
通常なら有り得ない事ではあるが、絶対に言ってくる。

その為、当時の私は非常に鋭利な鉈を購入していた。
行けば間違いなく、自制できない状態になると
分かっていた。

私は一度も一族の前で怒った事は無かった。
しかし、我慢の限界を遥かに過ぎていた。
私は仲介役に「行ってもいいが、行ったら間違いなく
皆殺しにして自分も死ぬ」と言った。

そういって電話を切り、暫く考えた。
この伊達政宗と状況的には同じであり、悪が勝ち、
私は世間から狂人として名を残す事になると
考えた。
春秋時代にも同様な事があったのも知っていた。
しかばねむちを打つ』の
語源となった実話だ。

いくら怒りに身を任せても、他人には理解されない。
反対に頭の狂った人だと言われるだけだと
言う事を私は数分考えて、行かないと決めた。

知識は活かして初めて理解したと言えるものだ。

政宗を凡人が理解出来ないのは当然である。
彼は豊臣秀吉にも徳川家康にも認められていた。
徳川家康は特に伊達政宗を認めていた。
家康のほうから4度にわたり縁談を持ち掛けた。

それは政宗にとっても不思議なほどであったが、
家康は死後の事を考えていた。
自分の死後、天下を取れるのは政宗だと言っていた。
政宗には天下を取ろうとする野望があった。
その牙はなかなか折れるモノでは無い事を
家康は知っていた。

このように知ると言う事は、実に困難を極めるモノで
あるが、一度、知ると言う事に成功したら、二度目、
三度目は軽くできるようになる。

やる事は同じだが、慢心は抱かず、性格と履歴から
人物像を見ていき、当時の時代背景を映画で見たり、
調べたりして、ようやく第一段階は終わる。

そこから徐々に細かい所まで調べていく事により、
明確に多くの事が見えてくる。

ネットで簡単に手に入れる情報などを信じるようでは
話にならない。何事も自分でまずは動く事が大切だ。

私も春秋時代や伊達政宗の事を知らなかったら、
凶行に走っていた可能性は高かっただろう。
しかし、知識と結果を見れば、やるべきでは無い
とハッキリ分かった。

やっても誰にも理解されないだけの恨み等は、
自分の中で時間をかけて消化するのが一番いいが、
そこには壁しかない。
時間をかけて壁を登りきると自己啓発にも繋がる。
今はそれがハッキリと分かる。
実際に経験して、辛すぎる日々ではあったが、
新しい自分を手に入れた。

人生は自分のものだ。35歳までが勝負だと考えて
色々試すのもいいかもしれない。
自分を見つける事から始めれば良いと思う。

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