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短編小説『彼の世界にあったもの』


 第224回オレンジ文庫短編小説新人賞(2023年2月応募)で「もう一歩の作品」だった短編です。応募してから今日でちょうど一年経ちました。応募前にツイッターのフォロワーさんと読み合いしたり、友人に読んでもらったりと、楽しい経験ができました。

※明るい話ではないです。




 彼の世界にあったもの                                      

 その目に見えるものと 隠されたもの
 その手に届くものと 零れ落ちたもの
 愛と信頼 憎しみと破壊
 その果てに 残ったもの
 彼の世界に あったもの

 彼が何を思って、向日葵に自分をジョン・ドゥと呼ばせていたかはわからない。もちろん、彼にも正式な名があり、他の人々からはその名前で呼ばれていた。しかし、向日葵にだけは、最後まで頑なに彼自身の名を呼ばせなかった。
 茶色の巻き毛で、そばかすを気にしている、どこにでもいそうな九歳の男の子。ジョンは、向日葵を造った博士の遠い親戚で、五歳の誕生日の前日に、列車の事故で両親を失った。彼の生まれ育った街に爆弾が落とされたのは、そのすぐ後だ。引き取られるのが数日遅ければ、自分も家と同じように跡形もなくなっていただろう、とジョンは言っていた。
 誰も見ていないところでよく泣いて、よく怒っていた。そしてきっと、この地球で最後の子どもだった。
 
 揺れを感知し、向日葵はスリープから目覚めた。明るくなった目の端に、自動計測した振動数が表示されている。人間には感じ取れないほど微弱な地震だった。時刻は、午前二時十九分十一秒。
 部屋はスリープ前から何も変わっていない。シワ一つついていないベッド、空っぽのチェスト、壁に埋め込まれたモニター。向日葵にはベッドもプライバシーも必要ないが、研究員たちと同じ個室があてがわれていた。
「まあ、人間のエゴのようなものだよ。ペットに服を着せるみたいなものだ。無駄なことだとわかってはいるが、その方が見ていて安心する。部屋も有り余っているしね」
 部屋は不要だと断ったとき、向日葵の今の主人――博士の息子で、みんなからは所長と呼ばれている――にはそう言われた。もう、四年も前の話だ。
 今の地震による被害はない。そう判断し、スリープモードに戻ろうとした向日葵の耳に、ドアの開く微かな音が届いた。夜間は節電のため、ジムや研究室の使用は制限されている。部屋を出る理由などないはずだ。夜食だろうか。だが、部屋を出た人物は、廊下をこちらへ向かってきていた。キッチンは反対方向だ。
 周りを気にするような足音が、向日葵の部屋の前を通り過ぎる。音から割り出される歩幅と体重で、それが誰のものか特定するのは容易だった。
 音が十分遠ざかるのを待ってから、向日葵は部屋を出た。
 緩やかなカーブを描く廊下。居住者に閉塞感を与えないよう、天井は高く設計されている。地下七階造り、およそ百人を十年間収容可能なこの建物は、とある国際機関の第二研究所として建造された。完成したのは第■次世界大戦のはじまる、ちょうどひと月前で、その頃はまだ、小国同士のいさかいが、たった数週間ですべての国を巻き込む争いになることも、各国が独自に開発していた新兵器がぶつかることで、未知の有毒物質が発生し、その粒子が世界を隅々まで覆うことになることも、誰一人予想していなかった。
 廊下の壁には窓を模したモニターが並び、季節によって姿を変える、豊かな森の映像を流す仕様になっている。夜の間は電源が落とされ、黒く冷たい画面が鏡のように廊下の景色を映しているだけだが、虚像の森よりもむしろこちらの方が現在の外の景色に近いだろう。緑の森など、もはや地球上のどこを探しても残っていないのだから。
 廊下のつきあたり、非常階段に繋がるドアのロックが外れていた。開けて覗いてみると、ペンライトの小さな明かりを頼りに階段を上っていく人影がある。向日葵は音を立てないようにドアを閉め、階段に足をかけた。
 地下農園になっている地下四階と、実験室の集まる地下三階を通り過ぎ、さらに上へ。
 地下一階は、非常階段とフロアが厚い防護ドアで隔たれている。向日葵は階段の途中で立ち止まり、重いそれを苦労して開ける息遣いを聞いていた。
 低い稼働音を立てる機械類に、冷却水のタンク、未使用のボートや気球。足音の主は、それらには目もくれず、まるで何かに急き立てられているかのように、フロアを進んでいく。
 地上活動用の車両や重機の奥に、黄と黒の目立つシャッターが現れた。いつもは下までぴったり閉じているそれが、腰ほどの高さまで上がっている。人が手動で持ち上げられる重量のものではない。一体、どのように動かしたのかと思ったら、操作パネルの脇に、所長のセキュリティカードが落ちていた。ここに来るまでにあった他のセキュリティも、これを使って解除したのだろう。カードを拾い、屈んでシャッターを抜ける。その先は、粒子を洗い流すための特殊シャワー室だ。壁にかけられた対粒子マスクと防護服が減っていないことを見て取り、向日葵はやや足を速めて、地上へ続くスロープを上った。
 
 巨大生物の骨のような石が点在するだけの、荒涼とした大地。それは、過去の写真に見る月面の風景によく似ていた。漂う有毒粒子のせいで、辺りは霧がかかったようにぼやけている。視覚を調整できる向日葵と違い、人間の目では、ほんの数メートル先までしか見えないだろう。
 北の方角に、水色のパジャマを着た少年の背中が見えた。
「ジョン」
 離れてはいるが、向日葵の声は届いたはずだ。だが、ジョンが足を止める気配はない。苛立ったように強く地面を踏みしめながら、どんどん研究所から離れていってしまう。
「ジョン、止まってください」
 もう一度呼びかける向日葵の背後で、研究所のドアが閉まった。戻って誰かに知らせるべきか考えたが、ジョンを見失うわけにはいかない。向日葵は少年の背中を追うことにした。
 冷たい風が、繊維状になった石を転がしていく。ジョンは白い砂丘を上り始めていた。足取りは重く、まっすぐ歩くことさえ厳しそうだ。丘を上りきったところでようやく追いつき、持ってきた対粒子マスクを差し出す。
「ジョン、マスクをしないと危険です」
 睨みつけるように向日葵を見上げるジョンの顔は蒼白で、額には汗が浮かんでいた。
「研究所へ戻りましょう」
「嫌だ」
 ジョンが唸るように言う。
「呼吸をするたびに、肺が痛むはずです」
「うるさい!」
 声変わり前の、高い声が辺りに響いた。
「痛みなんて、わからないくせに!」
 そう言って、向日葵の手からマスクを奪い取り、地面に叩きつける。砂が巻き上がり、浮遊する粒子と混ざり合った。
「何に怒っているのですか?」
 向日葵は首を傾げ、ジョンに尋ねる。
「……は?」
「あなたは今、何かに対して激しい怒りを感じています。対象を教えてください」
「僕が、何に、怒ってるか、だって?」
 ジョンが唇を噛み締め、肩を震わせた。
「この粒子も、世界も、何もかもだ!」
 
 雲の切れ間から、鋭利な刃物で端をそがれたような月が顔を出した。
 叫んだことで気持ちが落ち着いたのか、体力が限界だったのか、ジョンがその場に座り込む。ぜいぜいと、苦しそうに肩を上下させていた。向日葵が背後に回ってマスクを着けても抵抗せず、されるがままになっている。
「みんな、には、秘密にして」
 マスクで篭った声でジョンが言う。さきほどとは打って変わり、懇願するような口調だった。
「有毒粒子を大量に吸い込みました。しかるべき処置を受けるべきです」
「処置って、言ったって、できるのは、酸素カプセル、くらいじゃん。ちょっと、楽になるだけ。とにかく、言わないでよ」
 お願い、と言われ、向日葵はわかりました、と頷いた。研究所の人間の指示には従うことになっている。
「しかし、指示については、所長が最上位です。わたしから自発的に言うことはありませんが、所長に何か尋ねられたら、隠すことはできません」
「わかって、るよ」
 ジョンがいじけたように膝を抱えてそっぽを向いた。
 なるべく早く研究所に戻るべきだが、ジョンの呼吸が落ち着くまで待つことにする。マスクを着けたので、十五分程度であれば大丈夫だろう。
「どこへ行こうとしていたのですか?」
「べつ、に」
「ここから北へ向かうと、教会があります」
 ジョンが、向日葵の指さした方向をちらりと見た。
「そう、なんだ」
「約四百年前に建造され、世界遺産にも登録されているものです。わたしは、あなたがそこへ向かっているのかもしれない、と考えていました」
 研究所にも、各フロアに祈りのための部屋がある。向日葵自身は祈ることができないが、それが人間にとって重要な行為であることは理解していた。
 だが、ジョンはこちらを小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、
「僕は、神様なんて、信じない」
 と言う。
「では、なぜ外へ出たのですか?」
「質問の、多い、ロボットだな」
「申し訳ありません。ですが、あなたが危険な行動をするに至った理由を知りたいのです」
「だから、べつに、理由なんか、ないって」
 ジョンが、足元にあった土の塊を摘まんで投げた。それは地面に落ちる前に、ぼろぼろと崩れて形を失う。
「ただ、無性に、外に出たくなった、だけ」
「ジョンは、養父母が嫌いですか?」
「は?」
 ジョンが、何を聞くんだ、という顔で向日葵を振り仰いだ。
「好きに、決まってる、じゃん。所長も、おばさんも、優しい。それに、僕が、まだ生きてるのは、二人の、おかげだ」
 そこまで言って、
「ただ……」
 と口ごもる。
「ただ?」
「……あの人たちは、諦めてる。僕はまだ、諦めたくない」
 そう呟いて、ジョンは膝に顔を埋めるようにうつむいた。
 
 降り積もるわけでもなく、宙を漂う有毒粒子。その霧をすり抜けてきた月明りが、ジョンと向日葵、二つの淡い影を白い大地に落としていた。
「海の、匂いがする」
 多少呼吸の落ち着いたジョンが、きょろきょろと辺りを見回す。
「懐か、しいな。研究所に、入る前に、一回だけ、見に行ったことが、ある」
 方角的に、彼は海に背を向けているが、知らせる必要のない情報だろう。
「海は、どうなって、いるんだろう。少しは、綺麗になったかな」
 ひとり言のようだったので、向日葵は黙っていた。戦争と、その副産物である有毒粒子によって破壊し尽くされた自然。その中でも海洋の汚染は酷く、武器を取る人間がいなくなって数年が経過した今も、ヘドロのように黒く淀んだままだった。海に生きていた生命は死滅し、海岸は打ち上がった彼らの残骸で埋まっている。地球に、かつてのような青く美しい惑星の面影はない。自然が元通りになるには、少なくとも数万年かかるだろう、と所長は言っていた。否、元に戻るのではなく、これまでとはまったく異なる生態系が築かれるだろう、だったか。リセットではなく、強制終了。有毒粒子は、果てしなく長い時間をかけ、すべてを少しずつ分解する。人間が時間と労力をかけて積み上げてきた歴史は、何ひとつ残らない。報いだ、という者もいれば、神の導きだ、という者もいた。どちらの論者も、等しく死んでしまったのだが。
 そろそろ戻りましょう、と向日葵が言おうとしたとき、突然、ジョンが映画のタイトルをいくつか挙げた。
「知ってる?」
 向日葵は頷く。
「知っています。いずれも、世紀末や、荒廃した世界が舞台の作品ですね」
 それらの映像データは、娯楽室のミニシアターにも入っていた。しかし、戦争がはじまって以来、一度も再生されていない。反対に、以前は人気のなかったコメディ映画だったり、何シーズンもある連続ドラマだったりの再生回数は増えていた。何も考えずに観られるから。そう言ったのは、半年前に拳銃で自分の頭を撃ち抜いた研究員だ。熱心に観ていたドラマを、最終回だけ残して、彼女はこの世を去った。どうして最後まで観ていかなかったのだろうと、向日葵は今でも疑問に思っている。
「僕さ、好きなんだ。生き残った人間が、ゾンビとか、宇宙人とか、と戦ったり、病気の、治療法を、探し出して、みんなを助けたり、するやつ」
「ジョンのプレイしているゲームも、そのようなテーマのものが多いですね」
 向日葵の声に、なんで知ってるんだよ、とジョンが顔をしかめた。
 ジョンは現状を気に入っているのだろうか、と向日葵は考える。だが、さきほど彼は、この世界に対して怒っていると言った。好きなのであれば、怒りの感情は抱かないだろう。
 難しい、と向日葵は思う。研究所に残っている人間の中で、ジョンの思考と行動が、もっとも予測が難しかった。彼が子どもだからだろうか。できれば、他の生きた子どものデータも集めたいところだが、それはもう不可能だ。
「研究所には、食料も、水もあるから、人間同士で、醜く争う、こともないし、ゾンビとか、宇宙人、どころか、肉食獣もいない。恵まれた、世紀末だよね。でも、長生きは、できない。そうでしょう?」
「そう考えられています」
 研究所は、実験的な核シェルターも兼ねていた。当時最新だった空気ろ過システムは、有毒粒子にも一定の効果がみられたが、完全に防げているわけではない。ジョンの言った通り、粒子は少しずつ、しかし確実に地下に侵入し、全員の身体を内側から蝕んでいる。
「こんな、掴めもしない、小さいやつ、どうしようもないし、世界を救う装置だって、どこにも、あるわけない。たとえ、あったとしても、これから旅をして、見つけるなんて、無理だ。そのくらい、わかってるよ。でも、僕は、何もせず、ただ、死ぬのを待ってるだけっていう、今の、この状況が、嫌なんだ」
「ですが、そもそも人の一生とは、死を待つものではないのですか?」
「そんな、虚しいこと、言うなよ」
 ジョンが悲痛な声を上げる。
「虚しいでしょうか」
「お前は、死なないから、そういうことが言えるんだ」
「申し訳ありません」
「死ぬのが怖い、気持ちなんて、わからないくせに」
「ジョンは、怖いのですか?」
 向日葵が聞くと、ジョンが口を開きかけ、すぐに閉じた。それから、再び膝に顔を埋める。
「……怖いよ。覚悟していても、やっぱり、死ぬのは怖い」
 研究所の外に出ることは、間違いなく命を短くする行為だ。ジョンの発言と行動は矛盾している。しかし、向日葵は指摘せず、ただ、丸まった小さな背中を見ていた。
 このようなとき、人間同士であれば、同情や慰めの言葉をかけるのだろう。しかし、向日葵は造られた命だ。どれだけ優しい言葉を並べたところで、ジョンを不快にさせるだけに違いない。そう判断し、やはり黙っていた。
 やや強い風が吹く。ジョンが身震いし、自分の身体を抱くようにした。
「寒いですか?」
「寒い」
 答えてから、ジョンがふっと、息を漏らすように笑った。
「寒いって思うの、久しぶり」
「研究所内は、常に快適に過ごせる温度に設定されていますから」
「僕、研究所の外に出るの、四年ぶりなんだ」
「そうでしたか」
「この霧、ちっとも晴れないね」
 言いながら、ジョンが空中でひらひらと手を動かす。その付近だけ、煙のように粒子が乱れた。
「少しは、マシになってる、かと思ったのに」
「もっと出ているときもありますよ」
「お前って、ロボットだけど、ロボットじゃない、進化する、新しい存在なんだろ? 奇跡とか、魔法とか、起こせないの?」
「奇跡とは、具体的にどのようなものですか?」
「わかんないけど、なんかさ、この粒子を、無害なやつに、変えたり、ぜんぶ、吸い込んで、消せたり」
「できません」
 向日葵は答える。
「博士が生前わたしに組み込んだ進化プログラムは、わたしの内面に対して働くものであると予測されています」
「予測されてる、って、お前自身も、わかんないの?」
「はい。博士からわたしを受け継いだ所長も、詳しいことは知らされていないと言っていました。発動条件も不明です」
「ふぅん……」
 ジョンがようやく立ち上がった。向き合うと、向日葵の方が、拳一つほど背が高い。
「どうして、お前の方が、大きいんだよ」
「わたしに言われても、どうしようもありません」
「わかって、るけどさ。言いたかっただけ」
「あと半年もすれば、ジョンの方が大きくなるでしょう」
「そうかな」
「はい」
 子どもの成長は早い。実際、ジョンは一年前より二インチ以上背が伸びていた。
「ところで、お前の名前、向日葵だよね。なんで? 目の色からつけたの?」
 ジョンが、向日葵の鮮やかな黄色の目を覗き込むようにする。
「そうかもしれません」
 向日葵の名づけ親――博士の妻だ――は、二十年前に他界しているため、名前の由来を聞くことはできない。だが、所長曰く、花好きな人だったらしいので、その可能性は高いだろう。
 ジョンが向日葵から目を逸らし、遠くを見るようにした。
「……僕のお母さんさ、向日葵が、好きだったんだ」
「日回り草ですね。キク科の一年草です」
「よくわかんないけど、向日葵は、向日葵だよ。庭に、たくさん植えていた。知ってる? あれって、ものすごく、大きくなるんだ。太陽さえ、当たっていれば、馬鹿みたいにさ」
 戦争で全部燃えたけど。
 どうでもよさそうにジョンは言って、足元の石を蹴った。石は一度跳ねてから、二つに割れて落ちた。
 ジョンが疲弊していたので、背負って研究所へ戻ることにした。嫌がるかと思ったが、屈むと素直に身体を預けてくる。
 立ち上がった拍子に、ジョンの顎が向日葵の後頭部にぶつかった。ゴン、と鈍い音が鳴る。
「痛い」
「しかたありません。髪も人毛より硬いので、気をつけてください」
 言いながら、慎重に丘を下りる。背中が、ジョンの体温を感知していた。平熱より一度以上高い。発熱しているようだ。
 体温の他に、伝わってくるものがあった。どくんどくんと、規則的なリズム。心臓の鼓動だ。
 向日葵にはないもの。生きているということ。
「人間って、死んだら、どこへ行くと思う?」
 ジョンの声が耳元で聞こえる。
「わかりません」
「先に、死んだ人に、会えるかな」
「会いたい人が、いるのですか?」
「そりゃまあ、お父さんと、お母さんには会いたいし、友達とか、昔飼ってた、犬にも会いたい。……実は、あんまり、覚えてないんだけどさ」
「そうですか」
 ジョンが咳き込んだ。向日葵は立ち止まり、咳が収まるのを待つ。
「苦しいですか?」
「うん。なんか、久々に、生きてるって、感じがする」
 マスクの中で、ジョンが投げやりに笑った。
 向日葵には、ジョンの言った意味がわからなかった。
「あなたは、生きていますよ」
 向日葵の言葉に、ジョンがぴくりと身体を強張らせる。
 それから、向日葵の肩に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「どうしました?」
「僕、さ……」
 ジョンの声は震えていた。向日葵は前を向いたまま、言葉の続きを待つ。
「やりたいことが、たくさん、あったんだ」
「はい」
「行きたい場所も、たくさん、あって……」
「はい」
「歴史の教科書に載るくらいの、世界の誰もが、僕の名前を、知ってるくらいの、大人に、なりたかったんだ」
 歴史に名を刻む。以前の世界であれば、誰もがその夢を抱くことができた。しかし、社会システムそのものが崩壊してしまった今では、それが限りなく不可能であることくらい、ジョンよりもっと小さな子どもでもわかるだろう。
「僕が、ここで、生きていたことを、誰も、覚えていて、くれない」
 ジョン・ドゥ。本名がわからない人や、身元不明の遺体の仮名に用いられる語だ。
 誰も知らないジョン・ドゥ。本当の名前を呼んでもらえないジョン・ドゥ。
「わたしは、覚えていますよ」
「お前じゃ、だめなんだよ」
「だめですか」
「だめなんだ」
 そこまで言って、ジョンがまた咳き込む。
「ジョン、あまり話すと――」
「……こんなところで、死にたくない」
 掠れた声で、振り絞るように、ジョンは言った。
「一体、誰がこんな世界にしたんだよ!」
 幼い叫びが、何もない大地に響く。
 どん、と背中に衝撃があった。
「大嫌いだ。何もかも、大嫌いだ!」
 どん、と再度、ジョンの拳が背中を打つ。向日葵はかまわず歩き出した。ジョンの力では、向日葵にダメージは与えられない。彼も、そんなことはわかっているだろう。
「諦め、たくない……」
 ジョンは泣いていた。泣きながら、怒っていた。
 向日葵は空を見上げる。いつの間にか雲が晴れ、粒子の霧の奥に、満点の星空が広がっていた。
 一つの星が滅びようとしていても、宇宙は何も変わらない。これからも、きっと変わらないだろう。
「ジョン、星が綺麗ですよ」
 向日葵がそう言っても、ジョンは顔を上げなかった。ただ、声を上げて泣き続けていた。
 
 ジョンが次の季節を迎えることはなかった。
 向日葵の背を追い抜かすことなく、声変わりも迎えないまま、彼の人生は唐突に幕を閉じた。
「どうして? どうして先に逝ってしまうの?」
「あまりに早すぎる」
 所長も奥さんも、動かないジョンを抱きしめて、ずっと泣いていた。
 夜明け前、奥さんが泣き疲れて眠っている間に、向日葵は防護服を着た二人の研究員とともに、ジョンを外に埋めに行った。
「死後の世界というのは、存在するのでしょうか」
 向日葵が問うと、
「ないんじゃねぇか?」
 と、研究員の一人が答える。
「その議論も、ずいぶん前に飽きるほどしたわね」
 薄闇の中、そんな会話をしながら長方形の穴を掘る。研究所に来てから三十二つ目の穴だった。
「こんなもんだろう。掘り起こす動物もいねぇから、浅くていい」
 できた穴に、新品のシーツに包まれた、ジョンだったものを横たえて、乾いた土をかけていく。
「まさか、一番若い子がねぇ……」
「最後に一人寂しく残されるよりは、良かったかもしれんぞ」
「あと五人か。次は誰かしらね」
 穴を埋めるのは、掘った時間の半分もかからなかった。向日葵は均した地面を見る。
 彼の体はすぐに朽ちて土になるだろう。もう、無力さが彼を襲うことも、死への恐怖に怯えることもない。
 あの夜、ジョンが向日葵に漏らした感情は、結局誰にも届かないまま、彼が抱えて持っていってしまった。セキュリティカードの使用履歴を消去し、所長の元に戻したのは向日葵だ。だが、それは正しい行動だったのだろうか。もしかしたら、彼は自分の気持ちを知ってもらいたくて、外に出たのではないだろうか。向日葵でなく、自分と同じ、他の生きた人々に。
 穴を掘っている最中に、向日葵はその可能性に思い至った。だが、それを本人に確かめる術はない。
 カーテンを開けるように、空の片側が明るくなっていく。
「夜明けだ。久しぶりに生で見たな」
「ご感想は?」
 向日葵が尋ねると、研究員が、ははっ、と乾いた笑い声を立てた。
「そうだな。美しいよ。美しくて、壮大で、人間のちっぽけさに絶望するね」
「そうですか」
 よくわからなかったが、向日葵は頷く。
「アラームが出たわ。そろそろ戻りましょう」
「あ、待ってください」
 向日葵はポケットから縞模様の種を一粒取り出し、ジョンを埋めた穴の上に置いた。二年前に亡くなった研究員がくれたものだ。これは食用で、埋めても花は咲かないと言われたけれど。
「なあに、それ?」
「向日葵の種です」
「種?」
 もし、これから先、人間の言う『奇跡』が起こって、大地がすっかり元通りになったら、彼の上に本物の向日葵の種を植えてあげよう。そして、彼の本当の名前を記したプレートを添えるのだ。
 その向日葵は太陽の光を浴びて、きっと、馬鹿みたいに大きくなるだろう。
 そして、彼の名前とともに、世界中に知れ渡るのだ。
 
 今度は、燃えないといい。                                              
                     
                                                 
           了


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