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短編小説『あの薔薇を壊すとき』

第227回オレンジ文庫短編小説新人賞(2023年8月応募)で「もう一歩の作品」だったものです。
 はじめて首尾一貫()した主人公が書けた気がして、個人的に気に入っています。

※注意※ 暴力・流血表現があります。苦手な方はご注意ください。





  あの薔薇を壊すとき

 私がその薔薇に出会ったのは、小学校一年生の冬だった。

 場所は、比較的名の通った製菓専門学校の、卒業制作の展示会。母方の親戚がそこに通っており、招待券を貰ったのだ。

 会場には、生徒たちの集大成である、ケーキだったり、和菓子だったり、パンだったりが展示されていて、訪れた人々の目と鼻を楽しませていた。どこへ行っても甘い匂いに満ちていて、ちょっと胸がむかむかするくらい。

 その中に、特に素晴らしいと評価された作品を集めたコーナーがあり、飴細工の薔薇も、そのうちの一つだった。

 たった一輪、赤と緑の飴を組み合わせてつくられた薔薇。冬の朝、バケツの表面に張る氷みたいな薄い花弁がいくつも重なって、茎には、触れたら刺さりそうなトゲがちゃんとついていた。

「まあ、よくできてる」

「ほんと。でも、よくあるモチーフよね」

「そうね」

 香水臭いおばさん二人が、そんなことを言いながら通り過ぎていく。それが、薔薇を見たほとんどの人の反応だった。私の両親も、薔薇は一瞥しただけで、すぐに隣の、チョコレートでできた車の方へ行ってしまう。

 それでも私は、その薔薇から目を離すことができなかった。

 かんぺきだ、と思った。

 触れたら割れてしまいそうな半透明の赤い花弁も、まっすぐではなく、やや曲がっている茎の太さも、均一ではないトゲの尖り方も、すべてが、私の思う“かんぺき”に当てはまっていた。

「凛、行くよ」

 母が引き返してきて、薔薇の前から動けないでいる私の手を引いた。

「クッキーのお土産があるんですって。いただいて帰りましょう」

「お母さん」

「なあに?」

「飴は、舐めたら溶けちゃうよね」

「そうね」

「ここに飾ってあるやつは、どうなるの?」

「みんなで分けたり、食べたりするんじゃないかしら。ナマモノだから、ずっと飾ってはおけないし。ああでも、こういう展示用のって、保存料とかたくさん使っているだろうから、捨てちゃうのかもしれないわね」

 それを聞いて、私は泣き出したい気持ちに襲われた。あの薔薇も、捨てられてしまうのだろうか。いや、たとえ大切に食べられるにしても、解体することには変わらないのだ。誰かの指が、花弁をはがし、棘を外し、茎を折る。小気味良い音を立てて、薔薇は完璧ではなくなっていく。想像するだけで悲しく、悔しかった。けれど、そのときの私には、それの一体何が悲しいのか、悔しいのか、自分の中に生まれた感情を、正しく理解できていなかった。

 

 チャイムの音に、教室にいた中学生たちが一斉に動き出す。一目散に教室を出ていく者、部活動へ向かう者、友達と雑談をはじめる者。グラウンドを見下ろすと、サッカー部がさっそくボールを転がしていた。

「凛ちゃん」

 飛び跳ねるように私の席に来たのは、隣のクラスのK美だった。机に両手を突き、私にずいと顔を近づける。大きな目に、栗色のふわふわとした髪。薄いピンク色のリップクリームは、たった今、唇に乗せてきたのだろう。

「一緒に帰ろう」

「いいよ」

 私が答えると、K美が、やったぁと幼い子のようにはしゃいだ。

「うわ出た、ぶりっこ」

 聞こえよがしに言ったのは、隣の席の野球部だ。K美が、なによぉ、と頬を膨らませると、彼は半ば呆れたように、

「中三にもなってそれはイタいわ」

 と言う。

「うっさいな。凛ちゃん、行こう」

「うん」

 立ち上がり、野球部に、

「また明日」

 と声をかけると、彼は赤くなって顔をそむけた。それを見たK美が、

「赤くなってやんの」

 と鼻で笑う。毎日のやり取りだ。


 制服から出た腕を、初夏の生ぬるい風が舐めていく。

「凛ちゃん、四組の〇〇に告られたんでしょう?」

 横を歩くK美が、わざわざ前かがみになって、私を見上げるようにして言った。

「どうして知ってるの?」

 私は尋ねる。休み時間のたびに私の席にくるK美は、けれど、とても情報通だった。

「みんな話してるもん。〇〇くんまでフるとは、さすがマドンナ佐藤凛って言われてるよ。あと、年上の彼氏がいる説が、より濃厚になった」

「みんな、そういう話が好きだよね」

「でもね、K美、凛ちゃんが○○くんとつき合わなくてよかった、って思ってる」

「どうして?」

「だって、K美たちの学校に、凛ちゃんとつり合う奴なんていないもん」

 K美が両手を広げ、コマのようにくるりと回る。制服のスカートが広がり、すぐにしぼんだ。

「超絶美人で、頭が良くて、運動もできて、おまけに天女みたいに優しい凛ちゃんは、みんなの憧れで、目標なんだよ。ただの中坊にはふさわしくないよ」

 指を折りながら挙げられた言葉に、私は苦笑する。

「みんなが思っているような人間じゃないよ、私は」

「うん、知ってる」

 K美は笑顔をひっこめると、大げさに声を落とした。

「でもわたし、そんな凛ちゃんが大好き」

 腰に抱きついてきたK美の頭を撫でながら、

「ありがと」

 と、私は言った。

  

「凛ちゃん、今日、このクラスに転校生がくるんだって」

 朝、教室に入ると、K美が興奮した様子で私の席にやってきた。

「転校生? 半端な時期だね」

 教室全体がざわついているのも、そのニュースがあったからのようだ。

「あ、もう時間だ。また来るね」

「わかった」

 予鈴が鳴り、朝のホームルームがはじまる。担任に連れられて教室に入ってきた転校生は、すらりと背の高い女子生徒だった。

 色白の肌に、苺の果汁を垂らしたような唇。艶やかな髪は長く、高い位置でポニーテールにしている。そして、すべてを拒絶するかのような強い瞳。

 彼女を見た瞬間、心臓を撃ち抜かれたように、私は息ができなくなった。背筋を、ぞくぞくしたものが這い上がる。

 歓喜と、戸惑いと、怒りにも似た激しい衝動が、私の中で渦巻いていた。

「中原明里です」

 音の消えた世界に、彼女の少し掠れた声が反響する。

「……よろしく」

 ホームルームが終わった途端、数人の女子が明里を取り囲んだ。

「前はどこにいたの?」

「どうしてこの時期に転校してきたの?」

「家はどの辺り?」

 おそらく、全世界の転校生が聞かれるであろう定型的な質問が投げかけられる。教室にいたほぼ全員が――自分は興味ない、という顔をしている者も含め――、明里の答えに耳を澄ませていた。彼女の整った顔立ちや、モデルのような体型も、あるいは関係していたのかもしれない。季節外れの、美しい転校生。高校受験を控え、着実に緊張感を増す日々の中にいる生徒たちにとって、格好の非日常イベントだ。

 だが、明里の返答は、彼らの期待を跡形もなく打ち砕くものだった。

「申し訳ないんだけど、放っておいてくれない?」

 空気が凍りつく。話しかけた女子たちが、笑顔を張りつけたまま固まった。

「誰とも仲良くする気、ないから」

 明里はそう言うと、鞄から本を取り出して読みはじめた。

 当然ながら、明里の発言と態度はすぐに学年中に広まり、その日の放課後には、彼女の名前は、好ましいとは言えない評判とともに語られた。幸い、それだけの理由で疎外されたり、目をつけられたりするほど荒れた学校ではなかった。明里も、常時そのような態度というわけではなく、当たり障りのない――たとえば、授業の内容についてだとか、学校の行事についてだとか――話題であれば、ごく普通の受け答えをしていた。ただ、明里個人のことを聞いたときにだけ、たちまちシャッターを下ろし、壁をつくってしまうのだ。

「たしかに、卒業まで一年切ってるけどさ、もうちょっとフレンドリーでもよくない?」

 明里に話しかけ、冷たくあしらわれたK美が、私の席に来てぶつぶつと文句を言う。

「あなたが、プライベートなことをガツガツ質問するからでしょ」

 そう言う私は、できるだけ明里を視界に入れないようにしていた。そうしなければ、自分を抑えられなくなってしまいそうだったからだ。蝶にしろ鳥にしろ、捕まえるには焦りは禁物だ。後ろからそっと近づいて、油断したところを狙わなければ、彼らは感づいて逃げてしまう。

 二週間が経つと、わざわざ他のクラスから転校生を見物にくる生徒もいなくなった。また、その頃には、彼女の個人情報も、彼女の知らないところである程度広まっていた。本人が口を閉ざしていても、たとえば彼女の母親だったり、弟だったり、あらゆるところから情報は洩れるものだ。田舎の情報網は怖い、という言葉があるけれど、都会にだって糸は張り巡らされている。ただ少し、街の灯りに埋もれて見えにくいだけだ。

 とにかく、彼女は親の離婚により、母方の実家のあるこの町に引っ越してきたようだった。祖父母の家で、母親と、小学五年生の弟と五人で暮らしている。前の中学校ではバレーボール部に所属し、レギュラーメンバーとして活躍していたそうだ。私はその情報を、頭の中で何度も転がした。

 さらに一週間自分を焦らし、私はついに彼女に接触することにした。

 放課後、校門を出て駅へ向かう明里の後ろをついていく。十数メートル離れていたが、見失う気はしなかった。電車に乗り、彼女の降りた駅――彼女の家の、二つ手前の駅だった――で一緒に降りる。明里は駅北側の商店街に入った。特に用事や目的がないことは、ぶらぶらとした歩き方から見て取れた。アクセサリーショップを覗いた後、古本屋へ。二階建ての、比較的大型の店舗だ。本以外にも、CDやゲーム機を置いている。明里は漫画コーナーをざっと巡ってから、二階のCDコーナーへ向かった。まっすぐに、とある棚の前へ。私は遠目から、彼女の目線の先に並ぶCDのバンド名を確認し、隣の棚へ移動した。棚の端から端まで歩く間に、スマートフォンで検索をかける。バンドの結成日、メンバーの名前、楽曲の傾向、代表曲。それらをすべて頭に入れるのに、難しいことはなかった。数学の公式を覚えるより、ずっと簡単だ。スマートフォンをポケットにしまい、彼女のいる棚に入る。

 人の気配に顔を上げた明里と目が合った。

「あ」

 私はごく自然な声を出す。

「偶然だね。私、同じクラスの――」

「知ってる」

 名乗ろうとした私を、明里が遮った。

「佐藤凛。みんなのマドンナでしょう?」

「マドンナ?」

「才色兼備で、人気者だって」

「そんなことないよ」

「あなたも、転校生に興味があって話しかけてきたの?」

「違うよ。本当に偶然」

 私が答えると、ふうん、と、どうでもよさそうな様子で明里が言う。けれど同時に、こちらを探っていることも伝わってきた。

「いつもあなたにつきまとってる子は?」

 ほら、こんな風に、まだ壁ができていない。

「あの子なら、今日は塾」

 他に何か聞かれる前に、私は手を伸ばして棚のアルバムを一枚抜き取った。

「中原さん、このバンド好きなの?」

「そうだけど……」

「私も好きなんだ」

 言うと、明里は冷めた目を私に向けた。

「嘘はいいよ。こんなマイナーバンド、知ってるわけないじゃん」

 険のある口調で言われる。私は、本当だよ、と微笑んだ。

「ボーカルが北海道出身でしょう? 私、おじいちゃんが北海道に住んでるの。だから、向こうのCDショップに、このバンドのコーナーがあって」

 さきほどインプットした情報を使って答える。効果はあったようで、彼女の瞳がはっきりと揺らいだ。

「そう……、なんだ」

「中原さんは、どの曲が好き?」

「サードアルバムの、『あの日』が……」

「わかる。物語性というか、ノスタルジックさが前面に出ていいよね」

 私が言うと、半信半疑だった明里の顔つきが変わった。

 手ごたえあり。私はにっこりとする。

「ほんとに知ってるの?」

「そう言ってるじゃん。私は、ファーストアルバムの、『君はバラ』が好きかな。こう、誰にも伝わらない切なさ、みたいな」

「わ、わかるっ」

 明里が前のめりになった。言葉の後半は当てずっぽうだったけれど、どうやらうまく働いたようだ。

「語れる人、はじめて会った」

 明里が、興奮を抑え切れていない声で言う。

「私も。このバンドが好きって言うと、マイナーすぎて逆にカッコつけてるみたいに思われるもんね」

 うんうん、と明里が力強く頷く。

「よかったら今度、二人で語り合わない?」

 

 その日の夜、私は動画サイトで、明里の好きなバンドの曲を片端から聴いた。幸い、曲数はそれほど多くない。一度楽曲がアニメのオープニングに起用され、一部界隈で有名になっただけの、自己陶酔型バンドだ。最近は、かつてヒットした曲をなぞるようなものばかり作っている。

 歌詞や、ファンの書いたライブの感想ブログなども読み、布団に入る頃には、私の頭の中には、彼らの結成当時からのファンを名乗れるほどの情報が入っていた。

 数日後、私は約束通り、明里と二人でバンドについて語り合った。場所は、商店街の中にあるファーストフード店だ。

「嬉しい。こんなに話せる人、はじめて会った」

 私がバンドについて語る言葉を、明里は微塵も疑わなかった。

「佐藤さん、あまりにも完璧で話しにくいイメージだったけど、間違ってた」

「完璧なんて、そんなことないよ。みんながそう勝手にイメージづけてしまっているだけ。窮屈な洋服だよ」

「あ、それって、セカンドアルバムの――」

「『誰かのビーナス』」

 声が被る。それから、私たちは顔を見合わせてくすくすと笑った。二人だけの共通事項、閉ざされた世界、というのは、自分が特別で、孤独で、大人にはわかってもらえないと思い込んでいるティーンエイジャーにとって、格好のよりどころだ。それを表すように、明里はもう、完全に私を信じ切っている。

 話していると、店内のラジオが十七時を知らせた。

「もう五時か。中原さん、時間は大丈夫?」

「うん。あんまり家にいたくないの」

「そうなの?」

「おじいちゃんも、おばあちゃんも優しいんだけど、それがかえって苦しいっていうか……」

 明里が、自分の家のことをぽつりぽつりと話しはじめる。私は神妙な顔で、相づちを打ちながら聞いていた。K美から聞いた情報以上のものは得られなかったが、それを話す明里の表情は、スケッチして飾っておきたいほど素敵だった。


「凛ちゃん、昨日、あの子と一緒にいたって本当?」

 翌日、K美が私の席に来るなり言った。

「あの子って?」

「転校生だよ。中原明里」

「中原さん? うん、商店街でね」

「どうして?」

 K美が、裏返った声を出す。隣の野球部が、ちらりとこちらを見た。明里はまだ登校していない。

「たまたま、同じバンドが好きだったの。だから、意気投合して」

「バンド? なんて名前?」

 私はバンドの名前を言った。

「そんな話、聞いたことない」

 K美は、ショックを受けたような顔をしている。

「最近知ったの」

「わたし、凛ちゃんが音楽聴かないの、知ってるもん」

 そのとき、明里が教室に入ってきた。ドアから近い席の、誰にでも挨拶をする学級委員長が、「中原さん、おはよう」と声をかける。すると、いつもは返事をせず、つんとしたまま席に向かう明里が、おずおずと、

「おはよう」

 と返した。それを見た女子三人が、驚いた風に顔を見合わせてから、

「おはよう、中原さん」

 と口々に言う。明里はしっかりと彼女たちを見て、挨拶を返した。三人が、ぱっと嬉しそうな顔をする。善良な人たち。

 席に腰かけた明里が、振り返ってこちらを見た。私が笑いかけると、照れたような笑みを返す。

 気づけば、K美がいなくなっていた。自分のクラスに戻ったのだろう。私はスマートフォンを取り出して、カレンダーを開いた。夏休みまで、あと一週間。順調だ、と思った。

 数日後、教室で日直日誌を書いていると、K美が現れた。

「今日は塾じゃないの?」

 K美は自分の足元を見つめたまま黙っている。

「どうしたの?」

「あのね、わたし、凛ちゃんの特別になりたかったよ」

 しばらくして、泣きそうな声で、K美が言った。いつもの作った高い声ではなく、彼女の素の声だった。

「でも、どんなに頑張ったって、無理なんだよね」

 顔を上げたK美は、大きな目にたっぷりと涙を溜めていた。

「凜ちゃん、最近あの子しか見てないもん」

 そう言うと、下唇を噛みしめながら走って教室を出ていく。

「うーん……」

 わたしは、シャープペンシルを顎に当てて考えた。K美はきっと、私が追いかけてくるのを待っているだろう。場所はおそらく、下駄箱か、校門の陰。そして、私が行かなければ、とても傷つくに違いない。

 欠伸ひとつ分の間考えて、私は日誌の続きに戻った。きっと、今のK美には私が必要なのだろう。けれど、私には必要じゃないから。

 完成した日誌を持って職員室へ向かう。小テストの採点をしていた担任に渡すと、

「佐藤、中原のこと、ありがとな」

 と声をかけられた。

「何がですか?」

「ほら、はじめはちょっとつんとしてたけど、佐藤が自然に話しかけたり、接してくれてるおかげで、クラスにも馴染めてきてるだろ」

 私は微笑んで、

「彼女自身の変化ですよ」

 と答えた。

 終業式の日、私はスマートフォンで天気予報を確認してから、明里に声をかけた。

「ちょっと遠いんだけど、自習室が綺麗な図書館があるの。明後日の午後、一緒に勉強しに行かない?」

 明里は嬉しそうに、行く、と即答した。

 二日後、待ち合わせの場所に、明里は夏らしい、白いワンピースでやってきた。

「可愛い」

 私は心からその言葉を言う。明里は頬を赤らめつつ、

「佐藤さんも、私服、すごく似合ってる」

 と、私の服を褒めてくれた。

 自習室のテーブルで向かい合い、参考書を広げる。私語は禁止なので、黙々と問題を解いた。私はたまに目線を上げて、明里を隠し見る。眉間にシワを寄せて数学の問題を解く明里。うとうとして、ペンを手から落とす明里。こっそり欠伸をする明里。見ていて飽きないし、これから起こることを考えると、胸が高鳴って勉強どころではなかった。

 二時間後、十五時の時報が鳴った。顔を上げた明里に、私は声を出さずに、休憩しよう、と伝えた。

「冷房、ちょっと寒かったね」

「うん、腕が冷えちゃった」

 自動販売機でジュースを買い、図書館横の公園に入る。夏の昼下がり、日差しは強いが、公園内は木々が生い茂っていて、まるで、深い森の中にいるみたいだった。遊歩道からぽつんと離れた場所のベンチに並んで座る。

「あ、ジュースこぼしちゃった」

「そのハンカチ、可愛いね」

 私が鞄から出したハンカチを見て、明里が言った。

「でしょう?」

 私はハンカチを広げてみせる。縁に薔薇の刺繍のついた、真新しいハンカチだ。

「もしかして、誰かからのプレゼント?」

 その言葉を受けて、私はうん、と、恥ずかしがっている風に下を向いた。

「え、何? 誰に?」

「いとこのお兄ちゃん」

「年上?」

「今、大学二年生。すごくかっこいいんだよ。東京で、おしゃれなアパートの四〇四号室に住んでるの。変わってるでしょう?」

「佐藤さん、もしかして、その人のこと好きなの?」

 私はもじもじしながら、小さく頷いた。

「わぁ、佐藤さんも、恋バナとかするんだ」

「するよぉ、もちろん。私だって、普通の女の子だもん」

 二人の笑い声が、公園の一画に響く。勉強会であることも忘れ、私たちはおしゃべりに花を咲かせた。

「佐藤さん、あのさ……」

 急に、明里が口ごもる。

「なあに?」

「下の名前で、呼んでもいい?」

「もちろん」

 私は答える。なんて光栄なのだろう。

「私のことも、よかったら明里って呼んで」

「うん、そうする」

 私たちは再び顔を見合わせて笑った。青春の一ページに加わるような、素晴らしい時間だった。

「あ、もうこんな時間。そろそろ帰ろっか」

 私は立ち上がる。明里はまだ話し足りないという顔をしていたが、私につられて腰を上げた。

 駅へと歩いているうちに夕日が沈み、街灯が存在を主張しはじめた。

「り、凛ちゃんは、電車だっけ? わたしはバスだから、あっちだ」

「うん、そう。あ……、あれ?」

 私はがさごそと鞄を漁る。

「どうしたの?」

「ハンカチがない」

「え? あの、いとこのお兄さんにもらったやつ?」

「落としちゃったみたい。さっきのベンチのところだと思う」

「戻る?」

 明里の言葉に、私は少しの間考えるようにして、

「ううん、いいの」

「でも……」

「今日はもう遅いし、明日また来て探してみる」

 でも、と言う明里に、私はいいから、と明るい表情で――でも、眉毛は少し下げて――言った。

「夜は危ないし、今日は帰ろう?」

 明里はまだ気にしているようだったが、手を振り合って別れる。私は駅へ。明里はバスターミナルへ。私は駅の手前で物陰に入り、バスターミナルの方を窺った。

 迷うように歩いていた明里が、ふいに立ち止まり、強い意志を感じさせる足取りで公園へ引き返していく。

「明里さん……」

 私は胸がいっぱいになった。

 完璧だ。

 久しぶりに見つけた、私の完璧。

 明里の後を追いながら、私は幼い頃に見た飴の薔薇を思い出していた。あのとき限り、この世界にあった完璧。完璧なものは、いつかは完璧でなくなってしまう。だから私は、何年もかけて、完璧なものを、完璧なまま私の中に縫いつけておく方法を考えた。

 公園内のトイレに入り、昨日のうちに隠しておいたビニール袋を取り出す。手早く準備をして、最後に、ゴミ捨て場で拾った長靴を履いた。

 木の陰から、つい数十分前まで座っていたベンチを見る。そこには、スマートフォンの明かりで、友達のなくしたハンカチを探す少女の姿があった。彼女は探し物に夢中で、周りをまったく見ていない。この公園は、夜になるとホームレスや頭のおかしい人が集まるため、一般市民は滅多なことでは寄りつかない。けれど、この地に来たばかりの少女は、そんなこと知る由もないだろう。

 私は木に背中を預け、深呼吸をして心を落ち着かせた。見上げると、木の葉の間には天の川。美しいけれど、星には手が届かない。

 一匹の白い蛾が、私の前を通り過ぎる。それを合図に、私は勢いよく飛び出した。

 足音に振り返った明里に、全力で体当たりする。細長いナイフが、少女の無防備な腹に突き刺さった。カエルや猫や犬とはまったく違う、弾力と重み。

 ぐうう、と耳元でうめき声がした。私は手に、さらに力を込める。乙女の処女を奪うように、深く、奥へ、抉るように。

 ナイフを引き抜くと、穴の開いたバケツのように血が噴き出し、私の羽織ったレインコートを濡らした。

 明里が地面に両膝をつく。何が起こったか、わかっていない様子だった。私はレインコートのフード上げて、自分の顔をはっきりと見せる。見開かれる目。

 その目を見た瞬間、頬が、身体が、沸騰するみたいに熱を持つのがわかった。ぶるりと力が抜け、手からナイフが滑り落ちる。私は自分の身体を抱きしめた。

「ああ……、ああ!」

 目の前が真っ白になるほどの快感が、電流のように全身を駆け巡る。甘美で、脳が溶けるほどの痺れだった。

「明里さん……。ああ、明里さん!」

 いつの間にか、明里は土の上で、魚のようにびくびくと痙攣していた。

「好き。大好き」

 私は泣いていた。明里の死が悲しくて、嬉しくて、切なくて、尊かった。

 涙を流す私の上に、ぽつりと水滴が落ちてくる。予報通り、雨が降り始めたのだ。

 雨は、もう動いていない明里の上にも等しく降り注ぐ。ワンピースについた血が、水で薄まってさらに染みを広げていく。

 強くなっていく雨に打たれながら、私はまた、薔薇のことを考えていた。


 あの薔薇も、私が壊したかった。

                     了

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